027 二つの波紋
昼食を食べ終えると、リリィはすぐに図書室へ戻り、計算のお勉強の本を抱え、廊下を駆け出した。
(リーベルに会いに行こう!お勉強を教えてもらいたいし、それに……)
「恩返し」のことを話したかった。リーベルのように、自分の夢を反映させた恩返しをしたいという考えを、早めに伝えておきたかった。
扉の前に立ち、軽くノックをする。
「リーベル、入ってもいい?」
数秒の沈黙の後──
「……うん。」
くぐもった声が返ってきた。
扉を開けると、部屋の中には静かな空気が流れていた。
リーベルはテーブルに向かい、一人で黙々と昼食を食べている。
リリィの姿を見ると、一瞬だけ表情が和らいだ。
「今日も来たんだね。」
「うん。」
彼女は微笑んだが、それもほんの一瞬。すぐにまた真顔に戻り、静かに食事に向き直った。
リリィはそっとベッドの近くに歩み寄る。すると、テーブルの上に分厚い本が置いてあるのが目に入った。
「リーベル、その本、何?」
「……植物学の入門書だよ。」
リリィは興味を引かれて、本の表紙をそっと開いた。
中には、たくさんの植物の写真と、聞いたこともない難しそうな言葉が並んでいる。
「うわぁ……なんだか、すごく難しそう……。」
リーベルはスプーンを持つ手を止めずに、淡々と答えた。
「うん。でも、読むのは楽しいよ。」
リリィはページを何枚かめくってみたが、やはり内容はちんぷんかんぷんだった。すぐに本を閉じ、素直な感想を伝える。
「リーベルってすごいね。こんな難しいことを勉強してるなんて。」
すると、リーベルは短く「ありがとう」とだけ呟いた。
……やっぱり、なんだか元気がない。
本当は聞きたかった。
(元気ないの? 何かあったの?)
でも、その言葉は飲み込んだ。
何があったのかはわからない。でも、リーベルが何かを抱えていることだけは、はっきりと感じる。
ふと、旦那様との会話を思い出す。
──もし友達が取り返しのつかない失敗をしてしまったら、どうする?
(……そばにいよう。)
そう答えたとき、心に浮かんでいたのは、まぎれもなくリーベルだった。
リーベルは今、どんな気持ちでいるのだろう。何か失敗しちゃったのかな?それは分からない。けど、明らかに普段よりも落ち込んでいる。だから……
(今は、そばにいよう。)
それが、リリィが出した答えだった。
リリィは持ってきた計算の本を抱え直し、リーベルに向かって言う。
「ねえ、ここで少しお勉強してもいい?」
リーベルは食器を片付けながら、リリィをちらりと見た。
……そして、何も言わずに、静かに頷いた。
それだけで十分だった。
リリィはリーベルの部屋の机を使い、勉強を始めた。部屋の中に、静かな時間が流れ始める。
言葉はなくても、同じ空間にいるだけで、不思議と安心できた。
──リリィは机に向かい、黙々と計算の問題を解き続けていた。リーベルの部屋には、ペンの走る小さな音と、窓の外から吹き込む風の音だけが静かに響いている。ときおりリーベルの気配を感じながらも、リリィはひたすら数字と向き合っていた。
すると、ふいに声がした。
「……分からないところがあったら、遠慮せず……聞いてね。」
その声に顔を上げると、リーベルはベッドに腰掛け、窓の外をぼんやりと見つめたままだった。
リリィは一瞬、きょとんとする。
(……分からないところなんて、今はないけど……)
それよりも、ややぎこちない口調を少し不思議に思った。しかし、「うん、ありがとう」とだけ返し、また本に視線を戻した。
それからまたしばらく、静かな時間が流れる。
リリィが、またいくつかの問題を解き終えたとき──
「ダンッ!」
リーベルが急に立ち上がった。
リリィは驚いて後ろを振り返る。
リーベルはどこか落ち着かない様子で、おずおずとリリィへと近づいてきた。
「ご、ごめんね、リリィ……ちょ、ちょっと……話そうよ……」
申し訳なさそうにしながらも、リーベルはリリィの手をそっと引く。
「勉強だけ、なら……自分の部屋で、できるでしょう?」
リリィは思わず息をのんだ。
リーベルの手は、少しだけ震えていた。
「わたしと……話しに来たんじゃ、ないの……?」
弱々しくも、どこか必死な声だった。
リリィは、リーベルの瞳を見つめる。いつも明るく、みんなが慕う存在である彼女が、こんなふうに自分を求めてくるのは初めてだった。
(……やっぱり、元気がないんだ。)
何を考えているのか、何があったのかはわからない。
でも──
「うん。」
リリィは静かに頷くと、手を引かれるままベッドに腰を下ろした。
リーベルは少し安心したように、リリィの隣に座る。
窓から入る風が、そっとカーテンを揺らした。リーベルはゆっくりと息を吐き出し、静かに口を開いた。
「……午前中ね、一人で勉強してたら……たくさんの女の子が、この部屋に来たの。」
リリィは黙って耳を傾ける。
「最初は、いつもみたいに誰かが訪ねてきたのかと思ったけど……次から次へと来て……休憩時間の間に、6人も。」
リーベルは膝の上で手を組み、視線を落とした。
「いつもいろんな相談を受けるけど……一日に一人来るか来ないかだったのに。」
その言葉に、リリィは少し驚く。
(リーベルって……そんなに普段から相談を受けてたんだ。今日は、6人って……)
「いつもはね、勉強のこととか、友達のこととか……でも、今日来た子たちは……」
リーベルは苦笑して、肩をすくめた。
「みんな、口を揃えて……ヴェルメイン先生のことや、お屋敷のことを聞いてきたの。」
「……ヴェルメイン先生のことを?」
リーベルはこくりと頷く。
「どんな人なのか、どんな暮らしをしてるのか、お屋敷はどんなところなのか……そんなことばっかり。…わたしも知りたいくらいなのに。ちょっとしか答えられなかった。」
リリィは、リーベルの横顔をそっと覗き込む。
「……それで、なんでそんなことを聞くのか、私が尋ねたら……」
リーベルの指がぎゅっと組まれる。
「女の子たちは、『ヴェルメイン先生のお屋敷に行く人を決める話し合いがあるから』って言った。」
リリィは、リーベルの心が揺れているのを感じ取った。
「……そうだったんだ。」
小さく相槌を打つ。
「女の子たちが出て行った後……思ったの。」
リーベルの声が少し震えた。
「わたし、なんであのとき……『諦める』なんて、言ったんだろうって。」
リーベルは、何かを堪えるように唇を噛んだ。
「病気のこともあるし……仕方ないって思ってた。でも……」
静かな沈黙が落ちる。
「やっぱり……行きたいよ……」
そう言って、リーベルはゆっくりと目を閉じた。
リリィは、言葉を返せなかった。
けれど──
そっと、自分の小さな手を、リーベルの手の上に重ねた。
リーベルがゆっくりと目を開ける。
リリィは何も言わずに、ただ手を握る。
リーベルの後悔を、悲しみを、全部受け止めるように。
「……リリィ?」
「うん。」
それ以上、言葉はいらなかった。
リリィはただ、そばにいることを選んだ。
リーベルは少しだけ驚いたようにリリィを見つめ、そしてふっと、小さく笑った。
窓から吹き込む風が、二人の間をやさしく撫でていった。
リーベルはまた、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐように話し始めた。しかし、その言葉は今までの言葉とは違い、とても口にしずらそうだった。
「……わたし、ね……友達、今まで……一人も、いなかったの。」
その言葉に、リリィは目を丸くする。
「え……そんなこと、ないでしょう?だって、さっきもたくさんの女の子が……」
リーベルは小さく首を振った。
「違うの。確かに、たくさんの子に『友達になろう』って言われてきた。でも……」
リリィはリーベルの顔をじっと見つめた。
「わたし、病気のせいで……ご飯は一緒に食べられないし、あんまり遊べないでしょ?最初はみんな、気にしないって言ってくれる。でも、だんだんと会う頻度が減っていって……最後には、たまに相談をしに来るだけになる。」
リリィは息をのんだ。
「それって……」
「わたしにとっては、『友達』っていうより……ただ『相談をしに来た子』になっちゃうの。みんなにとっては、それでいいのかもしれない。でも、わたしにとっては……とても辛いの。」
リリィの手に包まれたリーベルの手が、ぎゅっとシーツを握りしめる。
「……両親もいないわたしは、誰にとっても、一番大切な存在になれない……それがすごく、悲しいの。」
その瞬間、リリィの胸が締めつけられるように痛んだ。自分には、親もいなければ、相談をしに来る子もいない。友達になろうだなんて言われたことすらない。
そして──
気がづけば、リーベルの背中にそっと腕を回していた。
リーベルの細い体を、ぎゅっと抱きしめる。
「……リーベル。」
名前を呼ぶと、リーベルの肩が小さく震えた。
リリィは思い出す。昨日の朝、突然リーベルに抱きしめられたことを。
「リリィ」という名前のことを思い出し、自分が何者か全く分からなくなり、自分という存在が煙のように消えてしまいそうに感じた。その時、リーベルは何も言わずに抱きしめてくれた。
抱きしめる側になって初めて分かった。わたしも、胸が痛い。どうしようもなく、悲しい。こんな痛み、一人じゃ耐えられない。だから、抱きしめるんだ。同じ痛み、同じ感情を、分け合うために……
きっと、リーベルはあの時、とても悲しかったのだろう。リーベルには元々名前がなく、ただ番号で呼ばれるだけだった。その悲しみは、少なくとも名前があるわたしよりも、相当深いものだったはず。さらには、今話してくれた秘密を、あの時も抱えていたのかもしれない。
(……リーベルは、悲しみを分け合える存在が、欲しかったのかな……)
だから──
リリィはそっと、リーベルの背中を撫でた。リーベルが少し驚いたように息を呑むのが分かった。でも、拒まれることはなかった。
「……わたしは、リーベルが一番、大切だよ。」
リーベルは小さく震えながら、ぽつりと呟いた。
「……無理に慰めなくて、いいよ……リリィの一番大切な人は、旦那様でしょう?」
「…うん。」
そう答えると、リーベルは息を詰まらせたように黙り込む。
リリィはそのまま、リーベルの温もりを感じながら、静かに背中を撫で続けた。
「でもね… それは、『命の恩人』として……そして、は… 『初恋の人』として… だよ。」
「……」
「…リーベルは、ね?わたしの、たった一人の……『友達』。」
リーベルの体が小刻みに震える。リリィは言葉を続ける。
「……わたしも、両親がいない。相談をしに来る子なんてもちろんいない… ここに来てまだ三日目のわたしは、誰にとっての一番にも、二番にもなれないよ……」
リーベルはただ、黙って聞いている。しかし、リーベルもそっと、リリィの背中に手を回した。
「……リーベルはまだ、わたしのこと… 友達って、思ってくれてる、かな。もし、そう思ってくれてたら……」
リリィは、リーベルをしっかりと抱きしめて、優しく告げる。
「リーベルは… わたしの、一番大切で……一番憧れの……『親友』、だよ。」
そう言った瞬間、肩に何かが滴ったように感じた。そして……
「あああああ゛あ゛あ゛っ!!!」
堰を切ったかのように、リーベルは声を上げて泣き出した。
涙が次から次へと溢れ、肩を震わせ、嗚咽が混じるほどに。
悲しみも、寂しさも、痛みも、全部ぶつけるかのように、リーベルは泣いた。
リリィは驚いたが、何も言わずにその背中を撫で続ける。
「……ひっく……ずっと、ずっと……っ、ひとり、だっだの……っ!」
震える声が、リリィの胸を締めつける。
「何度っ……『友達になろう』って言われても……結局、最後には……みんな……っ、いなぐっ… なっぢゃう……!」
リリィの胸に、涙がぽたぽたと落ちる。
「やだよっ……グスッ、やだっ……一番に、なりだいっ……ひとりで、いいっ… からっ…!わたしだっで……わだしだっで……!」
悲しみのすべてを吐き出すように、リーベルは泣いた。その涙は、長い間、心の奥に溜め込んでいたものだったのかもしれない。
リリィはそっと、リーベルの髪を撫でながら、優しく囁いた。
「……わたしで、良ければ……リーベルは、わたしの… 一番だよ。」
その言葉に、リーベルは小さく息を詰まらせる。
リリィは続けた。
「リーベルは、わたしのたった一人の……唯一の、親友だから。」
リーベルは何かを言おうとしたのかもしれない。でも、声にならなかった。
ただ、もっと強くリリィの服を握りしめて、さらに激しく泣いた。
そして──
リリィ自身の目にも涙が溜まっていた。
リーベルの涙が自分の上に落ちる度に、胸が苦しくなって、喉の奥がつまる。
リーベルの悲しみが、痛いほどに伝わってきて、どうしようもなく、涙が溢れた。
「……わたしも……っ、リーベルが……旦那様がっ……いなくなったら、いやだよ……!」
気がつけば、リリィも声を上げて泣いていた。
二人とも、涙を止めることができなかった。




