026 言葉を映す水面鏡
リリィはその後、計算の勉強を、休憩を挟みながらもみっちり3時間やり遂げた。
「リリィちゃん、そろそろ時間ね。…うん、よく頑張ったわ!その……私、子どものお勉強を手伝うの、初めてなんだけど……よ、よくやったと思うわ!それと… ごめんなさい!計算だけじゃなくて、もっといろんなことしたらよかったわね……」
「い、いえ… ありがとう、ございます…」
リリィは机に伏したまま返事をする。なんとか今日のお勉強で、かけ算と割り算を使うことができるようになった……かもしれない。明日まで覚えていられるかどうか……
「そ、そろそろお昼前ね!じゃあ、いってらっしゃい!頑張ってね!」
「…はい!」
リリィは気合いを入れ直して図書室を出て、少し緊張しながら院長先生の部屋へ向かった。扉の前にはすでに大勢の子どもたちが集まっていて、皆そわそわと落ち着かない様子だった。ざっと二十人近くはいるだろうか。
(……やっぱり、こんなに希望者がいるんだ。)
改めて実感し、リリィは少し肩を落とした。自分が選ばれるかどうか、不安が募る。しかもそこには、リーベルの姿がない。やはりリーベルは諦めたようだ。唯一の友達がこの場にいない心細さもまた、心に重くのしかかる。
しばらくすると、扉がゆっくりと開いた。
中には院長先生とヴェルメイン先生──旦那様が並んで立っていた。
「お昼前の時間に集まってもらって申し訳ない。ふむ……全員いるようだね。」
院長先生は子どもたちを見渡しながら、優しい口調で言った。
「それでは、ヴェルメイン先生のお屋敷に、一時的に住んでもらう子を決めよう。」
子どもたちの間に緊張が走る。リリィも思わず息を飲んだ。
「まず最初に伝えておきたいのは、ヴェルメイン先生のお屋敷には、たくさんの従者がおり、日々様々なお客様がいらっしゃるということだ。」
院長先生の言葉に、子どもたちは一斉に耳を傾ける。
「だからこそ、屋敷で過ごす間は、しっかりと礼儀を守り、迷惑をかけないようにしなければならない。」
その言葉に、少し不安そうな顔をする子もいれば、やる気を見せる子もいた。
「それと、昨日は話し合いで決めると伝えたのだが……」
院長先生は少し困ったように笑った。
「ハハッ… 正直、希望者があまりにも多すぎる。これは… 私の考えが浅はかだった。話し合いでは決まらないだろう。そこでだが……代わりに、簡易的な試験をさせてもらいたい。申し訳ないが… いいかな?」
「試験……?」
誰かが小さく呟いた。
「大丈夫、そんなに難しいものではないよ。」
院長先生は微笑んで、ヴェルメイン先生へと視線を向けた。
「ヴェルメイン先生とお話をしてもらい、基礎的な礼儀作法が身についているかどうかをチェックする。」
子どもたちの間にざわめきが広がる。
(礼儀作法……)
リリィは内心、少しほっとした。難しい学問の試験だったら自信がなかったが、礼儀作法ならまだ──少なくとも、ヴェルメイン先生と話すこと自体は怖くない。
しかし、周囲を見渡すと、緊張で顔をこわばらせている子も多かった。
「試験といっても、堅苦しく考えなくていい。」
旦那様が静かに口を開く。
「ただ、私の屋敷に来たら、きっと色々な人と関わることになる。だから、その時に困らないよう、最低限の礼節を知っているかどうかを確認したいと思ったんだ。」
その落ち着いた声に、少し空気が和らいだ気がした。
「……よろしいかな。では、健闘を祈るよ。」
旦那様はそのまま、院長室を出て行った。
「では……名簿順に名前を呼ぶから、一人ずつ、横の応接間に行くように。試験が終わったら、そのまま昼食にしていいよ。」
院長先生が名簿を開く。
「では、まず──」
静かな部屋の中に、名前が響いた。
リリィは胸の鼓動が速くなるのを感じながら、自分の名前が呼ばれるのを待った。
リリィは、緊張で震える手をぎゅっと握りしめながら、じっと座っていた。誰かの名前が呼ばれるたびに、心臓が強く跳ねる。自分の名前が呼ばれるのは、もうすぐだ。
──そして、ついに。
「次に……リリィ。」
院長先生の声が響いた。
リリィは一瞬息を呑んだが、すぐに立ち上がり、小さく息を吐いた。
(大丈夫……ただ、旦那様と話をするだけ。)
そう自分に言い聞かせながら、院長室を出る。そして、隣の応接間の扉の前に立ち、深呼吸をしてから、震える手でノックをした。
コンコン、コン、コン……コン──
……何回叩けばいいんだろうか。まだ足りない?そもそも、弱すぎて聞こえていないかもしれない。
リリィがしばらく焦っているうちに、扉が静かに開く。
「フフッ、入っておいで。」
目の前には旦那様が立っていた。
リリィは思わず、目を見開いた。そして、とてつもなく後悔した。旦那様に扉を開けさせてしまった。
「大丈夫、しっかりとノックができたんだ。」
旦那様は微笑んで、優しく褒めてくれる。それでも、リリィの胸の中は、不安と焦りでいっぱいだった。
「さあ、座りなさい。」
促され、リリィはゆっくりとソファに腰掛けた。目の前には、旦那様が静かに座っている。
「では、リリィ。いくつか質問をしよう。」
旦那様の穏やかな声。心の中では相変わらず、不安の嵐が吹き荒れていたが、強張っていた体は、少しずつ和らいでいく。
そして、最初の質問が投げかけられた。
「最近、誰かに感謝を伝えたことはあるかい?」
リリィは一瞬考えた。
「……昨日、お祈りの時間に、神様に感謝をしました。」
「神様に?」
旦那様は少し意外そうに眉を上げた。
「はい。わたしは今まで… お祈りをしたことがなかったんです。でも……旦那様に助けてもらえて、穏やかな生活ができて、友達ができたのは、神様のおかげかもしれないと思って。それで、しっかり感謝を伝えました。」
旦那様は静かに頷き、少し考えるように視線を落とす。
「なるほど……」
「あっ、あとさっき、ヴィオレッタ先生にも、ありがとうございますと言いました!たくさんお勉強を教えてもらったので……」
「ふむ… 分かったよ。」
次の質問が続く。
「では次に……もし友達が、取り返しのつかない失敗をしてしまったら、どうする?」
リリィは息をのんだ。
「取り返しのつかない……?」
「そうだ。何をしても、その失敗を元には戻せないとしたら。」
リリィはしばらく考え込んだ。過去の自分を思い出しながら、静かに口を開く。
「……それでも、その友達のそばにいたいです。」
「そばにいたい?」
「はい。だって、きっとその友達はすごく後悔して、苦しんでいると思うから……ひ、一人ぼっちには… したくない、です。」
そう言った瞬間、リリィの頭に浮かんだのは──やはりリーベルだった。
もしもリーベルが大きな失敗をしてしまったとしても、きっと自分はそばにいるだろう。彼女がどれだけ自分を慰め、支え、励ましてくれたかを思えば、見捨てるなんてできない。
旦那様は、優しい眼差しでリリィを見つめた。
「……そうか。」
静かな声だったが、どこか満足そうにも聞こえた。
次に、旦那様はゆっくりと尋ねる。
「では、『礼儀正しい人』とは、どのような人だと思う?」
リリィは少し迷った。
「……相手のことを考えられる人、です。」
「ほう?」
「礼儀のっ、作法はよく分からないの、ですが……たっ、ただ形だけのものじゃなくて、相手が嫌な気持ちにならないようにするためのもの……だと思います。だから、本当に礼儀正しい人は、相手の気持ちをちゃんと、考えられる人なんじゃないかな……って。」
言葉を選びながらも、リリィは素直に答えた。
旦那様は少し驚いたように目を細めたが、すぐに満足そうに微笑んだ。
「良い答えだ。」
リリィの胸の奥が、ぽっと温かくなる。
そして、最後の質問が投げかけられた。
「私の屋敷で、やりたいことはあるかい?」
リリィは、息をのんだ。
(行けるかどうかもわからないのに……それに、呆れられるかもしれない……でも。)
小さく息を吸って、しっかりと答える。
「……旦那様に、恩返しがしたいです。」
その言葉に、旦那様の目がわずかに見開かれる。
「恩返し?」
「はい。……でも、どうやったらできるのか、まだわかりません。」
リリィは、そっと拳を握りしめる。
「だから、もし、お屋敷に行けたら……まずは、旦那様のお手伝いをしてみたい、です……何ができるか、分からない、けど……自分にできることを、見つけたいです。もしかしたら、それが… わたしの、夢になるかも、しれないから。」
旦那様は、しばらく沈黙した。
そして、ゆっくりと微笑む。
「……そうか。」
それだけ言うと、旦那様は静かに立ち上がった。
「話はこれで終わりだよ。リリィ、よく頑張ったね。」
その言葉に、リリィはホッと息を吐いた。
すると、旦那様は優しく微笑んで──
「手を出してごらん。」
言われるままにリリィが小さく手を差し出すと、旦那様はそっと、それを包み込むように握った。
「緊張しただろう?ずっと手が震えていた。でも、君はよく答えた。」
温かい手の感触が伝わってくる。
「ありがとう。」
その言葉に、リリィは小さく頷いた。
旦那様は手を離し、「よし、もう戻っていいよ」と優しく促した。
リリィは深くお辞儀をし、応接間を後にした。
部屋を出た瞬間、緊張が一気に解ける。
(……ちゃんとできた、かな?)
さっきの言葉を振り返る。かなり時間をかけてしまったけど、正直に話した。自分の本心を見つめ直すこともできた気がする。胸に手を当てながら、リリィは小さく微笑んだ。




