025 夢への敷石
カァン、カァン……
鐘の音が響き渡る。
リリィはまどろみの中で瞼を開け、ゆっくりと身体を起こす。ここに来て迎える三度目の朝だ。
昨日や一昨日に比べれば、とても落ち着いた朝……だろうか。少なくともここに来てからはまだ、悪夢を見ていない気がする。奴隷だった時はほぼ毎夜、悪夢に苦しめられていた。夢の中でも終わりのない労働と罵倒に苦しめられ、最後は鋭い痛みと共に起こされる。心が休まる暇なんてなかった。
リリィは冷たい朝の空気に肩をすくめながらも、ゆっくりとベッドから降りて制服に着替え、顔を洗って食堂へ向かう。
(……やっぱり、リーベルはいないか……)
食堂に入るなり、予想していた光景に少しだけ胸が沈む。
リーベルのいつもの席は空いたまま。
周りの子供たちは楽しそうに話をしながら朝食を食べている。
リリィは朝食を受け取って隅の方の席に腰を下ろし、黙々と食事を進めた。
その間何度か、他の子に話しかけようかとも思った。
けれど──
(リーベルに友達になりたいって言ったときみたいに、勇気が出ない……)
言葉が喉の奥で止まってしまう。そもそも、足が動こうとしない。
リリィは結局、誰とも話さずに朝食を終えた。
少し落ち込みながらも食器を片付け、食堂を出ようとしたそのとき──
「リリィちゃん!」
慌てた様子の声が後ろから響いた。
ビクッとして振り向くと、ヴィオレッタ先生が立ち上がり、こちらへ向かってくる。タイミングを見計らっていたのだろうか。
「お、おはようございます、先生?」
「ごっ、ごめんね?その……昨日、話すのを忘れてしまって……」
ヴィオレッタ先生は少し息を整えてから、優しく微笑んだ。
「コホン… えっと、リリィちゃん?今日から私が……あなたの、担任になるわ!」
リリィは驚いて目を瞬かせた。
「……担任?」
「ええ。時間通りに行動できているかのチェック……とか、勉強のお手伝いとか、健康管理なんかをするの。」
「そ、そうなんですね……」
思いがけない言葉に、リリィは戸惑う。
けれど、すぐにヴィオレッタ先生が少し苦笑いしながら続けた。
「その… ごめんね?私……担任を持つのは初めてなの。」
「そっ、そうなんですか?」
「ええ… ベテランの先生たちは、一度に五人くらいの子を担当するの。でも、私はまだ二年目だし……無理だと思っていたわ。」
そう言いながら、ヴィオレッタ先生は少し恥ずかしそうに頬をかいた。
リリィは少し意外な気持ちになる。
少し不自然なところはあるが、しっかりしていて、優しくて、いつも穏やかなヴィオレッタ先生。
ここでの暮らしやルールの説明をしてくれた時は、別人になったかのように流暢に喋っていた。その時は、ベテランの先生かのような気迫さえ感じていた。
てっきり、すでに何人もの子供の担任をしているのかと思っていた。
「じゃあ……なんで私の担任に?」
ヴィオレッタ先生は、ふっと微笑む。
「昨日ね?ヴェルメイン……先生が、院長先生に推薦してくださったのよ。」
「──えっ?」
リリィは思わず目を見開いた。
ヴィオレッタ先生は少し照れたように、けれど誇らしげに続ける。
「本当に、夕食の前くらいで、突然だったんだけど……一人だけでいいから、担任を持ってみないかって。君なら、リリィの支えになれるって……ヴェルメイン先生は、わたしなんかよりずっとすごい先生だけど、担任は持てないから……だから、頑張らなくちゃって思ってるのよ。」
リリィの胸の奥が、じんわりと温かくなった。
(先生が……私のために……?それとも、ヴィオレッタ先生のため?)
「……ありがとうございます、先生。よろしく、お願いします。」
自然と、口から言葉がこぼれた。どちらにせよ、旦那様は本当に優しい人だ。何度も実感させられる。
ヴィオレッタ先生は、嬉しそうに微笑んだ。
「ううん、こちらこそ。これからよろしくね、リリィちゃん。その……お互い、頑張りましょうね?」
「フフ……はい!」
小さく笑い合い、リリィは改めて背筋を伸ばした。
今日から、また新しい一日が始まる。
胸の奥の寂しさはまだ少しだけ残っているけれど、それでも──
頼れる人が、また一人増えた。それだけで、心が随分と軽くなった気がした。
その後、ヴィオレッタ先生は、今日からリリィのお勉強を始めると言った。ただ、まだリリィにどの程度の知識があるか分からないため、少し確かめさせて欲しいと言った。
リリィはヴィオレッタ先生についていき、図書室の扉をくぐる。するとすぐに、紙とインクの香りがふわりと鼻をくすぐった。
高い天井までびっしりと本が詰まった棚が並び、窓から差し込む柔らかな光が、埃を静かに照らしている。
ヴィオレッタ先生は慣れた手つきで本棚を見回し、一冊の分厚い本を取り出した。
「さあ、今日はまず、リリィちゃんがどれくらい計算ができるかを確かめてみましょうか。」
ぱらぱらとページをめくりながら、先生は言う。
リリィはその本の厚さに少しだけ身を引いた。
(これ……全部、計算の本……?見慣れない文字がたくさん……)
なんだか嫌な予感がする。
先生がページを止め、さらさらと紙に問題を書き始めた。
「まずは……これはどう?」
【12 + 8 = ?】
「……これは大丈夫!」
リリィは自信満々に答えた。
「20!」
「正解!」
ヴィオレッタ先生は微笑んで、次の問題を書く。
【35 - 9 = ?】
「えっと……26?」
「フフッ、正解よ。じゃあ、次はこれ。」
【57 ÷ 3 = ?】
「えっ?」
リリィは手が止まった。急に見たことのない記号が出てきて、頭が真っ白になる。
「え、えっと……」
「じゃあ、これは?」
【6 × 7 = ?】
「……バツ?」
リリィは眉をひそめ、しばらく考えてみたが、まるで見当がつかない。
しばらくして、先生が静かに微笑んだ。
「大丈夫よ。無理しなくていいの。」
ヴィオレッタ先生は紙をめくりながら、優しく言った。
「リリィちゃんは、言葉はとても上手よ。だから、計算のお勉強からゆっくりやりましょう。」
リリィは悔しいような、ほっとしたような気持ちでこくりと頷いた。
「……わかりました。」
すると、先生は少しだけ表情を和らげて、ふと問いかける。
「リリィちゃん、他に何か学びたいことはある?」
リリィは少し考えた。
学びたいこと──
考えれば考えるほど、頭にこびりついたたった一つの言葉が主張を強める。でも、それを言葉にするのがなぜか怖かった。
少し迷って、けれど、ぽつりと呟いた。
「……夢を見つけたい、です。いろんなことをして……わたしに、できることを知りたい。」
ヴィオレッタ先生は驚いたように目を瞬かせた後、嬉しそうに、でも少し悲しそうに微笑んだ。
「そう……リリィちゃんはもう、ちゃんと前を向いているのね。……うん!それなら、たくさんのことを学びましょう。いろんなことを知ることで、きっと夢が見えてくるわ。」
その言葉に、リリィは小さく頷いた。
(……夢、見つかるかな。お勉強、したこと……ほとんどないけど……)
不安でいっぱいの胸の奥に、小さな光が灯る気がした。




