023 春眠、予期せぬ暁
──リリィ。
誰かが、自分の名前を呼んでいる。
ゆっくりと瞼を開くと、淡い夕焼けの光が視界を染めた。どこかで鳥が鳴いている。春の風が優しく吹いて、頬を撫でていった。
「良かった。目が覚めたかい?」
静かな声が耳に届く。
──旦那、様……?
ぼんやりとした頭のまま、リリィは体を起こした。そして、自分がどこにいるのかを理解する。
正門の花壇のベンチ。
(わたし、ここで……寝ちゃってたの……?)
慌てて身なりを整えようとするリリィに、ヴェルメイン先生は静かに問いかけた。
「…おや、泣いていたのかい?」
「えっ?」
思いがけない言葉に、リリィは驚いて旦那様を見上げた。
「……わたし、泣いて……?」
そう言われて、自分の目元に手をやる。指先に触れたのは、ほんのりと湿った感触。
(……本当だ。濡れてる……)
でも、泣いていた覚えはない。
何か夢を見ていたのかもしれない。けれど、その内容は思い出せない。もしかしたら、寝る前に泣いていたのか……
しかし今は、先生の前で泣いていたことよりも、外で寝てしまったことのほうが恥ずかしくて、リリィは顔を真っ赤にする。…こんなことを気にするようになるなんて、わたしはどうしてしまったのだろうか。少し前までは、こんなの当たり前だったのに。
「……っ、わ、わたし、すごく恥ずかしい寝方してませんでしたか!?」
ヴェルメイン先生は微かに口角を上げた。
「気にすることはない。誰も見ていないよ。」
(先生が見てるじゃないですか……!)
そう言いかけて、リリィは飲み込む。もう十分に恥ずかしいのに、これ以上は耐えられそうになかった。
ヴェルメイン先生は、そんなリリィの様子に特に触れず、穏やかに告げる。
「もう夕食の時間だよ。部屋にいなかったから、探しにきたんだ。フゥ… リーベルも、どこにいるか分からないと言うものだから、心配したよ。」
「えっ、もうそんな時間……?」
リリィは慌てて周囲を見回す。確かに、空はすっかり夕焼けに染まり、辺りには夜の気配が漂い始めていた。
「さあ、行くよ。」
旦那様がそっと手を伸ばす。
リリィは戸惑いながらも、先生の手を掴み、夕暮れの道を歩き始めた。
──食堂の中は、昨日よりも緊張した空気が漂っていた。賑やかに話をしている子があまり見当たらない。
そして、その中にリーベルの姿を見つけた。リリィはリーベルの隣に座り、そのまま自然とヴェルメイン先生も隣に腰を下ろす。
「あっ、良かったリリィ!どこ行ってたの?」
「えっと……正門の花壇、見てたら… ベンチで寝ちゃってたみたいで。先生に起こされちゃった……」
「フフッ、そうなんだ!」
リーベルは急に体を寄せてきて、耳元で囁く。
「大好きな『旦那様』に起こしてもらえたなんて、ラッキーだね!」
「らっ、ラッキーじゃないよ……恥ずかしいよ……」
そう言うとリーベルは、ニマニマとしながらゆっくりと離れた。許されざる恋、叶わぬ恋とはいえ、ライバルであることは分かっているはず。なぜこんなに楽しそうなのだろうか。……年頃の女の子は、恋の話には元々目がない、ということにしておこう。リリィは気を取り直してリーベルに質問する。
「リーベルは、今日もここで食べるの?」
リリィがそう尋ねると、リーベルは軽く頷いた。
「うん。今日はね、院長先生から大事なお話があるみたいだから、先生に連れてきてもらったの。」
「大事なお話……?」
リリィが聞き返したところで、院長先生がゆっくりと立ち上がり、みんなの見えるところに歩いて行く。
子どもたちは皆、静かに視線を向ける。
そして院長先生は、さっき会った時とは違う、少し威厳のある口調で話し始めた。
「まず初めに……いつもみんなが、平穏に生活できているのは、ここで働いてくれている先生方のおかげだ。また、ヴェルメイン先生をはじめとする、たくさんの寄付を賜った貴族や資産家の皆様にも、心からの感謝を忘れてはならないよ。」
院長先生の言葉に、食堂のあちこちで子どもたちが小さく頷く。リリィは、旦那様のほうをちらりと見た。
旦那様は特に気にした様子もなく、ただ静かに話を聞いている。
院長先生は続けた。
「次に、ここにいる皆にも知らせておかねばならないことがある。ここの出身の子たちの各地での活躍が、大勢の方の耳に入り、寄付も以前より格段に増えた。この孤児院の名前が、エルヴェリア王国の各地に知れ渡り始めているのだ。そして、戦争の影響を受けている遠方の地方から、多くの孤児の受け入れを求める声が届いている。」
その言葉に、子どもたちの間から小さなどよめきが起こる。
リリィも驚いた。戦争の話は耳にしたことがあったが、それが自分たちの暮らす場所にも影響を及ぼしているのだと実感するのは、これが初めてだった。
院長先生は少し間を置いてから、次の話に移る。
「しかし、今のままでは新しい子を迎え入れる部屋が足りない。そこで──新しい建物を建てることに決めた。」
その言葉に、再びざわめきが広がる。
「新しい建物?」
「どこに?」
子どもたちの間から、小さな声が漏れる。
院長先生は静かに頷き、子どもたちを鎮めた。
「裏庭を囲むように、新しい建物を作る。たくさんの部屋を作れるように、三階建てにするよ。そして二階には、池の上を通るように渡り廊下を設ける予定だ。」
その説明に、リリィは一瞬息を呑んだ。
(裏庭を囲むように……?)
それはつまり、あの美しい裏庭の景色が大きく変わるということ。
リーベルもまた、驚いたように少し目を見開いている。
確かに、新しい孤児を迎えるためには必要なことなのだろう。でも──
リリィの心の中には、複雑な気持ちが広がっていった。
リリィの表情を見て、胸に広がった複雑な気持ちを察したのか、ヴェルメイン先生は静かに口を開いた。
「……本来は、池を埋め立てる予定だったんだ。」
その言葉に、リリィは驚いて先生を見上げる。
「でも、それはあまりに惜しいと、私は思ったんだ。だから、裏庭を中庭として残し、渡り廊下を池の上に作る。そうすることで、埋め立てることなく、今までとは違う新しい景色を楽しめるのではないかと、院長先生に提案したんだ。」
旦那様の言葉は穏やかだったが、その奥には確固たる意志が感じられた。
リリィはふと目を閉じて、想像してみる。
(池の上に渡り廊下……)
今の裏庭のままではないかもしれない。でも、きっとそれも美しい景色になるのだろう。
「……よかった、です。」
小さく息を吐きながら、リリィは呟いた。
リーベルもどこか安心した様子で「それなら、完成が楽しみかも!」と笑う。
院長先生は、周りが静かになったのを確かめてから、話を続けた。
「ただし、新しい建物を作るためには、敷地の調査と工事を進めなければならない。その間、どうしても騒がしくなってしまう。」
子どもたちの間から、再び小さなざわめきが広がる。
「特に、裏庭に近い部屋に住んでいる子ほど、工事の音が響くだろう。それを理解しておいてほしい。」
リリィは、ふと自分の部屋を思い出す。二階の角部屋……裏庭がよく見える。となると、騒音の影響を受けやすいかもしれない。
そんな考えが浮かぶ中、院長先生はさらに続けた。
「ヴェルメイン先生がお屋敷に帰られるのに合わせて、計画と調査を始める。そこで、調査が本格的に始まる前に、職人さん達のために、いくつかの部屋を空けておく必要がある。」
そして、少し間を置いてから、院長先生は言った。
「…申し訳ないのだが、裏庭に近い部屋に住んでいる子は、工事が終わるまでの間、部屋を移動してもらうことになるんだ。」
子どもたちの間から、少し不安そうな声が漏れる。
しかし、院長先生は静かに続けた。
「みんな、よく聞きなさい。部屋を空け、移動する方法として──男女それぞれ四人まで、希望者はヴェルメイン先生のお屋敷に移ることもできる。これは、裏庭に近いかどうかに関わらずだ。工事が終わるまでの間ではあるが、屋敷で生活をしてもらうことになる。」
その瞬間、食堂の空気が一変した。
「先生のお屋敷に!?」「本当に!?」「すごい!」
子どもたちの間から、驚きと興奮が入り混じった声が上がる。
リリィもまた、思わずヴェルメイン先生の方を見た。
先生は、どこか苦笑いを浮かべながら、子どもたちの反応を受け止めている。
(旦那様のお屋敷に……?)
リリィの胸が、なぜかドキドキと高鳴った。
一週間後、先生は屋敷に戻る。
そのとき、自分も一緒に行けるかもしれない──。
リリィの中にあった焦りが、不意に新しい形になって浮かび上がった。




