021 まだ咲かない花
リーベルは、骨の痛みが限界に近づいているのを感じ、二人は今日はこれ以上の聞き込みをしないことにした。院長先生に礼を言い、そっと院長室を後にする。
リーベルの歩調に合わせ、ゆっくりと廊下を進む。痛みに顔を歪めるリーベルを見ていると、少しでも早く部屋に着けるようにと願わずにはいられなかった。
「……ごめんね、リリィ。せっかく楽しいこと考えてたのに。」
「…だいじょうぶだよ。リーベルが無理して、倒れちゃったら… わたしだけじゃ、何もできないもん。」
リリィがそう言うと、リーベルは申し訳なさそうに笑い、「そんなことない」と優しく言ってくれた。
ようやく彼女の部屋にたどり着き、ベッドに腰を下ろした瞬間、リーベルはほっとしたように息をついた。
少し休んでから、二人は白百合について話し始めた。
「わたし、白いユリなら、正門の花壇に植えたことがあるよ。」
リーベルがそう言うと、リリィは驚いて目を瞬かせた。
「本当?」
「うん。けど白百合が咲くのは確か… 夏の始まりの頃… かな?だから、まだ花は咲いてないよ。」
「え……」
「咲くまで待とうかな?」
リーベルはそう提案した。
しかし、リリィの心の内には、得体の知れない焦りが広がっていく。
「……旦那様は、一週間後には家に帰ってしまうんだよ。」
リーベルは「え?」と目を瞬かせた。
「…うん。旦那様はここにずっといるわけじゃなくて……」
リリィは躊躇いながらも、今朝届いた手紙のことや、先生が一週間ここで静養していくと聞いたことをそのまま話した。
リーベルは少し考え込む。
「うーん……いつもは先生は、隣町のお屋敷に住んでいるんだよ。一週間に一回くらい、お菓子とか本とかを持ってきてくれるの。ここ最近は会えなかったんだけどね……。今、先生はお怪我されてるから、ここにずっといるだけで……先生がお屋敷戻っても、また来てくれるよ。その時に渡せばいいんじゃない?」
「そう、なんだ……でも、それじゃ……やだ。」
自分でも分からなかった。なぜ自分がそんなことを言ったのか。リリィは思わず息を呑んだ。
リーベルも驚いたように目を丸くする。
「……リリィ?」
リリィは胸の奥に渦巻く感情の正体が分からないまま、拳をぎゅっと握った。
なぜこんなに焦るのか、どうして「待つ」という選択肢を受け入れられないのか——。
分からない。でも、どうしても、一週間以内に渡したい。
まるで、それを逃せば二度とチャンスが訪れないかのような、そんな気がしてならなかった。自分の気持ちが分からず、ただ焦燥感だけが募っていく。拳を握ったまま俯くと、隣に座るリーベルがそっと肩を寄せてきた。
「大丈夫だよ!春に咲く花だってたくさん植えてあるから。」
リーベルの穏やかな声が耳に届く。
「フフッ、リリィが思ってるより、たくさんいろんなお花植えたと思うよ!だから、そんなに焦らなくてもいいんじゃない?」
その言葉に、わたしの強ばっていた肩がわずかに緩む。ただ…
──そんなに焦らなくてもいい?
本当に、そうなのだろうか。
リリィが黙っていると、リーベルは少し考え込んだ後、ぽつりと呟いた。
「……もしかして、ヴェルメイン先生と離れるの……怖い?」
リリィの心が、ぴくりと跳ねる。
リーベルはわたしの顔を覗き込んで、少し寂しそうに笑った。
「最初の頃のわたしもそうだったよ。先生はずっとそばにいてくれるわけじゃない。それは分かってるのに、次いつ会えるか分からないのが怖くて……すごく悲しかった。」
リーベルの言葉が、心の奥深くに染み込んでいく。
「リリィはきっと、初めて先生と離れるから、不安なんだと思う。わたしも、そうだったから。」
──そうか、わたしは。
自分でも気づいていなかった不安を、リーベルが優しく言葉にしてくれる。
先生がここに来てくれるのは特別な時間で、ずっと続くわけじゃない。
それが、ただひたすらに寂しい。
わたしはようやく、自分の気持ちをはっきりと認めることができた……気がする。
「……そっか。わたし、寂しいんだ。」
そう呟くと、リーベルが優しく微笑んでくれる。
「うん。でも、大丈夫。先生はまた来てくれるよ。」
その言葉に、わたしは少しだけ息を吐いた。胸のざわめきが、ほんのわずかに和らいだ気がする。
けれど、それでも心の奥に燻る「焦り」は、まだ完全には消えていなかった。しばらく黙り込んで落ち着いてみたが、その感覚は消えることはなかった。
「……ごめんね、リーベル。少し、一人になりたい。」
申し訳なさそうにそう言うと、リーベルはわたしをじっと見つめた後、優しく微笑んだ。
「うん、わかった。ゆっくり考えてみて。」
それだけ言って、彼女は何も聞かずにわたしを受け入れてくれた。
リーベルは本当にいい子だ。どうしてこんなにも親身になってくれるのかな。わたしが友達だなんて言うのには、不相応なんじゃないかとさえ思う。いくら生い立ちが似ていると言っても……
わたしは将来、リーベルのようになれるのだろうか。
──部屋を出ても、リリィ胸の中では、さっきよりもさらに大きくなった焦燥感がぐるぐると渦巻いていた。
リリィは自分の部屋には戻らず、正門の花壇を見に行った。心を落ち着かせようと、深呼吸する。春の暖かな日差し、子どもたちが庭で駆け回る声、微かに風に混じる花の香り。
「これが……平和って言うのかな…?」
こんな場所があるなんて知らなかった。自分はずっと、誰かに使役され、使い潰されるだけの存在だと思っていた。でも、そんな自分が最も欲していたであろう環境。それがこの場所なんだ。それは間違いないはず。でも…
どうして、こんなに焦っているんだろう。焦っているのは、本当に「恩返し」のことだけ?それすら分からなくなってくる。
ベンチに腰を下ろし、両手を握りしめる。横を見ると、リーベルが言った通り、春の花がもう咲いている。それを使えば「恩返し」はできる。だけど——。
それは、リーベルにとっては最高の恩返しになるかもしれないけれど、わたしにとっては?
リーベルが大切に育てた花を、ただ先生に渡すだけ。それで「わたしの恩返し」になるの?
そう考えた瞬間、胸の奥にチクリとした違和感が走った。
──違う。わたしは、それじゃダメなんだ。
わたしがしたいのは、わたしだけのやり方で、わたしの気持ちを込めた恩返し。リーベルの提案をそのまま受け入れるんじゃなくて、わたし自身のやり方も入れ込んで、わたしの言葉や行動で示したい。
でも……。
──わたしには、何ができるんだろう。
リーベルの恩返しは、彼女の夢と繋がっていた。お花屋さんになりたいという想いがあるからこそ、花で気持ちを伝えることができる。
じゃあ、わたしは?
わたしには、まだ夢がない。
未来の自分が何をしたいのか、どんな道を歩みたいのか、全然分からない。
「だから……なのかな。」
リーベルのように、何かを目指しているわけではない。先生に救われたのに、わたしは何も持っていない。
このままじゃ、何も返せないまま、先生がいなくなってしまう。
その考えが、わたしの中の焦燥感をさらに強めていく。
「……わたしも、自分の夢を見つけなきゃ……」
ぽつりと呟いた声が、賑やかな春の庭に吸い込まれていった。




