019 願いの秘密
リリィは、目の前で泣いているリーベルを見つめながら、どうにかこの子を慰める方法を探していた。でも、どんな言葉をかければいいのかわからない。リーベルの悲しみや苦しみは、痛いほどわたしにも伝わってくるのに。
──その時、ふと気づいた。わたしとリーベルには、決定的な違いがある。
それは、「夢」。
リーベルには、将来の夢がある。お花屋さんになって、いずれは庭師になりたいという、はっきりとした目標がある。
……でも、自分には、そんなものはなかった。
それに気づいた瞬間、わたしはリーベルがとても眩しく思えた。
そして、羨ましかった。
「……リーベル。」
そっと彼女の側に寄る。
「わたしね……すごく羨ましいなって思ったの。」
リーベルが涙を拭いながら、ちらりとわたしを見る。
「リーベルには、夢があるから。」
リーベルは目を瞬かせ、困ったように笑った。
「……夢?…ああ、お花屋さんのこと……?」
「うん。」
すると、リーベルは小さく首を振る。
「そんなの……本当の夢じゃないよ。」
「え?」
「わたしは、将来お金を稼いで、先生に恩返しをするために庭師になろうとしてるだけ。」
リーベルは、自嘲気味に笑った。
「そんなの……ただの義務みたいなものだよ。」
「そんなことない!」
リリィは、思わず強く言った。
「だって、リーベル……本当に植物や園芸が好きでしょ?」
「え……?」
「わたし、気づいてたよ。ヴェルメイン先生のお話を聞いてるときのリーベル、とっても楽しそうだったもん!」
「……それは、先生がいるから……」
「そっ、それに……前に言ってたよね?リーベルがここに来たばかりの頃、元気がなかったときに、裏庭のお花を見て感動したって。」
「……」
「先生の話を聞いてるときも、実際に植物に触れてるときも……リーベル、同じくらい幸せそうだったよ。」
リーベルは、ぽかんとわたしを見つめた。
「……そんなふうに、見えてた?」
「うん!」
しばらく沈黙があったあと、リーベルは視線を落とし、小さく呟いた。
「……わたし、本当に……植物のことが好きなのかな……?」
「そうだよ!」
リーベルは驚いたように、わたしを見つめた。
リリィはまっすぐ彼女の目を見返して、はっきりと言う。
「だから、お花屋さんは恩返しのためだけの夢じゃない。リーベル自身の、本当の夢だよ。」
「……っ」
リーベルの目に、また涙が浮かんだ。
「……わたし……ずっと……恩返ししなきゃ、って……そればかり考えてて……」
「……うん」
「それ以外に、わたしがやるべきことなんてないって……思ってた……」
「……リーベル。わたし……なんとなく分かる。先生はきっと、恩返し……受け取ってくれないよ。」
そう言うと、リーベルは驚いたようにリリィを見つめた。
「そんな……ことない……!」
「……あるよ。」
リリィは、ゆっくりと続ける。
「先生はわたしたちに、恩返しなんて望んでない。それに……リーベルが頑張って稼いだお金を、先生が受け取るなんて、思えない。」
「……」
「…ねぇ、リーベル。先生がリーベルにくれた名前の意味……覚えてる?」
「え……?」
「『リーベル』って、『自由』って意味なんでしょ?」
「……!」
リーベルは、息を呑んだ。
リリィは静かに続ける。
「先生はきっと……リーベルが恩返しに縛られてほしくないんじゃないかな。」
リーベルは目を見開いたまま、じっと考え込んでいた。やがて、ぽつりと呟く。
「……そういえば……」
「…?」
「……わたし、名前をもらう少し前に……先生に恩返しがしたいって、直接伝えたことがあったんだ。」
「うん。」
「でも、そのとき先生……すごく優しい顔で、でもちょっと呆れたみたいに、微笑んで……」
リーベルは、少し笑ってしまったように息を漏らした。
「『君はもう十分、返してくれたよ。』って、言ったんだよね。」
「……!」
「……もしかして、あのときから……先生はもう、わたしにそんなものを求めてなかったのかな……」
リーベルは、ゆっくりと視線を上げた。リリィの顔を見て、ふっと微笑む。
「……リリィ。」
「うん。」
「……ありがとう。」
それは、さっきまで泣いていたのが嘘みたいに、穏やかで優しい笑顔だった。
リリィの胸の奥が、じんと温かくなる。
「……わたし、少しだけ、楽になったかも。」
「……うん!」
リーベルは、小さく息を吐いた。
「……本当、先生って、優しすぎて呆れちゃうね。…恩返しくらいさせてくれてもいいのに。」
「ふふ……そうだね。」
二人で微笑み合った。
さっきまで重く垂れ込めていた気まずい空気は、どこかへ消えていた。
わたしは、少しだけ誇らしい気持ちになった。
──わたしも、ちゃんとリーベルの支えになれたんだ。
そしてリリィはふと、リーベルの笑顔を見つめながら、ある考えが浮かんだ。
「ねえ、リーベル。」
そう声をかけると、彼女は「ん?」と小さく首を傾げる。
「……やっぱり、少しでもヴェルメイン先生に恩返ししたいって気持ちはある?」
リーベルは、一瞬きょとんとした顔をしたあと、くすりと笑った。
「そりゃあ、もちろん。先生にはお世話になりっぱなしだからね。」
「うん、そうだよね……わたしも。」
リリィは頷きながら、少し悪戯っぽく微笑む。
「じゃあ……その気持ちをちゃんと先生に伝える方法を考えない?」
「えっ……?」
リーベルの目が大きく見開かれる。
「でも、先生は恩返しなんていらないって……」
「そう。でも先生はわたしたちが、恩返しを『義務』だと思っているからいらないって言うんじゃないかな?」
「……?」
「たとえば……先生は、わたしたちの願いなら、できる限り叶えてくれるでしょ?」
「うん……そう、だね。」
「だったら、恩返しをすることが『義務』じゃなくて、『願い』だったら……どうかな?」
「!」
リーベルの表情が、ぱっと明るくなる。
「なるほど……!」
「それなら、先生も受け取ってくれるかもしれないでしょ?」
「確かに……!」
リーベルはわたしの提案にすっかり乗り気になったようで、わくわくした様子で身を乗り出す。
「でも……どうやって恩返しの気持ちを伝えるの?」
「う〜ん……お金のかかることじゃなくて、何か手作りするのがいいと思う。」
「何かを作る……」
リーベルはしばらく考え込んでいたが、やがて「そうだ!」と何かを思いついたように顔を上げた。
「ねえ、リリィ——」
その時だった。
カサリ、と木の葉を踏む音がして、二人とも思わずそちらを振り向いた。
「お待たせ。お昼を持ってきたよ。」
ヴェルメイン先生が、木のトレーに乗せた昼食を手に、こちらへ歩いてくる。
リリィとリーベルは、顔を見合わせた。
──まだ先生には秘密。
わたしたちはそっと口元に人差し指を当てて、「しーっ」と合図を送った。
リーベルと目が合い、二人でくすくすと笑い合う。
旦那様は少し不思議そうに眉を上げたが、すぐに優しく微笑んだ。
「……何やら、楽しそうな話をしていたようだね。聞かせてくれないかい?」
わたしとリーベルは、旦那様には言えない秘密を共有している。それは、「友達」という言葉に大きな実感をもたらしてくれた。二人はもう一度、「しーっ」と口に指を当てながら、また笑い合った。




