018 蛹の中の過去
リーベルは小さく肩を震わせながら、涙をこぼしていた。
「……ごめんね、リリィ……」
俯いたまま、か細い声で呟く。
「急に大きな声出して……驚かせちゃったよね……」
リリィは首を振った。
「ううん……」
でも、それ以上の言葉は出てこない。
リーベルは涙を手の甲で拭いながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「……ねえ、リリィ……わたしたちの気持ちって、きっと一緒なんだよね……」
「……」
「ヴェルメイン先生は……わたしたちのことを助けてくれた……」
「……うん……」
「幸せって何かも、教えてくれた……」
「……うん。」
「でも……」
リーベルは声を震わせながら、拳をぎゅっと握りしめた。
「わたしたちは……先生に何も返せてない……!」
涙がポツリと膝の上に落ちる。
「それだけじゃなくて……先生に叶わない恋心まで抱いて……苦しんでる……!」
リリィも胸が苦しくなるのを感じた。
(そう……わたしも、同じ……)
「……ねえ、リリィ。」
リーベルは震えながら、懐かしむように語り始める。
「……ヴェルメイン先生に助けられた時のこと……話してもいい?」
リリィは静かに頷いた。
リーベルは、ゆっくりと過去の記憶を辿る。
──あの日。
リーベルは、ただ荷馬車の上で揺られていた。
行く先は分からなかった。
ただ、自分が「役に立たない」と判断され、奴隷市場に売られることだけは分かっていた。
「……どうせ、誰も買わないよ……」
薄暗い荷馬車の隅で、リーベルは膝を抱えていた。
「こんな病弱な奴隷……誰もいらない……」
体は小さく、力もない。
大した仕事もできず、今回も主人の役に立てなかった。奴隷市場に行くのは、これで何度目だろうか。
そんな自分に、もう価値などないと思っていた。
──でも、その時。
「……それは売りに出す奴隷か?」
不意に、聞き慣れない男の声がした。主人は馬を止める。
「……ああ、そうだが。」
リーベルはそっと顔を上げた。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
黒い服を身にまとい、どこか品のある雰囲気を持っていた。
リーベルは彼をじっと見つめる。
「言い値で買おう。」
──え?
驚いて目を見開く。主人も、僅かに動揺したようだった。
「……ほう?本気か?」
「ああ。」
男は迷いなく、懐から袋を取り出す。
「金貨二十枚でいいか?」
じゃらり、と金貨の音が鳴った。
主人は目を丸くし、それからニヤリと笑った。
「おいおい、冗談じゃないよな?本当にこんな病弱な奴に、二十枚も払うのか?」
「構わない。」
「……まあ、いいけどな。ほら、持ってけ。」
そう言われて、リーベルは呆然としたまま馬車から降ろされた。
男がそっと手を差し出す。
「もう大丈夫だよ。」
リーベルはその手を、ただ茫然と見つめていた。
(どうして……?)
(わたしなんかに、こんなにたくさんの金貨を払うの……?)
──その日から、リーベルは孤児院で暮らすことになった。
暖かい食事を食べ、柔らかいベッドで眠ることができるようになった。
体調が悪い時は、先生が心配してくれる。
「幸せ」というものを、初めて知った。
──でも。
リーベルの心には、ずっとある想いがこびりついていた。
(わたしは……金貨二十枚分の恩返しを、しなきゃいけない。)
——そして、今。
リーベルは、唇を噛みしめながら言った。
「……でも……わたしは……今になっても……」
「……?」
「金貨二十枚どころか……たった一枚分の恩すら……返せてない……!」
リーベルの拳が、膝の上で震える。
「先生は……あの日、私を買ってくれた……!何の価値もないわたしに……二十枚も金貨を払ってくれた……!二十枚もあれば、牧場になるくらい、たくさんの家畜が買えるよ!宝石だって、高価な食べ物だってたくさん… 家だって買えるかもしれないのに……!」
「……」
「なのに……わたしは……!」
「……リーベル……」
リリィは、何も言えなかった。
リーベルの痛みが、自分の心にも重くのしかかる。
リーベルは、涙をこぼしながら続けた。
「……ヴェルメイン先生は、優しすぎるよ……」
「……」
「わたしが先生のために何かしようとしても、『無理しなくていい』とか、『君の将来が第一』とか言って、止めてくるのっ!わたしに、名前までくれたのに!……こんな気持ちになるなら……いっそ……」
「いっそ?」
「……いっそ、出会わなければよかった……!」
「っ……!」
リリィは息を呑んだ。
リーベルは泣きながら、顔を覆う。
「……なのに、好きになっちゃった……!」
「……!」
「こんな想い……抱いちゃいけないんだよ……!」
涙が、次々とこぼれていく。
リリィも胸が痛くてたまらなかった。
──それは、自分にも当てはまる気持ちだったから。
好きになってはいけない人を、好きになってしまった。
その苦しさを、どうすることもできない。
リリィは、ただリーベルの震える肩を見つめることしかできなかった。




