016 白蝶の夢
「ウッドワードの砦」──ここには、三十人ほどの子どもたちが暮らしている。
この国では、孤児院の数は決して多くない。孤児となった子どもたちは、運が良ければ里親に引き取られる… さもなければ路上で生きるしかなかった。そうなってしまった子は、しばらくしないうちに奴隷商や人攫いに見つかってしまう。そうなればもう、奴隷として売られる他ない。
そんな中で「ウッドワードの砦」は、数少ない──いや、ほぼ唯一と言ってもいいほど、孤児たちに安定した暮らしを与える場所だった。
院長先生が中心となり、この施設を設立したのは十数年前のこと。
「砦」と名付けられたのは、ただの孤児院ではなく、ここが子どもたちを守るための「最後の砦」となるように、という願いが込められているからだと聞いた。
そして、この施設が今のように運営できているのは──
「旦那様の支援があったから」
院長先生の考えに深く共感した旦那様は、必要な資金を惜しみなく提供し、時には直接足を運んで子どもたちの世話をし、教師たちを助けてきた。
まるで、本当に「家族」を守るように。
リリィは、そんな話を聞きながら、胸の奥がじんわりと温まるのを感じていた。
(旦那様って、すごい人なんだ……)
彼が優しい人なのは分かっていた。だが、こうして具体的な話を聞くと、その優しさがどれほど大きなものなのか、改めて思い知らされる。
しかも、彼は「名誉市民」の称号を手に入れている。この孤児院への支援は、その誉高い称号を手に入れるまでの経歴の一つに過ぎないらしい。
「……と、そんな感じで、この孤児院は成り立っているのよ。」
そう締めくくると、ヴィオレッタ先生はまたぎこちない仕草で頬をかいた。
「えっと……話が長くなっちゃったわね。じゃあ、私はそろそろ行くわ。もし何か分からないことがあったら、遠慮なく聞いてね?」
「あ……はい。」
リリィが返事をすると、ヴィオレッタ先生はどこかホッとしたような表情を見せ、部屋を出ていった。
ドアが静かに閉まると、リリィは一人きりになった部屋をぐるりと見回す。
(……自由時間、か)
何をすればいいのか分からない。
リリィにとって、「自由に過ごしていい」と言われること自体が、まだ馴染みのないものだった。
なんとなく、ベッドの端に腰を下ろし、ぼんやりと窓の外を見る。色とりどりの花が咲き、優しい風に葉がそよぐ、穏やかな裏庭。
それを眺めていると、ふと動く影が目に入った。
——リーベル。
彼女が、ゆっくりと庭を歩いていた。
そして、彼女の隣には——
「……旦那様……」
リーベルは、旦那様に支えられながら歩いていた。
二人とも穏やかな表情をしていた。
何かを話しているようだったが、リリィのいる場所からでは声が聞こえない。
その光景を見た瞬間──
やはり胸が、締めつけられるように痛んだ。
(……なんで、こんなに苦しいの……?)
分からない。ただ、息がしづらくなるほど胸が苦しい。
それでも、目を逸らすことができなかった。どうしても、二人の会話が気になってしまう。
——知りたい。何を話しているのか。
その衝動に抗えず、リリィはそっと窓を開けた。
外から入り込んできた風が、彼女の頬を撫でる。
リリィは静かに息をひそめ、耳を澄ませた。窓の外から、うっすらと旦那様の声が聞こえてくる。
「……この木は、マルメロといってね、春にはこんな風に、白い花を咲かせるんだ。秋にできる実は、かなり酸味があってね。普通はジャムにするんだが、君は食べたことがあるんじゃないか?」
「……あっ、あの実……はい、あります……」
リーベルの声からは緊張が感じ取れたが、どこか嬉しそうだった。
旦那様は、優しく微笑んで続ける。
「そうだね。ここの庭のものはかなり美味しいと思うよ。土の質も良いし、日当たりも申し分ない。もし興味があれば、今度一緒に何か、植えてみるかい?」
「……! いいんですか……?」
「もちろんだとも。」
その言葉を聞いて、リーベルがぱっと顔を輝かせるのが、遠目にも分かった。
リリィは窓辺に手を掛けたまま、じっとその様子を見つめていた。
リーベルは、旦那様に憧れている。それは、昨日の風呂場で彼女が語った想いから、はっきりと分かっていた。
だからこそ、分かっていたはずなのに——
(……なんで、こんなに苦しいの……?)
リーベルが、旦那様の腕にそっと支えられるたびに、彼女の頬が微かに赤く染まる。
嬉しそうに笑う横顔が、眩しく見える。
そして、旦那様もまた、穏やかに微笑んでいる。
それを見ているだけで、胸が締めつけられるようだった。
モヤモヤとした気持ちが、どうしようもなく膨れ上がる。
嫉妬。
——そう認めるしかなかった。
その事実に気づいた瞬間、今度は別の感情が込み上げてくる。
(……リーベルに、やっぱり申し訳ない……)
たった一人、初めてできた友達。
似た境遇を持ち、互いに寄り添い合えると思った相手。
そんなリーベルを、今、自分は——
恋のライバルとして見てしまった。
(……いや、そんなの、違う……違うのに……)
何が違うのか、自分でも分からない。
ただ、リーベルの幸せそうな姿を見るたびに、胸が苦しくなってしまう。
——それが、どうしようもなく、罪悪感だった。
リリィはそっと窓を閉めると、ベッドに身を沈め、ぎゅっと胸元を握りしめた。
心臓がうるさいくらいに鳴っている。
(……私、どうすればいいの……?)
答えは、見つからなかった。
リリィは何度もベッドの上で寝返りを打ちながら、どうしようもない気持ちを持て余していた。
──このままじゃ、落ち着かない。
そう思った瞬間、身体が勝手に動いていた。
(ちょっと、裏庭を見に行くだけ……別に、悪いことじゃないよね……?)
自分に言い訳をしながらベッドを降り、そっと部屋の扉を開ける。
偶然、裏庭に行ったら、二人と出くわしたことにすればいい… よね?
そんなことを考えながら階段を下り、孤児院の建物の裏手へ回ると、陽の光を受けて鮮やかに輝く庭が目に入った。
季節ごとの花が植えられ、風に揺れる緑の葉が心地よい影を作る。
そして──
「……あ。」
そこには、旦那様とリーベルの姿があった。
ちょうど、リーベルがしゃがみ込んで、真剣な眼差しで土に触れているところだった。
「リーベル、土の状態を見るときは、こうやって指で確かめるんだ。乾燥しすぎてもよくないし、水をやりすぎても根腐れを起こすからね。」
旦那様が優しく声をかけると、リーベルは「はい……!」と頷いて、小さな手で土をそっとつまんだ。
リリィは思わずその様子をじっと見つめてしまう。
そのまま立ち去ろうかとも思ったが、今さら引き返すのも不自然だ。
──よし、「偶然ここに来た」ことにしよう。
「……あの、こんにちは。」
そう声をかけると、二人が同時に顔を上げた。
「あっ、リリィ。」
「おや、裏庭に興味があったのかい?」
旦那様の穏やかな声に、リリィは小さく頷いた。
「さっき、部屋の窓からここが見えて、少し気になって……なっ、何もすることがなかったので… すごく綺麗な庭ですね。」
「フフ、それは嬉しいね。ここは院長先生がずっと大切にしてきた庭でね。私もできる限り手伝っているんだよ。」
旦那様が微笑む。
「……それに、リーベルもここが好きなんだろう?」
「……はい。」
リーベルは少し恥ずかしそうにうつむきながらも、どこか誇らしげな表情をしていた。
「わたし、ここに来たばかりの頃……病気のこともあって、元気がなかったんです。でも、ある時、裏庭を見て……すごく、すごく感動しました。」
彼女の声が少し震える。
「綺麗で……優しくて……ここにいると、苦しかった気持ちが少しずつ和らいでいくような気がして……それで……先生の言いつけを無視して、自由時間のほとんどをここで過ごしていました。」
「えっ……言いつけを無視……?」
リリィが驚くと、リーベルは困ったように笑う。
「……だって、ここがすごく落ち着く場所だったの。……フフッ、ここに来るの、すごく大変なんだけどね。それでも… 見たかった。ここにいる時は……わたしは本当に自由でいられる気がしたの。」
「そうだね。」
旦那様が優しく微笑む。
「でも、見るだけじゃなくて……私も、ここで育ててみたくなって。それで、お勉強の時間に、ヴェルメイン先生にお願いしたの。院長先生は本当に忙しそうだから。」
「私がここにいる間だけでも、と思ってね。」
旦那様がリーベルの肩を軽く叩く。
「リーベルは、将来お花屋さんになりたいそうだよ。ひいては、庭師も目指しているとか。」
「お花屋さん……!」
リリィは驚いた。
リーベルがそこまで明確な夢を持っているとは思わなかった。
──リーベルは思っていたよりも、ずっと前を向いていた。
「……素敵ですね。」
「……えへへ、ありがとう!」
リーベルは照れくさそうに笑う。
そんな彼女の顔を見て、リリィはまた胸がチクリと痛むのを感じた。
(やっぱり、リーベルはすごいな……)
自分にはまだ夢なんてない。
名前ですら、どうするべきか決められないままだというのに。
……このままじゃ、だめだ。
リリィは、ぎゅっと拳を握りしめた。




