015 名もなき森の後砦
リリィは、両手でそっとティーカップを包み込みながら、一口、また一口と紅茶を口に運んだ。優しい香りが喉を通るたびに、少しずつ心が落ち着いていくのを感じる。それはまだ少し温かかった。
(名前……)
「リリィ」という名前を捨てるのか、それとも受け入れるのか──
まだ答えは出せそうになかったけれど、さっきまで胸を締め付けていた焦燥感が、少しだけ和らいだ気がした。
そんなとき──
「……あ、あの……!」
控えめな声が食堂の静寂を破った。
リリィが顔を上げると、扉の前に立っていたのは、一人の女性だった。
やや背の低い、細身の女性。
ゆるやかに波打つ薄紫の髪を肩のあたりで束ね、大人びた深い色の瞳をしている。
だが、その目にはどこか戸惑いが浮かび、おどおどとした雰囲気を纏っていた。
「えっと……リリィ、ちゃん……ですよね?」
女性はぎこちなく微笑みながら、リリィの前まで歩いてきた。
リリィは、少し驚きながらも、小さく頷く。
「……はい。」
「よかった……あ、あのね、私はヴィオレッタって言います。」
そう言って、彼女は胸の前で手を組み、小さく頭を下げた。
「この孤児院で、先生をしています……あの……」
言葉に少し詰まりながら、ヴィオレッタはそわそわと視線を彷徨わせる。
「その……旦那様……じゃなくて、ヴェルメイン先生に頼まれて、リリィちゃんを部屋に案内することになったの。」
「あ……」
「それと……この孤児院での暮らしとか、決まりごとも、私が教えるようにって……」
そう言うヴィオレッタの様子は、どこか不器用で頼りなげだった。
(……この人……)
リリィは、じっと彼女の様子を見つめた。
どこか自信なさげで、おどおどしている。
そして──
(……なんとなく、分かる気がする。)
ヴィオレッタの目の奥にある、暗い影。
それは、リリィがこれまでに見てきたもの… リーベルや、旦那様の手当てをしてくれたお医者様のものと、どこか似ている気がした。
(きっと、この人も……)
言葉にはしなかった。でも、なんとなく察してしまった。
──この人も、きっと、自分と似た、悲しい過去を持っているのだろう。
「……リリィちゃん?」
ふと、ヴィオレッタが不安そうに覗き込んできた。
リリィは、はっと我に返り、小さく首を振る。
「……すみません。ちょっと、考え事をしていました。」
「あ……そ、そうなのね……」
ヴィオレッタは安堵したように微笑んだが、まだどこか落ち着かない様子だった。
「それじゃあ……紅茶を飲み終わったら、お部屋に案内するわね。」
「……はい。」
リリィは静かに頷き、ティーカップに残った紅茶をそっと口に運んだ。
──ヴィオレッタに案内されながら、リリィは静かに廊下を歩いていた。孤児院の建物は、思っていたよりもずっと広かった。
女子用の部屋が集まる棟は二階建てになっていて、階段を上がると、長い廊下が伸びている。
「ここよ。」
ヴィオレッタが足を止めたのは、二階の廊下の一番奥にある部屋だった。
「この角部屋はね、ちょうど少し前に空いたばかりなの。ちょっと行き来が大変だけど、静かで落ち着くと思うわ。」
そう言いながら、ヴィオレッタは扉を開いた。
中に入ると、リリィは思わず目を瞬かせた。
──窓から差し込む光が、優しく部屋を包んでいる。
シンプルながらも清潔感のある部屋だった。ベッドと小さな机、本棚、そして衣装ダンスが揃っている。
そして何よりも目を引いたのは、大きな窓から見える景色だった。
「この部屋ね、窓から裏庭がよく見えるのよ。」
ヴィオレッタが、少しだけ誇らしげに言う。
「ほら、見てあの庭……院長先生だけじゃなくて、旦那様も直接手入れしているの。…あっ、ヴェルメイン先生ね!」
リリィはそっと窓辺に歩み寄り、外を覗き込んだ。
裏庭には、美しく手入れされた草木や花が広がっていた。
レンガ造りの小道があり、奥には小さな池も見える。
(……こんなに綺麗な庭を……旦那様が?)
リリィは、ぼんやりとその景色を見つめた。
こんなにも穏やかで、優しい場所があるなんて…
「…さて。」
ヴィオレッタが、ふと真剣な声を出した。
「ここでの暮らしについて、説明するわね。…あっ、ごめんね!座っていいよ。」
リリィは少し申し訳なさそうに机の椅子を引いて座り、ヴィオレッタの方を向き、静かに頷いた。
「まず、朝は鐘の音とともに起きるの。朝食の時間は決まってるから、寝坊しないようにね。」
「はい。」
「それから、お昼までにお勉強の時間があるわ。年齢や状況によって内容は違うけど、文字の読み書きや計算、それから歴史なんかも習うのよ。」
「……勉強……」
リリィには、勉強の経験がほとんどなかった。話している言葉も、奴隷商に最低限のものを叩き込まれただけのものだ。
「もし分からないことがあったら、先生たちが教えてくれるから大丈夫よ。」
ヴィオレッタが優しく微笑む。
「昼食の後は自由時間。庭で遊んだり、本を読んだり、好きに過ごしていいわ。」
「……自由時間……」
リリィにとっては、あまりにも馴染みのない言葉だった。
「夕方には夕食の時間。それからお風呂に入って、夜はみんなでお祈りをしてから就寝……という流れね。」
一通りの説明を終えたヴィオレッタは、ふぅ、と息をつく。
「ここまでは……大丈夫?」
「……はい。」
リリィは、少しだけ緊張しながら頷いた。
「よかった。じゃあ……最後に、一番大切なことを教えるわね。」
ヴィオレッタの声が、ふと優しくも真剣なものへと変わる。
リリィは、彼女の言葉をじっと待った。
「それは……」
ヴィオレッタは、リリィの目をまっすぐに見つめて言った。
「悩みを一人で抱えないこと。」
リリィは、思わず息を呑む。
「……一人で……」
「ええ。ここにいる子たちは、みんな決して明るい過去を持っているわけじゃない。でもだからこそ、一人で抱え込まないことが大事なの。」
ヴィオレッタの言葉には、どこか自分自身に言い聞かせるような響きがあった。
「それから……」
彼女は少しだけ微笑み、優しく続ける。
「自分と同じような悩みを持つ子がいたら、寄り添ってあげること。」
「……寄り添う……」
「うん。この場所は… 心の後砦だと私は思ってる。そしてここにいる子たちは、みんな似た痛みを抱えてる。だからこそ、お互いを大事にするの。誰かが辛そうにしていたら、そっと手を差し伸べる……そんな場所でありたいのよ、この『ウッドワードの砦』は。……あ、ウッドワードは、院長先生の苗字ね!」
リリィは、ヴィオレッタの言葉を静かに噛み締めた。
──悩みを、一人で抱えないこと。
──同じ悩みを持つ子には、寄り添ってあげること。
それは、リーベルが言っていたことと同じだった。
(……ここでは、みんなが支え合っているんだ……)
リリィは、ぎゅっと拳を握る。
「……分かりました。」
力強くそう答えると、ヴィオレッタはふっと柔らかく微笑んだ。
「うん。」
そして、優しくリリィの肩に手を置く。
「ようこそ、リリィちゃん。ここが……あなたの家よ。」
リリィの胸の奥に、ぽっと小さな温もりが灯った気がした。




