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【第一章完結】名もなき森の後砦   作者: フリィ
プロローグ 不完全な名前
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014 涙色のインク、蜂蜜の紅茶

旦那様は手紙を折りたたみ、そっと机の上に置くと、リリィの方へ向き直った。


「……すまなかったね、話の途中だったのに。」


リリィは慌てて顔を上げ、首を横に振る。


「い、いえ……!」


「君の大切な話だったのに、待たせてしまった。」


そう言って、旦那様は穏やかな瞳でリリィを見つめた。


「…さて、もう一度聞こう。──リリィ、君は名前を変えたいかい?」


再び、問われた。


リリィは、ペンを握る手に力を込める。


(わたしは……)


答えようとした。


でも──


喉の奥に、何かが引っかかる。


先ほどまで、ほんの少しずつ見えてきたはずの答えが、急に霞んでしまった。


(……どうして?)


胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。


(さっきまで、もう少しで言えそうだったのに……)


今のリリィには、自分の気持ちを整理することができなかった。


旦那様を心配する人がたくさんいることへの複雑な気持ち。それが、ただの嫉妬なのだと理解した瞬間の、自己嫌悪。


そして──


(……一週間後には、旦那様がいなくなってしまう……。)


その事実が、ひどく怖かった。


何かを選ばなきゃいけないのに、焦れば焦るほど考えがまとまらない。


名前を変えるのか、それともこのままでいるのか。


(……今、わたしが本当に考えたいのは、名前のこと? それとも──)


「リリィ?」


旦那様の声に、はっと顔を上げた。


「……っ!」


思わず目が揺れる。


どうしても、うまく言葉が出てこない。


それでも、何かを言わなくちゃいけないのに──


リリィは、喉の奥に込み上げた言葉を、ぎゅっと飲み込んだ。


「……ごめんなさい。」


それだけ、かすれた声で絞り出した。


旦那様は、リリィが絞り出した「ごめんなさい」という言葉を静かに受け止めると、そっと片手を彼女の手に重ねた。


リリィの小さな手は、緊張で強ばっていた。


「——大丈夫だよ。」


穏やかで、優しい声。


「これは君の人生において、とても大きな分かれ道だ。」


手のひらから伝わる温もりが、じんわりと広がっていく。


「焦らなくていい。」


「……」


「こちらこそ、何度も決断を迫ってしまってすまないね。」


リリィは息を呑んだ。


(……違う。)


(旦那様は、悪くないのに。)


焦っているのは、わたし自身のせいなのに。


わたしが──


わたしが、勝手に苦しくなって、勝手に嫉妬して、勝手に怖がっているだけなのに。


(なのに、どうして……)


旦那様は、こんなにも優しくて。


こんなにも、温かくて。


(どうして、わたしなんかのために……)


胸が、張り裂けそうだった。


じわり、と涙が溢れそうになるのを、必死に堪えようとした。


でも──


「……っ、ごめんなさい……!」


堪えきれなかった。


涙がぽろぽろと零れ落ちる。


もう何回、ここに来てから泣いたか分からない。


リリィは机にうつ伏せになり、震える声で「ごめんなさい」を繰り返すことしかできなかった。


「ごめんなさい……ごめんなさい……っ……」


自分の身勝手な嫉妬や恐怖のせいで、思考がまとまらなくなっているのに。


それなのに、不必要に旦那様を心配させてしまっている。


(どうして、こんなに……)


(こんなに、醜くて……情けないんだろう……。)


涙が止まらない。


机の上に落ちる雫が、広がって滲んでいく。


旦那様は何も言わなかった。


ただ、そっとリリィの背中を撫でるだけだった。


その優しさが、余計に胸を締め付けた。


──しばらくの間、リリィのすすり泣く声が、静かな食堂に微かに響いていた。旦那様はそんな彼女の背中をしばらくそっと撫でていたが、やがて手を離し、穏やかに口を開いた。


「……ひとまず、リリィとして君を迎え入れよう。」


リリィの肩が、ぴくりと震える。


「名前のことは、ゆっくり考えるといい。」


相変わらず優しく、穏やかな声。


「一人で考えなくてもいいさ。ここにはたくさんの『先輩』がいるからね。」


「……」


リリィは涙で濡れた頬を机に伏せたまま、ぎゅっと指を握りしめた。


旦那様はそれ以上何も言わず、そっと立ち上がる。


そして、テーブルの上に置かれていた空のティーカップを手に取り、ティーポットの中に残っていた紅茶を静かに注いだ。


琥珀色の液体が、優しい香りを漂わせながらカップの中に満ちていく。


「……ひとまず、これを飲んで落ち着くといい。…すまない、冷めてしまっているようだが…」


リリィの前に、そっとティーカップが置かれる。


「私のお気に入りなんだ。」


それだけを言い残し、旦那様はゆっくりと歩き出した。


リリィは顔を上げられないまま、その背中が遠ざかっていく気配を感じた。


やがて、食堂の扉が静かに閉まる音が響く。


リリィは、ひとりになった。


机の上に置かれた紅茶から、ふんわりと優しい香りが立ち上っている。


涙に濡れた目元を袖で拭いながら、リリィはそっとティーカップを手に取った。


(……旦那様のお気に入り……)


カップの中を覗き込む。


その色は、まるで彼の瞳のように、どこまでも深く、優しい琥珀色をしていた。しかし今はその色に、全てを見透かしているような、得体の知れない恐怖を感じてしまうのだった。

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