013 塵の上の足跡
旦那様は席を立ち、棚の上から一枚の紙とインクペンを手に取った。
リリィが不思議そうに見ていると、それをそっと目の前に置く。
「名前を書いてごらん。」
「……え?」
「そういえば、まだ君の名前を聞いていなかったからね。」
旦那様は穏やかに微笑みながら言った。
「すまないね。君を新しい家族として迎え入れるには、いろいろと書かなければならないものがあるんだ。万が一忘れてしまって、君の名前を二度も尋ねるのは申し訳ない。だから、書いてみてくれるかい?」
リリィは、少し驚いたままペンを手に取る。
目の前の紙は真っ白で、まだ何の跡もない。
(……わたしの、名前。)
ペンの先を紙の上に置いたまま、手が止まる。
書けばいい。簡単なことのはずなのに。
「……」
ペンを持つ手が、震えた。
(リリィ……って、書いていいの……?)
今まで、名前を意識したことはなかった。物心ついた頃から、奴隷商たちは自分を「リリィ」と呼んでいた。だから、ただそれを受け入れていただけ。
でも、それが本当に自分の名前なのかと聞かれると、わからない。
(この名前は……あの人たちが、適当に呼んだだけかもしれない……。)
そう思うと、ペン先が進まなくなる。
頭の中で、先程のリーベルの言葉がよみがえった。
──「そんな私に、あの先生が名前をくれたんだ。」
──「この名前をもらったとき、初めて『わたしは、わたしなんだ』って思えたんだよ。」
(……わたしも、新しい名前をもらったほうがいいのかな……。)
リーベルのように、ここで新しい自分として生きるために。
でも、今まで「リリィ」として生きてきたことを、全部なかったことにしてしまうような気がして——
「……大丈夫かい?」
不意に、旦那様の声がした。
はっと顔を上げると、旦那様がじっとこちらを見つめていた。
優しくて、どこか静かに見守るような瞳。
「迷っているのかい?」
「……っ」
リリィは、小さく息をのんだ。震える手でペンを握ったまま、俯く。
「……わたしの名前は……リリィ、です。」
静かな声だった。
旦那様は黙って、リリィの言葉を待っている。
「でも……これは……」
喉の奥が詰まるような感覚。うまく言葉が出てこない。
「物心ついた時から……奴隷商の人たちが、そう呼んでいました。」
リリィは唇を噛んだ。
「それが、本当の名前かどうかも……わからないんです。」
小さな手が、ぐっと紙の端を握る。
「リーベルさんが……旦那様に名前をもらったって聞いて……わたしも、そうするべきなのかなって……。」
「……そうか。」
旦那様は少し目を細めた。
そして、穏やかな声で問いかける。
「──リリィという名前は、もう使いたくないかい?」
リリィは、息を呑んだ。
「……それは……」
すぐに答えられない。
「……嫌、というわけじゃ、ないんです。」
震える声で、なんとか絞り出す。
「でも……わたし、この名前を……わたしのものだって、思ってもいいのか……。」
「なるほど。」
旦那様は静かに頷いた。
「この孤児院にいる子たちは、みんな私の家族のようなものだ。」
リリィは顔を上げた。
「君と同じように、生まれた時の家族を知らない子もいる。名前を忘れてしまった子もいれば、新しい名前を望んだ子もいた。」
旦那様の言葉は、ゆっくりと、リリィの胸に落ちていく。
「…私はそういった子に、新しい名前を授けた。」
「……そう、なんですか。」
「そうだ。」
旦那様は少しだけ微笑む。
「でも、名前というのは… ただ呼ばれるためのものではない。」
「……?」
「それは、自分が生きてきた足跡のようなものだ。」
「足跡……?」
「そうだ。…ああ、私の名前を言っていなかったね。申し訳ない。」
旦那様はそっと紅茶のカップを持ち上げると、一口飲んで、続けた。
「例えば、私の名前は、フリーゼ。フリーゼ・ヴェルメインだ。この名前が、私が生きてきたという証になる。…この名前を一人でも覚えていてくれる限りね。そしてリリィ──君がこれまで生きてきた証として、その名前を受け入れるのか。それとも、新しい人生を一から紡ぎたいと思うのか。」
「……」
「それは、君が決めることだよ。」
リリィは、旦那様の言葉を何度も頭の中で反芻した。
過去を受け入れるか、新しい人生を歩むか──
それは、わたしが決めること。
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
ペンを持つ手に力がこもる。
──わたしは、一体……。
リリィが何か言おうとした、その時──
「失礼しますよ。」
ゆっくりとした足取りで、年老いた男性が食堂に入ってきた。院長先生だ。
白くなった髪を整えながら、彼は微笑みを浮かべて旦那様の元へと歩み寄る。
「旦那様、手紙が届いております。」
そう言って、一通の封書を手渡した。
旦那様はそれを受け取り、封の部分に刻まれた家紋を見て、ふっと微笑む。
「……ロザーナからか。」
「どなた… ですか?」
リリィが思わず尋ねると、旦那様は答えた。
「ああ、私の家で長く仕えてくれている者だよ。メイド長を務めている。私の安否を心配しているのだろう。」
旦那様は手紙の封を切り、中の便箋に目を通す。
リリィはそれをじっと見つめながら、静かに胸の内を整理していた。
(……当然、ですよね。)
旦那様のことを心配する人は、わたし以外にもたくさんいる。
メイド長のロザーナさんも、旦那様が戻らないことを案じて手紙を送ってきた。きっと、屋敷には他にも旦那様の無事を気にかけている人がたくさんいるんだろう。
それは、とても素敵なことのはずなのに──
(……わたし、なんで……こんなに、悲しいんだろう。)
胸が、ぎゅっと痛む。
「……なるほど。」
手紙を読み終えた旦那様は、静かに院長へと顔を向けた。
「院長、私は一週間後に屋敷へ戻ることにしようと思います。」
「ほう、それはよろしい判断かと。傷も完全には癒えておりませんし、しばらくはこちらで静養されるのがよろしいでしょう。」
「では、そのように伝える返事の手紙をお願いします。」
「かしこまりました。」
院長は深く頷くと、再び静かに食堂を後にした。
──旦那様は、一週間後に帰ってしまう。
少女は、その事実をただ黙って受け止めるしかなかった。




