012 陽だまりと小鳥の巣
リーベルは静かにスプーンを手に取り、残っていた朝食を食べ進めた。
少女──リリィは、隣でじっとリーベルの横顔を見つめる。彼女は穏やかな表情のままだったが、どこか遠くを見ているようにも感じられた。
やがて朝食を食べ終えると、ふとぽつりと呟く。
「…ねぇ、リリィ。」
「はい?」
「『自由』って、なんだと思う?」
不意の問いに、リリィは少し驚いた。
「自由、ですか…?」
「うん。」
リーベルは食器をそっとテーブルに置き、膝の上で手を握る。
「…自由って、何でもできることだよね? 好きなところに行けて、好きなものを食べて、好きなことをして…」
リーベルの言葉は、ゆっくりとしたものだった。しかし、その声には、先程と比べてどこか力がない。
「でもさ、わたしはどうなんだろうって思うんだ。」
リーベルは俯いた。
「他の子たちは、元気に庭で遊んでる。でも、わたしは長く歩けないから、ちょっとしか遊べない。」
リリィは黙って聞いていた。
「みんなと一緒に食堂でご飯を食べたいのに、それすら先生に止められる。無理をすると、体が痛くなるから…って。」
「リーベルさん…」
「こんなの…『自由』なのかな。」
その言葉は、リリィの胸に重くのしかかった。
「わたし、自由をもらったはずなのに、できないことばっかりで… それなのに、こんなすごい名前をもらって…」
リーベルの声が震える。
「…それでも、わたしは自由なのかな…?」
沈黙が落ちた。
リーベルの言葉が、ひどく苦しく感じられた。自分ではどうにもならないこと。それをただ、受け入れるしかない苦しさ。
リリィは、自分の手をじっと見つめた。
(わたしは…何も知らなかった。)
リーベルが、こんなふうに悩んでいたことも。ずっと苦しんでいたことも。
何か言わなければ。でも、何を言えばいいのか分からない。
ぎゅっと拳を握る。
──でも。
言葉は見つからなくても、伝えたいことはあった。
リリィは、震える声で勇気を振り絞る。
「…リーベルさん。」
「ん…?」
リーベルが顔を上げる。
リリィは真っ直ぐにリーベルを見つめて——小さく、それでもはっきりと言った。
「わたしと、お友達に… なりませんか?」
リーベルの目が、驚きに見開かれた。
「…え?」
「わたし、友達って… どんなものか、よく分かんないです。でも…」
リーベルの手を、そっと握る。
「わたしが、リーベルさんのそばにいても… いいですか?」
その言葉を口にした瞬間、リリィの心臓が大きく跳ねた。こんなことを言ったのは、初めてだった。
リーベルは一瞬呆然としていたが──やがて、ふっと息をつく。
そして、ゆっくりと、微笑んだ。
「…リリィって、変わってるね。」
「えっ…?」
「普通、もっと気を遣うんじゃない?『大丈夫だよ』とか、『きっと自由だよ』とか、そういう綺麗な言葉をかけてくれるものかと思ってた。」
リーベルは、少しだけ涙ぐんだ目で、リリィを見つめた。
「でも… そうじゃなくて、そばにいたいって言ってくれるんだね。」
「…はい。」
リーベルは、少しだけ迷ったようにして──それでも、そっとリリィの手を握り返した。
「うん。…嬉しかった。よろしくね、リリィ。」
その言葉に、リリィの胸がじんわりと温かくなった。
──その後、リリィはリーベルからはたくさんの話を聞いた。リーベルはほとんどの時間をこの部屋で過ごしているが、時折悩みを抱えた子どもがリーベルの部屋を訪れるそうだ。リーベルはこの孤児院の中では年長の方であり、先生には打ち明けにくい悩みに付き合っているらしい。
そして、昨日のことをしっかりと謝ることができたリリィは部屋を出て、意を決して男を探しに食堂へ戻ることにした。小さく息を吸い、拳を握る。
(…逃げちゃだめ。)
自分の気持ちに整理がつかず、昨日は途中でリーベルの話を聞くのが怖くなってしまった。でも、リーベルは受け止めてくれた。
今度は──わたしが、向き合う番だ。
足を踏み出し、食堂へ向かう。朝食の時間は終わり、食堂にはもう誰もいなかった。
…いや、たった一人だけ。
旦那様が、窓際の席に座り、静かに紅茶を飲みながら本を読んでいた。
リリィは、少し緊張しながらも、ゆっくりと近づく。すると──
「おかえり。待っていたよ。」
本から目を上げた旦那様が、穏やかにそう言った。
その一言で、胸の奥がじんわりと温かくなる。まるで、わたしがここに来ることを信じてくれていたような、そんな言葉だった。
「……っ」
リリィは、込み上げる感情を押し殺しながら、旦那様の向かいに座る。
「…さっきは、ごめんなさい。」
素直に頭を下げた。
「わたし… 勝手に逃げちゃって…」
「フフ… いいんだよ。」
男は、ゆっくりと紅茶のカップを置いた。
「少しずつでいい。無理に向き合おうとしても、人はそう簡単に答えを見つけられるものじゃない。」
「……はい。」
その言葉に、少しだけ気持ちが軽くなる。
しばらく沈黙が流れた。窓から差し込む朝の光が、静かに食堂を包み込んでいる。
「……それで、どうしようか。」
旦那様が、やわらかい声で尋ねる。
「君は、ここに住みたいかい?」
リリィは息を呑んだ。
この問いに答えることを、ずっと考えていた。
ここにいていいのか。 わたしは、ここにいてもいいのか。
まだ迷いはある。でも——
「……わたし、ここにいたいです。」
自分の声が震えないように、しっかりとした口調で言った。
男は、ふっと目を細める。
「そうか。」
「……でも、わたし、何もできません。リーベルさんみたいにみんなを支えられるわけでもないし、役に立てるかわからないし…」
「…」
「……それでも、ここにいたいです。」
リーベルが言っていた。「名前は、自分らしく生きるためのもの」だと。
だったら、わたしは──
「わたしも、わたしらしく生きられる場所を見つけたいんです。」
小さな手を、ぎゅっと握りしめる。
男はしばらく少女を見つめていたが、やがて小さく笑った。
「ああ。それなら、ここで暮らすといい。」
その言葉を聞いた瞬間、胸がじんわりと温かくなる。
「ここは、君の家だよ。」
(……家。)
その響きが、なんだかくすぐったくて、でも、ひどく嬉しかった。




