011 名前のない花
朝食を食べ終えると、少女はすぐに立ち上がった。
「旦那様、リーベルさんの部屋って、どこですか?」
不意に出た言葉に、男は少し驚いたようだったが、すぐに穏やかに微笑んだ。
「部屋なら、廊下をまっすぐ進んで、右側の階段を上がってすぐのところにあるよ。可愛らしい看板と、白い扉が目印だ。」
「ありがとうございます…!」
少女は礼を言うと、そのまま食堂を逃げるように飛び出した。
(謝らなきゃ… 昨日、何も言わずに逃げちゃったこと…)
胸の中に残るモヤモヤが、どうしようもなく居心地の悪さを生んでいた。リーベルはただ、親しげに話をしていただけなのに、自分はそれを受け止めきれずに逃げてしまった。
(リーベルさん、怒ってるかな…)
そんな不安を抱えながら、少女は言われた通りの白い扉の前に立った。
軽くノックをすると、すぐに中から声がした。
「どうぞー。」
扉を開けると、こちらに背を向けて窓の方を見ているリーベルの姿が目に入った。
「…あれ?」
リーベルはベッドの上に腰掛け、小さなテーブルの上に並べられた朝食をゆっくりと口に運んでいた。どうしてここで食べているんだろう?
「…リーベル、さん。」
少女がそっと呼ぶと、リーベルは驚いたように顔を上げた。
「…あっ!来たんだ!どうしたの?」
「あっ、あの… どうして食堂に来なかったんですか?」
少女が不思議そうに尋ねると、リーベルは一瞬だけ躊躇したようだったが、すぐに肩をすくめて笑った。
「えーっと… 昨日、ちょっと無理しすぎちゃってさ。先生に怒られちゃったんだよね。」
「え…?」
「…私ね、子どもの頃からあんまりご飯食べられなかったから、栄養が足りなくてさ。骨が弱いんだって。」
リーベルはそう言いながら、スプーンをくるくると回した。
「だから、あんまり長く立ちっぱなしとか歩きすぎると、痛くなっちゃうの。昨日は、みんなに会いたくて無理して食堂行って、お風呂も入っちゃったから、先生に『少しは自分の体を労わりなさい!』って怒られちゃった。」
そう言って笑うリーベルだったが、少女はその言葉に胸が締め付けられるような思いがした。
「…そんなこと、知らなかったです。」
「そりゃそうでしょ。昨日会ったばっかりだし。」
「でも… もっと早く気づけばよかった…」
少女は俯きながら、ぎゅっと拳を握った。リーベルはそんな彼女の様子を見て、くすっと笑う。
「何それ、君が落ち込むことじゃないでしょ。」
「でも… わたし、昨日… 逃げちゃったし…」
「フフッ… うん、逃げてたね。」
リーベルはあっさりとした口調で言った。その言葉に、少女はさらに肩を落とし、どう謝ればいいのかわからなくなってしまう。
「…ごめんなさい。」
「なんで?謝らなくていいよ。」
リーベルはにこっと笑って、スプーンをテーブルに置いた。
「私はね、君がどう思ってるか、なんとなくわかるよ。だから、大丈夫。」
「……?」
少女が顔を上げると、リーベルは意味深な笑みを浮かべたまま、少女をじっと見つめていた。
「まあ、それはそれとして、せっかく来たなら座っていきなよ。朝ごはん、まだ残ってるし。」
「え、でも…」
「いいからいいから。ほら、ここ座って。」
リーベルはぽんぽんとベッドの隣を叩いた。
少女は戸惑いながらも、そっとベッドの端に腰を下ろした。
(…リーベルさん、何をわかってるんだろう?)
そんな疑問を抱えながら、少女はリーベルの顔をそっと伺った。リーベルはただ、どこか楽しげな笑みを浮かべていた。
「そういえばさ、君の名前、まだ聞いてなかったよね?」
少女は一瞬戸惑ったように目を瞬かせたが、すぐに小さく答えた。
「…リリィ、です。」
「リリィ、か。」
リーベルは少しの間、その名前を噛みしめるように繰り返した。そして、ふっと少しだけ寂しげな笑みを浮かべる。
「…間違ってたら、ごめんね。それって……奴隷商が適当に付けた名前、なんじゃない?」
「っ…!」
少女の肩がビクリと震えた。胸が締め付けられるような感覚が広がる。
「わ、わたし…!」
何かを言いかけたが、言葉にならなかった。喉が詰まり、心の奥底に押し込めていた不安が、一気に溢れ出しそうになる。
(そうだ… わたしの名前は、わたしのものじゃない。わたしは、誰かが適当に付けた名前を、ただ名乗っているだけ。)
わたしは──何者なんだろう?
思考がぐるぐると巡り、胸がざわつく。自分がどこから来たのか、誰の子どもだったのか、何も知らない。気づけば、ひどく心細くなっていた。
「……わたし、名前が…ない、の……?」
震える声でそう呟くと、怖くなった。自分という存在がふわりと消えてしまいそうで。
そのとき──
「大丈夫。」
ふわりと、柔らかなぬくもりが少女を包み込んだ。
リーベルだった。何も言わず、ただそっと少女を抱きしめてくれていた。
「……リーベル、さん…?」
「怖いよね。自分が何者かわからなくなるのって。」
リーベルの声は優しく、そしてどこか遠くを見ているような響きだった。
「私も、昔まったく同じだったよ。」
少女は驚いてリーベルを見上げる。
「リーベルさんも…?」
「うん。わたしも、名前なんてなかった。奴隷だった頃、ただの『商品』だったからね。フフッ… わたしなんかもっと酷いよ?…ただの番号だよ。」
静かな言葉が、少女の胸にじんわりと染み込んでいく。
「だから、自分が何者かわからなくて、すごく怖かった。『わたし』って、一体なんなんだろうって。」
リーベルの腕の力が、少しだけ強くなる。
「でもね、そんな私に、あの先生が名前をくれたんだ。」
「……旦那様が?」
「うん。…フフッ。旦那様なんて呼んでるんだ。『リーベル』って名前はね、どっかの国の言葉で、自由を意味する言葉なんだって。」
リーベルはそっと腕をほどき、少女の目を見つめた。
「この名前をもらったとき、初めて『わたしは、わたしなんだ』って思えたんだよ。」
そう言って、リーベルは穏やかに微笑んだ。
「今でも、この名前をすごく気に入ってる。」
その言葉に、少女の胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「だからね、リリィ。もし今の名前が、君にとって苦しいものなら… 新しい名前をもらえばいいんだよ。」
「……新しい、名前…?」
「うん。名前はね、その人が『自分らしく生きるためのもの』なんだと思う。」
リーベルの言葉は、少女の中にすっと入り込んできた。
自分らしく──生きるためのもの。
「……そんなこと、考えたことなかった、です。」
少女は、そっと自分の胸に手を当てた。まだ、自分の気持ちは整理できない。けれど、少しだけ、何かが変わり始めた気がした。
リーベルは少女の手を取り、優しく微笑んだ。
「大丈夫。ゆっくり考えればいいよ。」




