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【第一章完結】名もなき森の後砦   作者: フリィ
プロローグ 不完全な名前
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010 恋の傷跡

少女は医務室に一人で戻ると、乱暴に扉を閉め、ベッドに倒れ込んだ。冷たいシーツが火照った体をわずかに冷ます。


「わたし…」


小さく呟き、シーツを握りしめる。


リーベルの言葉が、何度も頭の中で反芻していた。


『あの先生って、かっこよくない?』

『守られてるのに、逆に守ってあげたくなる感じしない?』

『私ね、前からちょっと憧れてるんだ。先生のこと』


(憧れ…)


その言葉が、胸に突き刺さる。


少女にとって、旦那様は特別な存在だった。奴隷だった自分を救い出し、温かい食事と寝る場所を与えてくれた。初めて自分に優しくしてくれた。初めて、人間らしい暮らしを教えてくれた。


(恩返しがしたい。ずっと、そばにいたい。なのに…)


なのに、どうしてこんなにも心がざわつくのだろう。リーベルの言葉を聞きたくなかったのは、なぜ?


(まさか…)


考えたくない可能性が、脳裏をよぎる。


(わたし、旦那様のことを…)


そこまで考えて、少女は慌てて頭を振った。


「そんなこと、あるはずない…!」


ありえない。だって、旦那様は恩人だ。尊敬している。感謝している。それなのに、そんな…


(でも…)


胸の奥が、ぎゅうっと締め付けられる。


(リーベルさんは、あんなに楽しそうに話してた。わたしも、あんな風に…)


あんな風に、旦那様のことを話したい。でも、今の自分にはできない。リーベルのように、素直に自分の気持ちを口にすることができない。


(わたし、どうしたら…)


わからない。わからないことばかりだ。


少女は、毛布を頭から被り、小さく丸くなった。暗闇の中、熱いものが頬を伝う。


(わたし、旦那様のことが…)


認めたくなかった。でも、心の奥底では気づいていた。


(好きなんだ…)


初めて自覚した、自分の気持ち。それは、少女にとってあまりにも眩しく、そして残酷なものだった。


(でも、わたしは…)


奴隷だった。旦那様は、そんな自分を救ってくれた。身分の違い。年齢の差。まだ何の恩も返せていないこと。そして、何よりも——。


(旦那様には、わたしじゃない、もっと素敵な人が…)


自分ではない、誰かが隣にいる未来。それは旦那様にとって最も幸せなもののはず。そうに違いない。しかし、そう想像しただけで、胸が張り裂けそうになる。


(わたしは、どうしたらいいの…?)


答えの出ない問いが、暗闇の中に溶けていく。少女は、ただひたすらに、涙を流し続けた。


翌朝、少女はひどく腫れた目で目を覚ました。制服のまま寝てしまったためか、重い痛みが全身にのしかかる。寝不足の頭はぼんやりとしていて、まるで昨日の出来事が夢だったかのように思えた。


(夢なら、よかったのに…)


そう思った瞬間、胸がちくりと痛んだ。夢ではなかった。自分の気持ちも、昨日の出来事も、すべて現実だ。


(今日は、どうやって旦那様に会えばいいんだろう…)


昨日旦那様が寝ていたベッドは片付けられていて、部屋には誰もいない。みんなと会ったら、笑顔で話せるだろうか。特にリーベル。昨日のことを、なかったことにできるだろうか。


(できない…)


そう思った時、少女は初めて、自分の気持ちと向き合う覚悟を決めた。


(逃げてちゃ、だめだ…)


たとえどんな結果になろうとも、自分の気持ちから目を背けてはいけない。そう思った。


少女は、ゆっくりとベッドから起き上がり、顔を洗った。冷たい水が、わずかに心を落ち着かせてくれる。


(まずは、普通に… ありがとうと言いたい。)


そう自分に言い聞かせ、少女は部屋を出た。廊下を歩く間も、ずっと心臓がドキドキと音を立てている。


(もし…もし、リーベルに… 旦那様に、何か聞かれたら…?)


何を答えればいいのか、全く分からない。ただ、嘘だけはつきたくなかった。


(…正直に、話そう…)


そう覚悟を決めた時、少女はふと、食堂から楽しそうな声が聞こえてくることに気づいた。


(みんな…もう、朝ごはんを…)


ゆっくりと食堂の扉を開けると、そこには、いつものように賑やかな光景が広がっていた。子どもたちが楽しそうに食事をし、孤児院の先生たちも笑顔で会話をしている。


(…わたしだけ…)


そう思った瞬間、少女は自分がひどく場違いな場所にいるように感じた。


(わたしだけ…昨日から、何も変われてない…)


みんなは、いつも通りに笑っている。でも、自分は…。


(…帰ろう…)


そう思い、少女はそっと食堂を後にしようとした。その時だった。


「おはよう。」


背後から、優しく声をかけられた。振り返ると、そこには、いつものように穏やかな笑顔を浮かべた旦那様が立っていた。


「…お、おはようございます…」


震える声でそう答えるのが精一杯だった。


「…少し、顔色が悪いようだけど、どこか具合でも悪いのかい?」


心配そうな眼差しに、少女は思わず目を逸らしてしまう。


「…いえ、大丈夫です…」


嘘をついてしまった。でも、本当のことを言う勇気は、まだなかった。


「そうか。無理はしないようにね。」


そう言って、目の前の紳士は少女の頭を優しく撫でた。その温かい手に触れた瞬間、少女の目から、とめどなく涙が溢れ出した。


「…っ…ごめんなさい…ごめんなさい…」


泣きながら謝る少女に、男はただ、困ったように微笑むだけだった。


「…どうしたんだい?何かあったのかい?」


そう聞かれても、少女は何も答えることができなかった。ただ、泣き続けることしかできなかった。


(…わたし…どうすれば…?)


少女の心は、ますます混乱していく。逃げたくなる気持ちを抑え、少女は弱々しく口を開いた。


「ごめんなさい… ちょっと、まだ気分が…」


男の目が優しく見つめ、そして、静かに言った。


「大丈夫だよ。少しだけでも、一緒に食べよう。」


その声があまりにも穏やかで、少女は心の中で一瞬だけ戸惑った。だが、そのまま引き寄せられるように、足を踏み出す。


「…わかりました。」


男は頷き、食堂の中へと先に歩き出した。少女もそれを追うように歩き始めたが、心の中ではその重さが変わることはなかった。


食堂の中に入ると、子どもたちが賑やかに朝食を楽しんでいる光景が広がっていた。温かいパン、焼きたての卵、フルーツが並んでいるテーブルに、笑顔の子どもたちが次々と手を伸ばしている。見ていると、まるでそれがいつもの見慣れた朝の光景で、どこか心がほっとするようだった。


「おはよう先生!お姉ちゃんもこっちに来て!」


小さな声が、少女を呼ぶ。その声に、思わず微笑みそうになるが、同時にリーベルの姿が目に入らないことに気づく。


「リーベルさんは…?」


少女が自然に口にしたその言葉に、男が少しだけ目を細め、少し躊躇いがちに口を開いた。


「…今日は、来ていないようだね。…フフ、もう友達を作ったのかい?」


「あ… いえ、そういう、訳では… ただ、お風呂で少し、お話ししただけで…」


リーベルが来ていないことに、少女は一瞬だけ胸の奥で小さな不安を感じた。昨日、あれだけ話していたのに、今は一人だけ食卓にいないのが、何だか不思議だった。


(リーベル、どうしてるんだろう…)


それでも、食卓の温かい雰囲気に引き寄せられるように、少女は席に座った。男も、彼女の隣に静かに腰を下ろした。美味しそうな匂いに、自然と手が伸びる。


「どうだい、味は?」


男が優しく声をかけると、少女は一度、しっかりと息を吐いてから、ゆっくりと口を開いた。


「おいしいです。」


その言葉を口にしたとき、ほんの少しだけ心が軽くなったように感じた。だが、それと同時に、リーベルのことが頭をよぎり、再び胸の中にモヤモヤとした感情が沸き上がってくるのだった。

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