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作者: 雉白書屋

 ある春の日、全人類が蛹になった。と言うと、少し語弊があるかもしれない。なぜなら、おれは蛹になっていないからだ。となると、もしかしたら他にも蛹になっていない人がいるかもしれないが、おれにはそれを確かめる術がない。インターネットは苦手で、定年退職してからのおれの世界はこの町だけで完結していた。スーパーや近所の商店、図書館、自宅。これだけで十分だと思っていたのだ。

 今、そのおれの世界はすっかり静まり返っている。テレビはどの局も映らなくなり、駅まで歩いても誰一人いない。ただ、人間がいた唯一の証拠として、蛹が電柱のそばや車、店の中に点々とあるだけだ。蛹の色はそれぞれ異なり、白い壁のそばにあるものは白く、道路に横たわるものは灰色と、保護色になっている。大きさはドラム缶くらいで、形は少し枝豆に似ている。触ると少し硬かった。

 長年連れ添った妻も、何も言わずに蛹になってしまった。いったいどうしてこんなことになったのか。人類の進化の一環なのだろうか。だとしたら、なぜおれは蛹にならないのだろう? 思い返しても、ただ一つ不自然だと感じたのは、普段食の細い妻がやたらとよく食べるようになったことくらいだ。


『あら、もうご飯がなくなっちゃったわ。あなた、たくさん食べたのね』

『馬鹿言え、お前が食べたんだろ』


『あらあら、そうかしら。もっとお米を炊かなきゃね』

『ははは、ほどほどにしとけよ。太っちゃうぞ』


 あれは兆候だったのだろうか。妻はもりもりと食べ、皮膚が徐々に茶色っぽくなっていった。

 そしてある朝、おれが起きると、いつも居間にいるはずの妻がいない。おかしいと思い、妻の部屋を覗くと、床には古い皮が脱ぎ捨てられていた。奥の布団のほうに目を向けると、そこにはカチコチの見事な蛹があった。

 きっと夜のうちに妻はこうなってしまったのだろう。呼びかけても触れても反応はなかったが、確かに中に妻がいる感じがした。

 包丁で切り開こうかと思ったが、下手なことをすると妻が死んでしまうかもしれないと思い、やめた。

 おれは一人、布団の上に座って考えた。あいつはこうなることを知っていたのだろうか。知らなかったらびっくりしただろうなあ。眠っている間に変わったのなら、きっと怖い思いをしなかっただろう。それはよかったが、うーん、しかし、いつ出てくるんだろう……。

 おーい、おーい、寒くないか? 暑くないか? 水はいるか? 触らないほうがいいかなあ。日中は日の当たる場所や風通しのいい場所に移動させたほうがいいかなあ。せめて、どうしたらいいか紙に書いておいてくれればよかったのに。いや、あいつにもわからなかったのか。わからないまま蛹になっちゃったんだろうなあ。今、何を考えているんだろう。意識はあるのかなあ。夢を見ているのかなあ。いい夢だといいなあ……。

 それからおれは毎朝、妻の部屋の窓を開けることを日課にした。以前は家の中にいることが多かったが、天気のいい日は庭に出て体操をしたり、散歩するようにした。おれが病気になったら、いざというときに困るからだ。

 惣菜などスーパーにある出来合いのものはすぐに腐ってしまったので、自炊するようになった。電気の供給は止まってしまったが、おれには昔、ボーイスカウトで身につけた技術がある。飯盒炊爨なんて何十年ぶりだなあと思い、少しウキウキした。

 近所の畑から野菜をいただき、自分でも育ててみた。自転車に乗って、久しぶりに川に行き、釣りもした。日中はそうやって過ごし、夜は妻の部屋で本を朗読したあと、自分の部屋に戻って眠った。一緒の部屋で寝るのは照れくさい。でも、たまに布団を並べて一緒に眠った。

 そうして夏が過ぎ、秋が来て、冬になった。水や缶詰、毛布やカイロなどがあるから、ひと冬ぐらいは問題ないが、はてさて、いつになったら妻は蛹から出てくるのだろうか。春には出てこれるかな。それとも、本当は夏に出てくるはずだったけど、ダメだったのかな。もし冬を越せなかったらどうしよう……。

 おーい、おーい、大丈夫か? 何か欲しいものはないか? 毛布なら商店街の布団屋から借りてきたからたくさんあるぞ。かけたほうがいいか? それともかけないほうがいいか? おーい、おいおい、なんだか泣けてきちゃったよ。寂しいなあ。急がなくていいから、無事に出てきておくれよ……。


 冬が終わり、春を迎えた。ちょうど一年経ったかなあと思いながら日課の散歩をしていると、パックリと開いている蛹を一つ見つけた。

 えらいことだ、とおれが驚くと、頭の上を何かがヒュッと通り過ぎた。見上げたときにはその姿はもうなかったが、おれは嫌な予感がして、慌てて家に向かって走った。風が吹いてきて、頭上で何かがはためく音と匂いがした。しかし、空を見上げる余裕などなかった。

 家のドアを開けると、外で嗅いだものと同じ甘い香りがほのかに漂っていた。

 おれはサンダルを履いたまま、妻の部屋に向かった。窓が開いていたことを思い出し、家に向かって走っている間、気が気でなかったのだ。

 やはり危惧していたとおりだった。

 妻の蛹は背中の部分からパックリと割れていた。そして、窓辺には真っ白でふわふわとした大きな蝶がいた。羽が水に濡れた犬のようにしんなりしていて、まだ飛べるようには見えなかったが、六本の足を使ってゆっくりと窓の外へ出て行った。慌てて、おれもあとを追い、外に出た。

 蝶となった妻は屋根に上がり、羽を広げ始めた。ああしているうちに、きっと飛べるようになるのだろう。おれは妻に、どこにも行かないでほしかった。でも、きっと無理だ。空には気持ちよさそうに飛ぶ蝶の群れが広がっている。おれは両手を精一杯広げ、飛び跳ねながら屋根にいる妻に声をかけた。

 おーい、おーい、おれはここにいるぞ。お前がいない間、一人で頑張ったんだぞ。料理だってしたし、洗濯だってしたぞ。お前の部屋の掃除だって頑張ったんだ。お前が咳き込んだりしないようにって思ってさ。

 おーい、おいおい、行かないでくれ。頼むから一緒にいておくれ。

 妻の飛び立つ準備が整いつつある一方で、おれの体は徐々に硬くなってきた。どうやら、おれも蛹になるようだ。なにくそ、と肩を回して抵抗してみたが、頭のほうからメリメリと皮が剥け始め、視界が茶色く曇った。ええい、邪魔だ。あいつが見えないじゃないか。おれは服と一緒に皮を脱ぎ捨てた。すると途端に、腕を自由に動かせなくなり、まるで扉が閉まるようにゆっくりと腕が胸の前に引き寄せられていく。背中が丸まり始め、肘が腹に、握った拳が顎とくっついた。

 立っていられなくなり、おれは地面に倒れ込んだ。足を動かすとズボンと皮が脱げ、同じように固まっていく。

 視界が靄がかかったように見えにくくなった。ああ、このまま蛹になってしまうのだ。いやだ、いやだ、いやだ……。

 一瞬、目の前に影が通り過ぎた。あいつが飛び去ってしまったのだろう。そう思った途端、体から力が抜けていった。

 ああ、せめて見送りたかったなあ。どこへ行くんだろう。おれが蝶になったら、また会えるのかな。他の男と一緒になってしまうんじゃないか。あいつはいい女だからなあ。そもそも、おれは無事に蝶になれるのかな。おれ一人だけで……。

 あっ! 影が! ははは、まだいたんだなあ……。もしかして、そばにいてくれるのか? ありがとう、ありがとう。なんだか大丈夫な気がしてきたよ。ああ、安心したら眠くなってきた……。おやすみ。おれが蝶になったら、きっとまた会おう……。

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