2 恐怖を回避せよ
「どうしたの慎司、元気ないんじゃない?」
「う、ん……。行って、きます……」
「どこか具合いでも悪いの?」
「いや、特には……」
「本当に大丈夫?」
「う、ん」
「そう……。それじゃ気を付けてね。行ってらっしゃい」
遂にきた、魔の金曜日!
元気がないレベルではない。生きているのかすらわからないくらいに気乗りしない僕は、それでも学校へ出かけるために渋々玄関の重い扉を開けた。
玄関ポーチを下りたところの脇にあるカーポート。そこにはたまにしか動かないお父さんの白い自動車と、ちょこちょこ活躍する僕の黒い自転車が並んで置いてある。何気なく自動車の窓に目を向けると、無気力な僕の姿が脱け殻のような僕を見ていた。
今日、僕はどうなってしまうのだろう…………。
「おはよー、慎ちゃん」
「美奈子ちゃん、おはよ……」
大通りに出る交差点、そこに設置された止まれの道路標識のところで美奈子ちゃんが待っていてくれた。
「気分はどう?」
美奈子ちゃんはこの大通りの向こうからやって来て、自転車も通れる大きな歩道橋を渡ってこちら側に来る。まるで僕と美奈子ちゃんを結ぶ架け橋のごとく、なんちゃって。
でも、今の僕はそんな気分じゃないや…………。
「んー、えん魔様の前で舌を抜かれる気分だよ……」
「気持ちをしっかり持って、慎ちゃん」
「う、ん……」
励ましてくれる美奈子ちゃんは早勉を止めてまで僕に寄り添ってくれる。ありがたい、とてもありがたい。そして僕の左隣りに並んで大通りを一緒に歩いてくれる。しかし、僕の足取りはとても重いままだ……。
「ほら、元気を出して」
「う、ん……」
少し先にはいつものように駄菓子屋とバス停が見えている。そして駄菓子屋の脇に立つ電柱の陰から、篤人がこっそりと視線を送っていた。
「おはよー」
「二人とも、ごめん。僕のために……」
「何言ってんだよ慎司。俺たち昔から一緒だからさ、何かのときには三人で助け合わないと!」
「そうそう、篤人の言う通りよ、慎ちゃん!」
「ありがとう……」
そう言って微笑む美奈子ちゃんの笑顔は天下一品だ。何物にも恐れない自信のある人だからだ。そして、この笑顔が僕に勇気を与えてくれるんだ、いつもは……。
それに対して篤人の笑顔はどうだ。カラ元気というか、自分はカヤの外になったから作れる笑顔に見える。そんな篤人の笑顔でも僕を救ってくれるときもあるんだ、たまにだけど……。
「落ち込んでいてもしょうがないよ。とにかく歩こう、慎ちゃん!」
「そうだぞ、慎司!」
「うん……。でも何か、眞山翔から逃れる方法は、ない、かな?」
あれ以来何も手につかず、何もやる気にならず、出るものといえばため息ばかり。そんな僕を気遣ってくれる美奈子ちゃんと篤人に守られながら、やっぱり重い足を引きずるように歩く僕。
「ところでさ慎司、例の夢って、見てはいない……、よな?」
「見てないよ……」
「見ようとして見れるもんじゃないよね、慎ちゃん」
「うん……」
結局、僕の夢頼み?
そもそも眞山翔対策なんていうものは、ないのか……。
この大通りは中学校まで一本道ということもあり、学校が近くなるにつれて登校する生徒も増えてくる。今日も見慣れた顔ぶれが歩くなかを、思いつかない眞山翔対策について気持ちを空回りさせながら歩いている。
そして視界に映る杜野神社の木々が大きくなってきた頃、僕はこれから起こるであろうことを過度に意識し、眞山翔への恐怖心からキョロキョロと周りを見回し始めていた。
「慎ちゃん大丈夫? 顔色が悪くなってるよ……」
「う……、うん。大丈夫、……かな……?」
隣には美奈子ちゃんがいる、篤人がいる。
これからどんなことが起きるのか?
その瞬間も二人はいてくれるのか?
二人がいてくれたら何とかなるのか?
いいや、ヤツらは僕が一人でいるところを見計らって近付いてくるに違いない。
いくら美奈子ちゃんや篤斗がそばにいてくれても、それは三人じゃない。二人と一人なんだ……。
そんなことばかりが頭の中を駆け巡り、僕はやっぱり周りをキョロキョロしていた。
正門を入って昇降口、階段、廊下と、二人にガードされながらたどり着いた僕たちの教室。
「大丈夫、眞山翔も手下もいないよ」
「う……、うん」
「それじゃ慎ちゃん、また後でね」
「う……、うん」
僕たちが教室に入る様子を見届けた美奈子ちゃんは自分の教室へと向かい、そして僕にとっては特別な一日が始まったのだ。
「いなかったな、慎司」
「ま、まずは、でしょ。これからど、どうな、るのか……」
「休憩時間には美奈子ちゃんが来てくれるから大丈夫だよ」
「そ、それは、そうだけど、ど……」
いつヤツらに呼び出されるのかという恐怖心が膨れ上がっている僕……。これも眞山翔の呪縛だと思った。
そうこうしていると朝のホームルームが始まり、すぐに一時限目の授業。さすがに授業中は眞山翔からの呼び出しはない。自分の分が悪くなるようなことはしない。それが、先生方が眞山翔を問題にしない理由だということを、ヤツは知っている。
しかし、こんな心境で受ける授業は全く頭に入らない。黒板の文字はもちろん、説明している先生の声も、目の前にある教科書の文字すらも今の僕には入ってこない。
キーンコーンカーンコーン
えっ!
もう?
八方塞り的に逃げ場のない僕の心境などお構いなしに、一時限目の終業を知らせるチャイムが鳴り響く。
教室の出入口を見るのが怖い……。
トイレに行くのが怖い……。
「慎司」
僕を呼ぶ声が眞山翔の手下の声に聞える!
「慎司」
やめてくれ、僕に関わらないでくれ!
「慎司、大丈夫か? 石みたいに固まってるぞ!」
「ああっ、あっ、篤人か……」
篤人だと分かると少しホットした。いや……、そう錯覚したのだと思い直した。正直、篤人では心細いし頼りにはならない。だって相手は学校一の、いや、この街一のワル、眞山翔なのだから。
…………。
しかし次の授業開始までの時間が長い。
黒板の上に設置してあるデジタル電波時計に目をやると……、どうしたんだこの時計。一秒一秒を刻んでいるそのペース、明らかに授業中の時間の流れとは違っている。そう思った僕は時計の秒の数字を見ながら、心の中で一秒一秒をカウントしてみた。
イチ、ニイ、サン、シィ…………、
どうして……、時計の秒の刻みが全然遅いだろ!
キュウ、ジュウ、ジュウイチ、ジュ……。
「何やってんの?」
ハッ!
無言で時計を見ている僕の姿、篤人から見れば壊れてしまったように見えてたのかも知れない。
「い、いや、早く、休憩時間、終わんないかな、って……」
「それで時計をジッと見てたの?」
「ま、まぁ……」
「時計を見てるからって時間が早く進むわけないでしょ、念力じゃあるまいし。それだったら別の何かに気を紛らわせてた方が、いつの間にか時間が経ってるよ」
「そ、それは、そうなんだろうけどね…………」
篤人の言うことはとても理解できる。しかし、とてつもない恐怖に包まれて別のことに気をそらすことなど考えられない僕なのだ。
「と、とにかく、休憩、時間は、早く終わって、ほ、欲しいんだ」
「休憩時間はフリーだからな。気持ち、わかるよ。でも俺が付いててやるから安心しなよ!」
「う、ん」
言葉だけの、と言ってしまったら失礼になるけれど、でも篤人のその言葉にささえられながら休憩時間を耐えるしかなかった。
「でも慎司。授業と授業の間の十分間ではさ、仮に夢を見てたとしてもテスト問題を聞き出すには短すぎるんじゃない? それよりも昼の休憩時間とか放課後とかにアクションを起こしてくる気がするんだよな、俺の推理では」
「ほほぉ〜」
確かに余裕のある時間帯に接触してくるだろう。冷静に、いや、普通に考えればわかることなのに、やっぱり僕は眞山翔にほんろうされている……。
「慎ちゃん、変わりない?」
「美奈子ちゃん。慎司は大丈夫だよ」
四時限目の授業が終わると同時に美奈子ちゃんが来てくれた。眞山翔がアクションを起こすかも知れない休憩時間を、初めから的を絞っていた美奈子ちゃん。やっぱり、しっかり者で頼れる姉貴的存在だ。
「うん、今の、ところ……。でも、この昼の休憩時間、は、ちょっと怖いな……」
「だろうと思ってさ。わたしもお昼、一緒に食べるよ」
そう言われて気付いた美奈子ちゃんの右手には、大きめのチェック柄でデザインされた黄緑色のお弁当袋が握られていた。そして僕の前の席の机を半回転させ、僕と向かい合わせに座った。
ズキューン!
目の前に美奈子ちゃんがいる。この積極さに僕の心臓は破裂寸前、そして身体中が熱くなり呼吸も早くなってきた。それでも必死に冷静を装いながら自分のお弁当を取り出し、平然を演じながらお弁当を開き、そして美奈子ちゃんの行動を一部始終観察していた。
「じゃぁ俺も」
そうだった、篤人もいたんだ……。一瞬、僕と美奈子ちゃんの二人だけの世界だと勘違いしていた。
そんな雰囲気をみじんも感じていない篤人も、二つ合わさった机の側面に腰を掛けた。そしてこの狭いところで無理矢理お弁当を開いたかと思うと、いつものようにイソイソと食べ始めた。その篤人のペースにつられるように、僕も美奈子ちゃんもお弁当を食べ始めた。
「昔さぁ、こんなふうに三人でお弁当開きをしたことがあったよね」
「僕も今、それ思った」
「そうだったかな?」
「そうだったよ」
「んー、そうだったような、そうでなかったような……」
篤人はやっぱり篤人だ、昔から変わらない。でもそれが、三人を和やかにする元にもなっているのだ。お陰で僕のドキドキが少し落ち着いてきた。
「篤人、もう少しユックリ食べたら? 篤人が急いで食べてるから、わたしまで急い…………」
「おい慎司。隣のクラスの齋藤ってやつが、これ渡してくれって」
美奈子ちゃんの言葉をかき消すように、僕の右脇から声が降ってきた。と同時に、三人の箸が止まった。
和やかな時間はほんの一瞬だけで、突き出された手から受け取った一枚の白い紙によってかき消されてしまった。僕はその紙を受け取ってはみたものの、気が動転して四つ折りに畳まれた紙を手にしたまま固まってしまった。
ちなみに、隣のクラスの齋藤というヤツは、眞山翔の手下だ!
教室、昼休み、お弁当。美奈子ちゃんが目の前にいることを除けばいつもと変わらない時間が流れている。しかしこの瞬間、僕の時間が止まり、先日眞山翔に迫られたときのような、異空間に瞬間移動させられた感じがよみがえってきた。
「来たよ!」
「来たね、慎ちゃん!」
「…………」
「慎ちゃん!」
「慎司!」
「…………」
「慎ちゃん!」
「ハッ!」
僕に顔を近付けて呼ぶ美奈子ちゃんの声が耳に入り、息を吹き返したように我に返った。
「そそ、そ、そう、だ、ね」
僕は今、異空間どころか……、意識も飛びそうな……。目の前のものが、見えなく……なっ……て……、
「慎司!」
「エッ? あ……、うん」
篤人に肩を叩かれながらかけられた声に自分を失わずにいれた。
「その紙、何が書いてあるんだろうね?」
「う……ん……」
ピロティホールに来い?
それとも、杜野神社?
そしてそれは、今すぐ?
それとも、今日の放課後?
ハァー、ハァー、ハァー…………。
緊張と恐怖で僕の息は上がり、手は震え、眼鏡を通していても焦点が合わない……。
ハァー、ハァー、ハァー、ハァー…………。
それでも、滑る指先をむりにこすって開いた白い紙。しかし、人は極度の緊張をすると体中が乾ききってしまうのだろうか……。指先だけではなく口の中もカラカラだ。
ハァー、ハァー……、ゴグッッ!
これが、生つばというものか……。美奈子ちゃんや篤人にも聞こえただろうか……。
「慎ちゃん……」
「う、うう、うん、ん」
「慎司」
「うん、ひら、開、くよ」
約束のものを書け
どこにでもあるA4サイズの白いコピー用紙。その上の部分に鉛筆書きで書かれてあったのはそれだけだった。
想像していたものとは全く違う形できたアプローチ。そして本当にきたんだという現実に、僕の……、いや、僕たちの意識は固まった。
「ゆ、夢、見れた?」
冷静なのか、舞い上がってしまったのか……。固まった脳みそをむりやり回転させたのだろう、篤人もわかっているにもかかわらず、改めて、しかも真顔で僕に訊いてくるとは……。見れば、美奈子ちゃんも同じ表情で僕を見つめていた。
「だ、だから、見て、ないって、いっ、いっ、言ったでし、しょ」
僕の全身は改めて硬直し、小刻みに震え、呼吸も早くなり、言葉も片言にしか出てこない。
「ま、まずは冷静になろうっ」
気持ちをいち早く切替えたのは、やっぱり美奈子ちゃんだった。
スゥーー、フーーーー……。
そして、美奈子ちゃんは大きくひと息。
「う、うん」
スゥーー、フーーーー……。
スゥーー、フーーーー……。
僕も篤人も美奈子ちゃんを真似て大きくひと息。
「こう、来るんだね……」
「何て書く、慎司?」
「…………」
「書きようがないでしょ。だって慎ちゃんはテスト問題の夢なんて見てないんだもの」
美奈子ちゃんの言葉を噛みしめるように篤人は腕組みをする。真面目に考えるときの篤人の得意ポーズだ。
「例えば白紙……。眞山翔がいつもテストで提出してる答案用紙みたいに!」
真面目な答えなのだろう。けれども余計な言葉まで付けて、しかも面白いことを思いつ付いたときに見せるドヤ顔まで浮かべている。美奈子ちゃんも僕と同じ感情を抱いたようで、一瞬だけ表情が険しくなった。こんなときでもやっぱり篤人は篤人だ。
「でも、篤人の言う通り白紙……、それありかも。正直に、夢は見てません。って書くの」
篤人の余計な言葉を除いて肝心な言葉だけをチョイスした美奈子ちゃん。やっぱり美奈子ちゃんは美奈子ちゃんだ、一番冷静に正確に判断している。
「それ、で、大丈夫、かな?」
今の僕には時間の流れなど感じられない。更に、この世界が本当のものなのかさえも疑ってしまうくらいだ。まるで、寝汗をかきながらタチの悪い夢でも見ているかのように……。
「大丈夫も何も……って、おい慎司、大丈夫か? 顔色、悪いぞ!」
「う……、うん。どう、動揺、しし、しちゃ、って……」
「気持ちをしっかり持って、慎ちゃん」
「う、ん……」
前にも増して僕の感覚が変だ。異空間、四次元の世界、パラレルワールド、悪夢、何て表現したらいいのだろう……。
辛うじて体は動くけれどお先真っ暗。金縛りのように僕のこれからを縛り付けられた……。とでも言えばいいのだろうか。こんな意味の通らない例えしか出てこないくらいに、今の僕の全てが変になっている。なので美奈子ちゃんも篤人も、僕にどう声をかければいいのか戸惑っているようだ。
「そ、そういえば、弁当食べてたんだよな、俺たち……」
そこ?
やっぱり篤人は篤人だ。
「そ、そうだったね、食べちゃおうよ。食欲なくなっちゃったけど……」
美奈子ちゃんの言うように食欲とかいう問題ではなくなってしまった。それでも篤人はいつものようにイソイソと、そしてモリモリと残りのお弁当を食べている。この状況でよく食べられるものだと感心するくらいだ。
「ご馳走さま!」
篤人のいつものお調子者っぷり。でもそんな篤人のかもし出す場違いともいえる空気感が、僕の押し潰されそうな気持ちをほんのちょっとだけ和らげてくれた……、気がする。
お弁当開きの楽しさまでもかき消してしまった一枚の白い紙。篤人とは正反対に美奈子ちゃんは真剣な表情を崩さずに食べている。口や手は動いていても、頭の中では白い紙について考えているのだろう。僕は美奈子ちゃんの考え出す方向性に期待するしかないのだ。
「そうしたら、夢は見てませんって書いたその紙、わたしによこして。友達にお願いして、掃除が終わったあとに齋藤っていう人に渡してもらうから」
「掃除が終わったあと?」
篤人もそこを疑問に思ったようだ。
「そう。早すぎると文句を言われる時間を与えてしまうし、逆に放課後だと待ち伏せされる危険があるでしよ。だから掃除が終わったあとに渡せば、眞山翔がその紙を見ることができるのは早くても終礼後。ぎりぎりまで時間を使って、これからどうすればいいのかを考えるの!」
「なるほど。それがいいよ、慎司!」
せっかちな篤人は、もう弁当箱を片付けて机の隅に置いていた。
「わわ、わかっ、った……。でもゴメン篤人、ぼぼ、僕の代わり、に、書いて」
「オーケー。それよりもお二人さん……、早く食べないと休憩時間終わっちゃうよ」
そこ?
やっぱり篤人は篤人だ。それでも篤人の言う通り、僕も美奈子ちゃんも弁当を片付け終えたときには次の授業が始まる直前だった。
「また後で来るね、これからどうするかを決めなきゃ!」
「OK!」
「は、はい。よろしくお願いします」
頼もしい美奈子ちゃんの後姿。右の手にはチェック柄の黄緑色の弁当袋、そして後で渡す四つ折りにした白い紙を左の手に持ち、風のように教室を出ていった。直後、五時限目の始業ベルが鳴り、午後の授業が始まった。
学校、授業、そのような意識すらもないまま五時限目の授業が終ると、すぐに美奈子ちゃんが来てくれた。
「さっきの紙、掃除の時間が終わるタイミングで渡してもらうように友達に頼んできた」
「あ、ありがと、うう」
「これでヤツらがあの紙を見るのは終礼後。そのあと、ヤツらは慎司に接触してくる……のかな?」
「やや、やっぱり……、そ、そう、だよね。こ、れで、終わ、りじゃな、ないよ、ね」
「終わらないでしょうね。慎ちゃんを呼び出して、何かしらの文句を言ってくるでしょうね!」
「どうしよう……、何か、た、助かる、方法は……」
「それを時間ギリギリまで考えるのよ!」
「そ、そうだ、ね。いい方法が見つ、見つかればいいけど……」
「まっ、最悪、なるようにしかならない、と言うしかないよね」
美奈子ちゃんは冷静なのか冷酷なのか、なるようにしかならないという言葉は、成すすべがないから諦めなさい、という言葉に聞こえた。
「逃げよう!」
唐突に言葉を放った篤人!
「明日と明後日は土日だし、休みの日に慎司ん家にまで押しかけてはこないでしょ。だからまずは、今日を乗り切る!」
今の篤人の言葉に感動した。そして、この決断は最善の選択だとも思った。ぶっきらぼうで極端だけれど、篤人が頼れる人に見えてきた。何となくではあるけれど……。
「そうね。篤人の言う通り、今はそうするのが一番かもね」
「わ、わ、わかっ、った」
「次は六時限目の授業だから…………」
僕と篤人はやってはいけないことをやっている。校則違反になるスマホを学校に持込んでいるうえに、授業中だというのにメールで眞山翔からの逃走ルートを申し合わせているのだ。
先生に見つからないようにというよりも、眞山翔から逃げることしかなかった。
「よーし、今日の終礼はこれまで。気を付けて帰れよ」
「起立!」
「「先生、さよーならー」」
終礼が終わると同時に、僕は教室の後ろ側出入口で待つ篤人のところに急いだ……。いや、急ごうとした。メールで作戦のやり取りをしているうちから口は乾くし、指先は冷たくなるし……、もう初めから緊張しているのだ!
「よし作戦決行。行くぞ慎司!」
「う、ん!」
運動神経には全く自信がないうえに、眞山翔への恐怖でガチガチになっている僕の身体を、今だけはお願いします、そう祈りながら必死で動かした。階段は転げ落ちないように、手摺につかまりながら一段一段をしっかりと降りる。ふっと前を行く篤人に目を向けると、僕と同じく運動神経のなさがバレバレの格好で、手摺につかまりながら一段飛ばしで降りている。あまりのぎこちなさに、一段ずつ降りた方が早いんじゃない。と思ったけれど、それは言わないでおこう。
「大丈夫か、慎司?」
「今の、ところは」
そして、やっとの思いで四階からの長い長い階段を下り、生徒昇降口では変な力が入りながら外履きに履き替えた。
しかし、ここまでの動作がやたらと時間がかかっていることに気付き、僕の気持が焦りから苛立ちへと変わっている。今までに経験のない気持ちが、スムーズな動きを邪魔しているのだろう……。
「急ごう、慎司!」
「わ、わかってる!」
正門を左に出て、杜野神社の前を通り過ぎて行くのが正規の帰り道。けれども今日は、眞山翔避難ルートと称して正門を右に出た。周りの下校する生徒たちに紛れながら振り向かず目立たないように歩き、そして徐々に速度を上げながら学校を後にした。
一方で、美奈子ちゃんにはいつものように通常の下校ルートを帰ってもらい、杜野神社に眞山翔たちが待ち構えていないかを偵察してもらう役目をお願いしている。ちなみに、美奈子ちゃんはスマホを持っていないので、家に着いたら僕のスマホに連絡をもらうことにしていた。
「よし慎司、次のルートだ!」
「うん!」
大通りを五分ほど歩いただろうか、次は計画通りに道路右側の住宅街へと曲がり、それが合図となって僕と篤人は全力で走った!
この辺りの新興住宅街は碁盤の目のごとく作られているため、隠れんぼをするのにうってつけだと考えたのだ。緊張も恐怖も襲いかかってくるためにぎこちなく、とても不器用に走っていることだろう。それでも僕たちは走って、走って、走り続けた。
そしてどれくらい走っただろう。イメージ的、体力的には結構走ってきた気がするけれど、実はたいして距離を稼げていないのかも……。何せ、僕と篤人だから。
「ハァハァハァ、そろそろ、ハァハァ、歩いても、ハァハァ、大丈夫じゃ、ハァハァ、ない?」
「ハァハァハァ、そう、ハァハァ、だね、ハァハァハァ」
僕も篤人も体力的限界点は同じのようで、すぐに篤人の言葉に同意して激走をやめた。そして汗だくの僕たちは、あまり馴染みのない景色の中を早足で歩いている。
「もう、ハァハァ、そろそろ、ハァハァ、家の方へ、ハァハァ、向おうか? ハァハァ」
「だね。ハァハァ、こ、ここ、ここまで来れば、ハァハァ、大丈夫、ハァハァ、だよね、ね、ハァハァ」
ここまででかなりの疲労感。残りの体力を考えて、自分たちの家の方に向かうことにした。もう身体はヘトヘトに疲れ切って、僕も篤斗も言葉はない。
それでも歩き始めてから一時間くらい経っただろうか。だいぶ息も治まって来た頃、僕のポケットに隠し持っているスマホが震えた。
「もしもし……、あっ、そう、なんだ。わかった、あ、ありがとう」
要件だけの短い会話を終えて僕はスマホを切った。
「美奈子ちゃん?」
「うん。杜野神社、に、ヤツらは、み、見当たら、なかった、って」
「えっ……、ってことは俺たちの読みはハズレたってことか?」
篤人の表情がほっとしたというよりも、計算ができない不安を感じたように見えた。
「じゃ、眞山翔たちはどこにいるんだろう?」
「もし、かして、僕の、こと、ことを、さ、探し、回って、ているん、だろ、うか?」
こんなに体力を消耗しながら逃げて逃げて逃げまくって、こんなに遠くまで来たのに、眞山翔の恐怖からは逃げることができないんじゃないか……。
今の僕の心境を、落胆というのだろうか。
「でも、良しとしようよ」
「?」
「まずは眞山翔たちと顔を合わせないことが一番の目的だから」
「そそ、そう、だ、けど……」
「そういう意味では逃げ切れてるってことだよ慎司!」
「そう、か。そう考え、ると、いいんだ、ね」
「そういうことさ。とりあえずこのまま家に帰ろう」
「う、ん」
「俺も、慎司ん家まで一緒に行くから」
なんだろう、目の前の篤人が頼もしく見える。たまに、本当にたまにではあるけれど、こういうときがあるのも篤人なのだ。
「なん、だか、ゴメン。ぼ、僕のために……」
「いやいや、俺にも責任はあるし」
そう思っていたんだ。声には出さなかったけれど、やっぱり篤人は篤人だ。
それからまた僕たちは無言のまま歩き、家に着いた頃には虫の声とともに辺りは暗くなっていた。
「無事に着いたな」
「うん」
「俺、このまま帰るから」
「うん」
「じゃあね」
「うん」
全身の筋肉が硬直しているのだろう、篤人の歩く姿はギッコラギッコラとぎこちないけれど、僕にはさっそうと風を切るように歩き、ヒョロヒョロの後姿はとてもたくましく堂々と見えた!
「ありがとう、篤人」
街灯の灯りではもう篤人は見えなくなった。僕は疲れた身体で夜空を見上げてみると、西の空にはほんのりと青かった空の名残が見え、忙しかった今日の終わりを告げようとしている。そして、東の空には星が輝き始めて、とんでもないことに巻き込まれた僕の心を癒やしてくれる。
ホント、疲れた。
遠回りした分いつもよりも遅くなったけれど、お父さんもお母さんも仕事から帰って来てはいないし、大学生の姉ちゃんも週末はアルバイトのために帰りは遅い。
なので、僕の異変に気付くことなくいつもと同じ時間を過ごすことになる。こうなるところまでの計算はしていなかったけれど、余計な心配をさせないためにもむしろ好都合だ。
「ただいまぁ」
疲れた声というよりも、やっと家に帰ってきた安心感でリビングのエアコンをつけ、一汗流そうと学校指定のポロシャツを脱ごうとした。
「うわっ、なんだこれは……。気持ち悪りぃ」
ビショビショなほどの汗が体にまとわり付いて、脱げないうえに嫌な肌触り感。人は恐怖に駆られると暑さや気持ち悪さなど感じなくなるものだということと、今日の僕たちの行動を遮二無二というのだろうと勝手に納得した。
そして、とにかくサッパリしたくて低温でシャワーを浴び、それでも汗が止まらないまま、涼しくなったリビングに戻った。
そういえば……。
一緒に走ってくれた篤人も、もう家でくつろいでいるだろうか。後で連絡してみよう……。と思いながらもソファーのクッションが心地よく、横になった途端、僕の記憶は無くなった。
「慎司、自分の部屋で寝なさい」
どれくらい寝たんだろう……。
昨日の夜、お母さんに起こされて夕飯も口にしないで自分の部屋に入ったのは覚えている。しかし、もうお日様がこんなにも高くなっている。しかも、篤人への連絡などはせずに、ただひたすらに寝ていた。
うぅぅ……、体中が痛くて起きれない!
激走という言葉が合ってるとはいえないけれど、週末の逃走劇を全身筋肉痛という形で過ごす休日は、矛盾を感じるほどあっという間に過ぎていた。そしていよいよ、眞山翔の恐怖を味わいながら迎える期末テスト初日となってしまった。
「行って、きま、す」
「行ってらっしゃい。テスト、頑張ってね」
「う……ん」
今日も美奈子ちゃんと篤人に守られながらの登校だ。僕は眞山翔たちに怯え、身をかがめながら少し足早に歩いた。
「今日のテスト、国語と社会があるよね」
「そそ、そうなんだよね。気に、気になるとこ、ろななんだ、よな」
「ところで慎司、例の紙を返してから、ヤツらからは何もないんだよね?」
「う、ん」
「まさか慎ちゃんの家にまでは来てないでしょ?」
「うん、来て、ないよ」
「諦めたのかな?」
そうではないだろうと思いつつも、僕は篤人のその言葉に大きな期待を膨らませた。
「それはないでょうね、なにせ眞山翔だもの」
希望を抱いた時間は、沈着冷静な美奈子ちゃんが全否定するまでの一瞬に過ぎなかった。
「きょ、今日の、テスト、が、終わったら僕、呼び出される、のかな?」
「なくはないだろうね」
「また篤人ったら。そんなこと言って、慎ちゃんを怖がらせるだけでしょ」
「ゴメン、ゴメン」
おいおい、美奈子ちゃんに謝ってどうするんだよ、僕にだろ?
「慎司、今日も逃げるぞ!」
またあの回り道を……、という思いが一瞬頭の中をよぎったけれど、それよりも眞山翔から逃げるためにはそれしかないんだ、毎日毎日逃げ続けるんだ。と、篤人が言ってる気がした。
「うん、わ、わかった、た!」
教室に入ると、いつものテスト前の雰囲気に包まれている。教科書に目を通している者、一人で静かに時を待つ者、誰かとヘラヘラと話をして気を紛らわす者など、それぞれに自分のルーティンを過ごしていた。
そして僕はというと、教科書の出題範囲のページにサラッと目を通しながら待っている……、といういつものテスト前の心境ではなく、テスト終了後のことが気になって、ただただ眞山翔の幻影に怯えていた。
「よーし、筆記用具以外しまえ」
それでも先生の登場と同時にテストが始まり、テストと眞山翔という二つの現実に僕の頭脳は対応しきれず、解答枠を埋めることなどできない。
「よーし、そこまで」
「えっ? 嘘でしょ!」
眞山翔に絡まれる前までは普通に勉強をしていたのだから、ある程度は答えられると思っていたのに……。結局、僕は眞山翔の呪縛から逃れることができないままテスト初日を終え、昼には一斉下校となる。
「慎司、行こう!」
「うん!」
そうだ、そうだった、テストの反省をしている場合じゃなかった。僕は篤人に促されるがままに、筋肉痛でミシミシとうなる体をむりやり動かし、周りの生徒たちに紛れながら正門を右に出て、眞山翔から逃げ切ることだけを意識しながら大通りを歩き、そして住宅街を走った。
「ハァハァハァ、今日は、ハァハァ、この辺りから、ハァハァ、戻ろうかハァハァハァ」
「ハァハァ、そうなの?」
「ハァハァ……、金曜日のときもそうだったけど、眞山翔が追いかけて来てるかって正直わからないでしょ? ハァハァ……、だから逃げるといっても、いつもと違う道を回り道する程度でいいと思うんだ。目的は相手をはぐらかせることだからハァハァ……」
面倒になったからとか疲れてきたからとかではない。本質的に考えてのことだということは、長年の付き合いから読み取れた。
「ハァハァ……、あつ、篤人がそう言う、なら、そうしよう、ハァハァ……」
そして、今日も無事に家に着いて先日と同じように空を見上げて見ると、まだまだ初夏の青空は暑さとともに眩しさを放っていた。
「ただいまぁ」
リビングに入りエアコンとテレビのスイッチを入れた流れですぐさま汗を流し、だいぶ涼しくなったリビングのソファーでくつろいでいた僕は、先日と同じようにお母さんに起こされるまでの記憶はなくなっていた。
「今日はご飯、食べるの?」
「うん」
夜ご飯を終えた僕は、勉強するからと言って自分の部屋にこもった。そしてベッドに横たわった瞬間、またまた僕の記憶はなくなっていた。
「慎司、起きなさい」
「う〜ん」
「テスト勉強も大変でしょうけど、学校に行かないことには全ての意味がなくなるでしょ」
「う〜ん」
寝ても寝ても眠い。よっぽど僕の体力が消費されているのだろう。普段、いや、これまで生きてきた中でこんなに体力を消耗させたことなどない。それほど前代未聞のことをやっているのだから当然だろう。
「テスト最終日、頑張ってね」
「うん」
「行ってらっしゃい」
「行って、きます」
白い紙を渡した金曜日、テストが始まって月曜日と火曜日、合計三日間を眞山翔から逃げ切った。
そして今日はテスト最終日。
「おはよー、慎ちゃん」
「お、おはよ、よ」
「よっ、慎司、美奈子ちゃん」
「お、おは、よ。二人とも、いつも、ありがとう、ね」
「どってことねーよ」
「ところでわたし思ったんだけどさ、テスト期間中って部活動禁止のうえ強制帰宅だったでしょう。でも最終日の今日って、テストが終われば普通に部活動解禁だし時間があるわけよね」
「じ、実は、僕もそれが、気がかりで、頭からはな、離れないんだ、よね……」
「どういうこと?」
やっぱり篤人は篤人だ。
「だから、今日こそが、慎ちゃんを狙って眞山翔や手下たちが動いてくるんじゃないかっていうこと」
「なるほど!」
「今日、ぼ、僕は、ついに……」
「よし慎司、今日も逃げるぞ!」
「だだ、大丈夫か、な? 終礼が、終わったら待ち伏せとかされ、るんじゃ?」
「慎司、そっちがそうなら、こっちだってその前に行動するべし! 逃げ切るのみ!」
「おーー、篤、人」
「篤人、頼んだわよ」
「オーケー!」
やっぱり篤人は篤人だ。篤人の言うことを聞いていると、万事がうまくいくような感覚……、いや錯覚に包まれる。
「と、とにかく、逃げよう、よう!」
先週末も含めて三日間を眞山翔避難ルートで帰ったものだから、一応僕にも備わっているであろう順応能力が芽を出し、帰る段取りもすんなりとイメージできている。体全体の筋肉痛は全く治ってはいないけれど、今日も逃げ切るという高ぶる感じを抱きながら教室へと入った。
「でも、囲碁将棋部、顔出さ、なくて大丈夫、かな?」
「事情が事情だから、暫くの間はしょうがないよ」
「だ、だよね」
「美奈子ちゃんも『とにかく逃げることだけ考えて』って言ってたし!」
「だ、だよね。美奈子ちゃんが、そう言ってるんだから、それでいいんだよね」
「そういうこと!」
「よし、テストが、終わったら、逃げるのみ! だね」
そして、先生の登場にガヤついていた教室が静まり、同時にテスト前の緊張感が包む。
「よーしみんな、筆記用具以外しまえ」
教室内はいつもの雰囲気のまま、最終日のテスト三教科が始まった。僕は机の上の問題用紙に向かってはいるけれど、シャーペンを持った右手は止まったままだ。それは、今日のこれからのことで恐怖心が僕を支配しているためだ。
「よーしそこまで。ペンを置いて答案用紙を裏返しにしなさい」
案の定、テストの問題などほとんど答えられないまま三時限とも終了。うわの空で掃除を終え、時計とニラメッコしながら終礼が終わった。
「行くぞ、慎司!」
「う、ん」
テストがうまくいかなかったこよりも御身大事。毎日蓄積されていく筋肉痛の体を、今日も無理に動かす。
廊下、階段、生徒昇降口。
「今日からは普通に部活動がある日だから、昨日までよりも帰る生徒が少ないな」
「僕、たち、めめ、目立っ、ってるかな?」
「今更そんなことを考えてもしょうがないよ、予定通りやるべきことをやるだけだ!」
近頃は絶対の信頼をおける篤人の言葉に、僕も一心不乱に前だけを見て普通に歩くのみ。まずは住宅街に入るまでだ!
「よし!」
「よ、し!」
計画通り正門を右に出て住宅街に入り、第一関門突破の気合が篤人から聞こえたものだから、思わず僕もつられて気合が入った。そして、住宅地を少し歩いた所で篤人が急に後を振り向いた。
「誰も付いてきてないな!」
その言葉を信じ、僕も振り向いてみた。
「そそ、そう、みた、いだね」
「俺たちの行動は、眞山翔たちにはバレてないってことだな!」
「そそ、そう、みた、いだね」
あまり馴染みのない住宅街だったけれど、徐々に見慣れてきつつある眞山翔避難ルート。そして、今日も大きく回り道をして無事、家に着いた。少し前には美奈子ちゃんから「今日も杜野神社には眞山翔たちの姿は見られなかった」という連絡をもらっていた。
でも、どうしてだろう……。僕は眞山翔たちから逃げている。だから、眞山翔たちに待ち伏せをされていないことはいいことなのだ。しかし、あの眞山翔が何も仕掛けてこないということに、逆に不気味さを強く感じている。
「おはよう篤人」
「おはよー、お二人さん」
今日も二人に守られながらの登校。一人で考え込んでいてもしょうがないし、モヤモヤしている僕の心の疑問をぶつけることにしてみた。
「ねぇ、美奈子ちゃん、篤人」
「何、慎司?」
「ん、どうしたの?」
「あのさ、今のところは、なのかもしれないけど、眞山翔から何も仕掛けられないでしょ? それって、どういうことなのかなぁって……」
「それはさ、俺が思うには結局試験問題なんてわからなかったわけだしさ、試験も終わったことだし、あきらめたんじゃない?」
「あきらめた?」
「じゃなかったらさ、最初から慎司の夢の話なんて信じてはいなかったとか」
「なるほど」
「でも、油断大敵っていう言葉もあるし、わたしはもう少し様子を見た方がいいと思うよ。せめて夏休みが始まるまでは……」
「夏休みが始まるまで……、か」
「まっ、登校中はまだいいとして、下校は避難ルートを帰った方が無難ってことだな。俺も一緒に帰るからさ」
さっきと言ってることが違うくせに、うまくまとめあがって。やっぱり篤人は篤人だ。
篤人がまとめたからということではないけれど、毎日毎日眞山翔避難ルートで下校を繰り返しているうちに、知らなかったこの辺りの街にもだいぶ慣れてきた。更に、篤人と普通に会話をする余裕も出てきたうえに、周りの景色にも目が向くようになっていた。
「よく見ると結構綺麗な街だな」
「そうだね。この家なんか三階建だよ、いかにも四角柱って感じの建物だ」
「見ろよここん家、庭が芝生張りだ。綺麗に整備されてて寝転げるな!」
「篤人なら本当にやりそうだ!」
「俺ん家はマンションだからさ、庭っていうものに憧れるんだよな……」
「なるほどね。でも、その分マンションからの見晴らしが…………」
「これって幼稚園?」
僕の言葉よりも住宅街の景色の方が興味深いようだ……。やっぱり篤人は篤人だ。
「そ、そうだね……。まるで中世ヨーロッパのお城みたいでオシャレ」
「俺たちの通った幼稚園とは全然比べ物になんないよ!」
心配してくれる美奈子ちゃんや毎日連れ添ってくれる篤人のお陰で、僕の気持ちはだいぶ落ち着きを取り戻しつつあった。
数日後、眞山翔たちからのアクションのないまま一学期の終業式を迎えた。そしてその日、予定通りの朗報があった。
日直だった僕は、終礼後の職員室での用事を済ませて自分の教室に戻る途中のことだ。眞山翔たちと遭遇しない確率を考えて中庭を横切るルートを選んだ。この中庭は職員室から丸見えということもあり、先生方と関わりたくない生徒は来ることのない場所だからだ。
すると、中庭の花々に埋もれるように一人でいる美奈子ちゃんを見かけた。
「美奈子ちゃん!」
「あっ、慎ちゃん」
「こんなとこと何してんの?」
「慎ちゃん、わたしやったよ!」
「えっ……、何を?」
「何だと思う?」
「んーー、何だろう? 想像つかないなぁ……」
「ついに取ったよ、わたし。学年で一番!」
「えっ、そうなんだ!」
「うん!」
「学年トップ、美奈子ちゃんの目標だったもんね。おめでとう!」
「ありがとう!」
「んーっ? 慎ちゃん、感動が薄いな」
「えっ……、いや……、そんなことは……」
「もしかして知ってた?」
「えっとー……」
「なぁーんだ、そうだったんだ、この夢、見たんだ? 驚かそうと思ったのに」
「へへ、ごめん……」
「いや、別に謝らなくていいよ。それが慎ちゃんだもん」
赤や黄、オレンジや紫などカラフルに咲き誇る花々をバックに、成績表を胸に抱えて満面の笑みを浮かべる美奈子ちゃん。
「よかったね。おめでとう!」
「うん。ありがとう!」
正にこのシーン、僕の見た予知夢の通りだ。
僕にはたまに発揮される特異能力がある。特に何の役にもたたないものではあるけれど……。
でも、夢で見たように無邪気にはしゃぐ美奈子ちゃんを見ていると、自然と僕の気持ちも和らいだ。
「おー慎司、ここにいたか!」
教室に繋がる渡り廊下から中庭へと顔を出した篤人。美奈子ちゃんとのほのぼのした時間を終わらせる知らせだった。
「眞山翔が先生に呼び止められてる。今のうちに帰ろう!」
「えっ、うん」
「篤人、慎ちゃんを頼んだからね!」
「オーケー!」
「気を付けてね、慎ちゃん」
「うん」
帰り支度はしておいた。今日も振り向かずに急いで学校の正門を右に出て、早歩きのまま住宅街へと身を潜める僕と篤人。
「ここまでくればもう大丈夫だ!」
「そ、そうだ、ね」
自分たちの中で思い込んでいる勝手なルールとして、大通りから住宅街に入ってしまえば僕たちの姿は見えなくなる、だからここからは普通に歩いて帰っても大丈夫。だって今までも大丈夫だったから今回も大丈夫だろう、というものだ。
まるで三階建の家も、芝生の庭の家も、そしてヨーロッパ風の幼稚園も含め、この住宅街全体が僕たちを隠してくれている、とさえ思っているのだ。
「明日からは夏休みだな」
「けど、このまま、終わらない、よね」
「どうだろう……。でも夏休み中の眞山翔は野球漬けみたいだからさ、その期間は大丈夫だろうし、もうそろそろ安心してもいいんじゃない?」
「そう、そうかな?」
「そうだよ。野球に関しては一筋の眞山翔だし、進学を託している野球をおろそかにはしないよ。何より美奈子ちゃんも『夏休みが始まるまで気を付ければ』って言ってたでしょ」
「そうか、なるほど……」
美奈子ちゃんや篤人の言うように、そろそろ区切りを付けてこの夏休みを過ごしてみようと思う。
というのも今回の一学期末テストの成績が、僕のこれまでの学業を通してこれほどまでに悪かったことはなかったからだ。だから夏休み中は眞山翔のせいでできなかった勉強を取り戻し、さらに二学期の分を少しでも予習しようと思うのだ。
そのためにいつもの学習塾の他にも週二回、杜野図書館で美奈子ちゃんに勉強を教えてもらうことを約束していた。
ただ、美奈子ちゃんとの勉強会のことは、篤人には言わないでおこう……。