第2話 救国の勇者
酒場を出た頃には日が暮れていた。
戻った時に酒臭いと、またエミリアに何か言われかねないと考え、少し酔いを醒ますために街中を歩く事にした。
「弱いのに、調子に乗って飲み過ぎたな⋯⋯全く、マスターも商売上手だ⋯⋯」
何の罪もないマスターに、自分の失態を責任転嫁してみる。
家の場所がわからないほど酩酊しているわけでもなく、しばらくして足は自然と家に向かう。
酔いは醒めつつあったが、比例して気が重くなっていく。
ドン。
上の空だったせいか、人にぶつかってしまった。
視線を落とすと、俺の足元に少女が転んでいた。
エミリアとそれほど変わらない年齢だろう。
「あーっ、ほら! 前を見ないから! すみません、娘が⋯⋯」
若い夫婦⋯⋯といっても、俺とそれほど変わらないが⋯⋯が慌てて駆け寄ってきた。
俺は少女に手を差し伸べて立ち上がらせ、意識的に笑みを浮かべた。
「いえ、大丈夫ですよ。こちらこそ不注意で⋯⋯お嬢ちゃん、怪我はないかい?」
「うん! 大丈夫!」
「良かった」
お尻をパンパンと叩きながら笑顔を浮かべる少女を、俺が微笑ましく眺めていると⋯⋯。
「あの⋯⋯もしかして、ヴァン様⋯⋯ですか?」
少女の父親がおずおずと問いかけてくる。
俺は酔いを誤魔化すように、少し背筋を伸ばして答えた。
「はい、そうです」
「ああ、やっぱり!」
俺たち二人のやり取りを聞いていた少女は、キョトンとした顔で尋ねた。
「偉い人なのー?」
「ああ! いつも話してる『勇者様』だよ! この方のお陰でこの国は平和なんだ!」
「わたし知ってる! 魔王を倒した人だ!」
「そうだよ! この人が『救国の勇者様』なんだ!」
興奮気味に話す父親を見ながら、俺は内心で苦笑を浮かべた。
この父親が言うように、俺の二つ名は『救国の勇者』。
かつて魔王を封印した、『四英雄』と呼ばれる者たち。
そのひとりが俺、ヴァン・イスミールだ。
「もう、あなた。ヴァン様がお困りですよ」
母親が窘めながら、こちらに頭を下げてくる。
俺は手を振りながら彼女に答えた。
「いえ、良いんですよ」
「本当に⋯⋯でも、いつもあなたの事を話してるのです。大目に見てあげてください」
妻の言葉に、夫から抗議の声が上がった。
「き、きみだって、いつもお二人の話をしてるじゃないか!」
「それは仕方ありませんわ。ヴァン様とカミラ様の結婚式は、この国の女性全員の憧れですもの。美男美女、お似合いの二人が王家に祝福されながら永久の愛を誓う⋯⋯まるで物語のようですもの」
うっとりとした表情で語る女性。
⋯⋯むしろ先ほど『勇者様』と父親が興奮したことより気まずいのだが。
魔王討伐の旅で知り合った、同じく『四英雄』のひとり、聖女カミラを妻として結婚したのが十一年前、まだお互い十代だった。
カミラは国一番と評される美貌の持ち主で、俺たち二人の結婚は国を挙げて祝福された。
今でも国の語り草だ。
その後夫婦は何度か頭を下げたのち、両脇から少女の手を繋ぎながら去った。
しばらくその背後を視線で追う。
少女はニコニコと、両親それぞれに顔を向けながら笑みを浮かべていた。
楽しそうに話す三人の後ろ姿に、今の自分が抱えている心境からか、少し惨めな感情を覚える。
正直、彼らは俺なんかより幸せに見えた。
世間で俺の評価は高い。
剣と魔法、両方の頂点に立っていると評される事もある⋯⋯実際、成人してからは1対1なら、魔法であれ、剣であれ、今まで誰にも負けた事はない。
過去の功績を買われ、今でも国内に現れた強力なモンスターや魔王軍の残党狩り、他国との小競り合いなどの対処に優先的に指名され、その期待に応えようと各地を駆けずり回っている。
そして、依頼人に満足して貰えるだけの結果を残し続けている、という自負はある。
ただそれは、家族と過ごす時間を犠牲にして得た評価だ。
俺が今手にしているもの。
充実した仕事と、それに見合う報酬、名誉。
最近はちょっと生意気だけど、可愛い娘と美しい妻。
他人から見れば、順風満帆と言える人生なのかもしれない。
今、俺が抱えている悩みなんて、贅沢なのかもしれない。
だが当事者にしてみれば、羨ましいだの、英雄だなんだってのは他人の評価。
他人から良く見られたからって、俺自身が幸せになるわけじゃない。
実際の俺は、妻や娘の機嫌も上手く取れず、家庭での振る舞いも覚束ないダメ男でしかない。
「⋯⋯帰るか」
ひとり呟き、歩みを再開する。
結婚当初、家に帰るのがこんなに億劫になるとは想像もしていなかった。
「何でだろうな、まあ、俺が悪いのだろう」
俺は『家族』という関係性への理解が浅い、という自覚がある。
孤児だった俺は幼少期に、師であるバーンズ老に拾われ、彼と、彼に仕える執事に育てられた。
バーンズ老には魔法を、元帝国騎士の執事に剣と学問を叩き込まれ、厳しく育てられた。
俺は二人を家族だと思っているが、彼らからは何か一線を引かれているように感じていた。
二人とも無駄話をするタイプではなかったので、必要最低限の会話しかなかった。
エミリアと楽しそうに談笑するバーンズ老を見たときは、軽く娘に嫉妬したもんだ。
俺の生い立ちが違っていれば、家庭の長として、もう少しうまく振る舞えたのだろうか。
「まあ、無い物ねだりしても仕方ない、か」
思わず独りごち、首を振る。
二人が子供の頃から俺に厳しい躾を施し、教育の機会を与えてくれたからこそ、魔王討伐のパーティーに参加し、カミラと出逢い、夫婦になり、可愛い娘が生まれたのだ。
別の生い立ちまで想像し、あれもこれも望むのは贅沢というものだろう。
考え事をしていると、家に着いた。
魔王を倒した褒美で貰ったこの家。
外観はちょっとした貴族の屋敷みたいだ。
とはいえ、メイドや執事を雇っている訳でもなく、家族三人で住むにはやや広い。
最近家に入るのに、少し勇気が必要だ。
他人の家を訪ねるような⋯⋯大袈裟に言えば、ダンジョンの攻略をする前の心境のような。
いや、敵を殺せば解決するダンジョンとは違う。
家族との人間関係は、常に試行錯誤が必要だ。
などと考えるのは、流石に二人に失礼かもしれない。
ただ一つ言えるのは、ここで夜通し突っ立っていても、解決なんてしないって事だ。
それで解決するなら、それこそ何日ここに立たされても構わないんだがな。
くだらない考えを止め、中に入る。
リビングではカミラが寛いでいた。
「ただいま」
「お帰りなさい、あなた⋯⋯あら、私が掃除している間にお酒を飲んで来たの? 良いご身分だこと」
「あ、うん、いや」
「まあたまの休日だものね。いいのよ」
⋯⋯なら、先にイヤミを言わなくても、と思うが。
どうせ口では敵わない。
違う話をしよう、何か話題はないだろうか。
部屋を見回しても妻だけで、娘はいない。
「エミリアは? まだ寝るには早い時間だろう? もう自分の部屋に?」
俺が聞くと、カミラはため息を吐いた。
「エミリアなら、今晩は教会にお泊まりよ。前に言ったわよね?」
「⋯⋯あ」
そう言えば⋯⋯前回の仕事へ向かう前にそんなことを聞いた、気がする。
出掛ける間際のバタバタした時だったのですっかり忘れていた。
「もう、いつもそうじゃない。本当にあなたは、私やエミリアの話をちゃんと聞いてないのね」
「いや⋯⋯ごめん、もうしな⋯⋯」
「もう、同じことで何度も謝られてるけど? その度に言ってるわよね、もうしない、って」
「⋯⋯ごめん」
「いいわ。もう、諦めてるから」
もちろん俺にも言い分はあった。
何も仕事に出掛ける間際の、既に依頼の事で頭が一杯の状態で聞いたことくらい、抜けても、と。
だが、どうせ言い訳するなんて、と返されるに決まっている。
それに、いくら正当化したところで、結局妻の言葉を聞き流したのは俺なのだ。
だから俺はそのままカミラの横に座り、彼女の膝に置かれた手の上に、自分の手を重ねた。
「本当にごめん。君をガッカリさせてばかりで」
「いいって言ってるでしょ。そのくらい仕事に打ち込んでくれてる、って好意的に解釈してますから」
もっと色々言われる事を覚悟していたが、あっさりと許された。
機嫌が良いのだろうか? とにかく安心した。
そのまま、妻の顔を眺める。
知り合ってから12年。
今年28歳となった今も、相変わらず美しい。
プロポーションは知り合った当時と変わらず、メリハリがしっかりと⋯⋯。
エミリアは留守、か。
俺には幾つか、家庭に対する悩み事がある。
そのうちの一つを、できれば、早急に解決したい。
酔いも手伝って⋯⋯俺はカミラに勇気を振り絞って、気持ちを伝える事にした。
「なぁ、カミラ」
「なに?」
「その、エミリアもそれなりに大きくなったし⋯⋯」
「そうね」
「そろそろ、次の子の事も考えても⋯⋯」
俺がそこまで言うと、カミラは重ねているのと反対の手で俺の手を掴み、そっと振り解いた。
「もう、酔って何を言ってるの? その件は何度も話し合ったでしょう?」
カミラは特に声を荒げるわけでもなかった。
ただ、彼女の全身からは強い拒絶が伝わってくる。
「⋯⋯そうだね、ごめん」
「アナタに⋯⋯その、我慢させてしまっている事は私なりに理解してるわ」
「⋯⋯」
「ただ、私は『聖女』として、妄りに姦淫に耽る訳にはいかないの」
⋯⋯姦淫、か。
それについては何度も話したが⋯⋯カミラの強い貞操観念からすれば、男女で愛を確かめる事は『罪』らしい。
エミリアを生んだのも、あくまで次代の聖女を育てるという義務的な意味合いだ、という事らしい。
愛の結晶ではなく、妥協の産物と言われているみたいで俺としてはツラいのだが。
埋まらない価値観で、口論しても詮無いことだ。
「ああ、そうだね。ごめん⋯⋯その、もう寝るよ。明日も早いし」
「⋯⋯ええ。おやすみなさい」
気まずい雰囲気に耐えられず、立ち上がる。
そのまま居間を出て一人寝室へと向かおうとすると⋯⋯。
「ヴァン」
「ん?」
「その、あなたが無理して家族の時間を作ろうとしてくれてるのはわかるわ、ありがとう」
「⋯⋯あ、ああ!」
「でも、そのせいであなたが焦って怪我をしたりしないか心配なの。私達の事は気にせず、自分のペースでお仕事してね?」
「う、うん!」
「今回はどのくらいかかりそう?」
「そうだな、5日もあれば⋯⋯」
「ほらまた。今回行くのは国境付近にある廃城なんでしょ? そんな無理しないの。一週間くらいかける気持ちでちょうどいいと思うわ?」
「⋯⋯うん、ありがとう。じゃあおやすみ」
「うん、おやすみなさいヴァン」
思いがけない妻の優しい言葉に、少しだけ胸が軽くなる。
だがいざベッドに入ると、まだ冷たいその感触に、心も再び冷えた気がした。
──妻とは、娘を授かって以来『夫婦の営み』がない。
俺は捨て子だった事もあり、兄弟というものに憧れがあった。
だから、エミリアにも弟か妹が欲しかったのだが⋯⋯。
こんな広い屋敷に、たった三人の家族。
正直俺には持て余してしまっている。
「まあ、それも俺の我が儘⋯⋯か」
少しやり切れない思いを抱えながらも⋯⋯俺の戦士としての本能が、無理やり身体を休ませる事を選び、すぐに入眠した。