第8話 胸騒ぎ
警察署の留置所は異様なほど静まり返っていた。
外の喧騒が嘘のように夜の帳が街を覆い隠し、ここはただ冷たく湿った空気が支配している。壁の隅には古びた蛍光灯が頼りなく明かりを灯し、鉄格子の影が床に濃い縞模様を作っていた。
そんな静寂の世界から一歩外へ出るだけで、先刻の騒動と事態の把握に署内は張り詰め怒号や罵声が飛び交っていた。この事件の原因がエルフィノであると囁かれ、特務機関だけでなく特科にまで手柄を横取りされた気持ちと能力を持ったバケモノを相手にしたくないという気持ちに悩まされれば当然の反応である。
そのためここに収容されている一人の少女がどれほどの重要性を秘めているか、警官たちは誰一人として気が付いていなかった。
その少女、謎めいた言動と冷えた瞳を持つ彼女は留置場の隅のベンチに腰かけていた。暗い鉄格子の影が彼女の顔に重なり、不安とも安堵ともつかない表情を浮かべている。
少なくともここに居れば外よりも安全である。
だが、長くいる場所でもない。
彼女の体を通じて伝わる疲労感は無視できないほど明確であったが、体の持ち主の体力を考えれば仕方のないことである。
やがて、表とは違い物音ひとつ存在しない留置場の入り口がゆっくりと開かれた。
重たい鉄の扉が床と擦れる鈍い音が、少女の体を反射的にこわばらせる。
当然、現れたのは警察の制服を着た男である。
背筋を伸ばし制服の襟元をただすその姿は一見すればどこにでもいる若い警官に見えた。どこか普通じゃないというなら彼の足元で一瞬だけ揺らめいた黒い影だろう。
僅かな時間、彼の靴の周囲で黒い影が微かに揺れるのを少女は見逃さなかった。ソレはまるで生きているような不気味な気配を纏った者であったが、静まると男は何事もなかったかのように自然な動作で歩を進めていた。
まるで内部の人間であるかのように振る舞う姿には一切の違和感がない。
「保護対象の少女がここにいると聞いたんだが」
自然な口調で留置場受付の警官に声をかける。
抑えられた声色や言葉の端にわずかながら覗かせる威圧感が相手の判断 を狂わせた。階級も年齢もその男は下だというのに疑念を抱く間もなく、気づけば男は足を踏み入れている。
少女が視線を上げたときには既に鉄格子の向こう側にあの少年が立っていた。
「少し遅かったじゃないか」
「約束は守る……依頼だからな。さて、長居をするつもりはないんでね」
少女を抱きかかえ留置場を飛び出したソラは建物の屋根から屋根へ、影のように軽やかに駆け抜ける。彼の足音は驚くほど静かで、少女の体重を支えながらも動きに無駄はなく、まるで夜そのものに溶け込んでいるかのようだった。
目的地は彼が普段連絡手段として用いる寂れたバー。街の片隅、誰も寄り付かないような薄暗い路地にあるその場所は、彼とって唯一の安全地帯であった。
音もなく店内に侵入したソラは少女を席に座らせカウンターの前に立つと、マスターはようやく彼の存在に気が付き肩を大きく跳ね上げた。
「お、驚かすなよ……サツの制服なんざ着てきやがって!」
布巾を投げ出すように慌て振り返るがソラはそんなことには全く無関心だった。
ただ、無言で一瞥をくれるとマスターは大げさな動きを抑えつつカウンターの下へ手を伸ばし受話器を手渡した。
「なんだこれは……?」
彼は無表情のまま問いかける。
「親父さんからの指示だ。全連絡網を封鎖してコイツに伝言を預けている」
「へぇ」
無関心を装った返事を返しながらソラはダイヤルを確認する。マスターはその動きをジッと見つめた後、肩をすくめるようにして言葉を続けた。
「アンタのはいつもの5番だ」
マスターに言われたようにダイヤルを5に合わせると確かに男の声が不気味に聞こえた。その場に存在しないはずなのに、直接耳元で囁かれているように感じさせる奇妙な響きだ。
『このメッセージを聞いているということは無事保護対象の少女を見つけたということだな……やはり、お前に頼んで正解だったよ』
一方的な伝言に口を挟むこともできず、ただ静かに受話器を握りしめたまま声に耳を傾ける。その手の中で受話器の冷たい金属的な感触が妙に現実感を帯びていてソラにとっては居心地が悪かった。
『なぜこのような形でお前に連絡を取っているかは賢いお前ならわかるだろう?私が今、何を恐れ何を警戒しているのか。察しのとおり、色々と歯車が動き始めてしまったのだよ』
恐らく先日、話していた内部の怪しい動きのことだろう。
男はやけに慎重になっていた。本来なら怪しい動きが確認された時点で僕を利用して不安要素を取り除くはずであったが、今回は珍しくまるで何かを待っているかのように受動的である。
『依頼に関してだが、まだ終わってはいない……いつか依頼主の方からお前にコンタクトを取ってくることだろう。だから、今は時が来るまで待て。いいな?』
その言葉には重い意味が含まれているように感じられた。明確な指示ではなく、ただ『待て』という命令。
それは嵐の前の静けさを保つために動きを抑えているのか、僕から動くこと禁じやはりどこか受け身な姿勢であった。
受話器を返し深いため息を吐きながらカウンターに片肘をついた。その表情に動揺の色はなかったが、その心の奥底では何かが動き始めていることを理解しているようだった。
自分の知らない場所で密かに動く何かを掴むのは困難だ。
気分が悪い……。
カウンターを離れ少女のもとへ戻ろうとすると同時だった。
バーの扉が静寂を破るかのように木材と金属の軋む音を奏でる。
営業時間外のバーに人が訪れることは滅多にない。アレンは先ほど留置所に潜入する際、彼らの無線を拝借し少女を預けた後に病院へ移動していることは確認済みだ。
つまり今ここを訪れるのは招かれざる客か、同業者だけに限られる。
ゆっくりと近づく足音が響く。革靴の硬い底が古びた床板を一歩ずつ叩く度にその音は徐々に近づいてくる。音が近づくにつれて感じられる服に染みついた鉄臭い血の臭いがじわじわと広がり店内の乾いた空気を侵食していく。
鼻腔を満たしていくその臭いがソラの気分をさらに悪くさせる。
「今日は珍しくお連れもいるようだね……俺の弟はいつの間にか大人になってしまったようだな。これは感慨深いよ」
一人称に合わない落ち着いた雰囲気で話しかけてきた男は空いている僕の横の席に腰かけた。
どこか揶揄するような響きがありながらも冷たさは感じられない、肩をすくめる仕草をするにしては、からかうでもなくただ静かに余裕を見せつけるような言葉選びで彼特有の兄を演出していた。
「イプシロン…………」
「久しぶりだなシグマ。お前もここに来ているとはタイミングが良過ぎると思わないか?」
皮肉めいた口調で笑みを浮かべながらイプシロンが言葉を投げかける。しかし、その瞳は笑っていなかった。
不気味な男だ。
組織を示す薔薇のエンブレムが縫い付けられたコートに血が塗りたくられていて、仕事終わりであることが伺えた。
イプシロン――その名はソラにとって兄貴分以上の存在であり、組織最精鋭である『ナンバーズ』に名を連ねる者である。
彼もまた特殊な力を操る深紅の瞳の持ち主で、その力も戦闘技術も群を抜いており、冷静沈着でどんな状況でも自分のペースを崩さなければ今のように他者の感情を揺さぶることに長けている。
ソラにとっては組織に入った当時、幼い頃から血は繋がっていないながらも兄とも教師とも言える存在で、その背中を追いかけていたことで今の自分があると言っても過言ではなかった。しかし、同時にどこか掴みどころのないイプシロンの性格は尊敬と反感を混ぜ合わせた微妙な感情を抱かせる相手でもあった。
イプシロンは力を隠そうとはしない。だが、ソレを誇示することもなければあくまで自分に忠実で目的のための必要最低限の行動でしかなかった。
その合理性と不可解さが組織の中でも一目置かれる一因であった。
ソラはそんな彼を認めつつもどこか『違う』と感じている自分がいることを数年前に気がつくこととなる。
その感覚の正体は未だ掴めていない。ただ、自分とは相容れない部分を彼が持っているのだというのは感じていた。
「兄さんはなんでここに来たの……いつもここ使ってたっけ?」
「いや、正直なところ今はお前に会いたかったんだ。同じナンバーズとして共に過酷な世界を生き延びてきた兄弟として……話ができるのはお前とベータしかいない」
「…………」
そう言われてしまえば何も言えなくなってしまう。
僕はちょろい……誰かから特別扱いされればすぐに気を許してしまう。どうしてこうなってしまったのだろうか?
「最近の親父は何かに恐れ慎重になっている……そうは思わないか?」
「さあ……?」
マスターに強い酒を要求しながら迫るように問いかけてきた。
やはりイプシロンも男の変化に気がついている。だが、その口調からはまだ何を恐れているのかには気がついていない様子……たぶん最後に直接男と会って話をしたのは僕だけで、僕以外は彼の変化を直接目にした人物はいないはずだ。
――父親は我が子を恐れている。
その子供に僕が、イプシロンが含まれているかは定かではない。ただ、彼が間違いなく僕らを遠ざけていることは何となく理解できる。
「お前も重要な仕事を受けたんだってな……依頼者は?」
イプシロンが軽く問いかけてくる。その声は落ち着いており、相手を圧迫するような威圧感は微塵もない。
何気ない言葉の中に潜む探りの刃。
ソレが彼の特徴でもあった。
「依頼主との関係性を他者に話すことはできないんでね……たとえ兄さんであっても」
「カタイなぁ」
ソラは淡々と返答するもやはり、探りを入れられていることに対する微かな警戒心が燻っていた。イプシロンの問いがただの雑談ではないことくらい誰にだって理解できる。
振られたイプシロンは口角をわずかに上げて肩をすくめていた。その仕草は別に気にしていないと言いたげであったが、このように軽く流すときは内心で何かを計算している。
相手の心理を計算し感情を揺さぶることに長けている男は油断ができない。
不意にイプシロンの視線が少女へ向けられたことで、ソラの体は反射的にこわばる。しかし、ソレを表に出すことはなかった。
ソラはじっと黙り、平静を装ったままイプシロンの様子を観察する。
「美しいな。成長したら男どもを魅了する逸品になるだろう」
その声はどこか冷ややかで感情の波を感じさせない。
彼にとって人間は単なる対象物でしかないのだ。
美しいか否か、有能であるか、強いかどうか。それだけが彼の評価基準であり、それ以外の要素は一切省かれる。性格や感情、或いはその人が背負う過去や苦しみ――そんなものは彼にとって何の意味も持たない。ただ、目の前にいる『存在』が自分の基準においてどの位置に属するか。
それだけが彼の価値である。
だから、彼女に向けられたイプシロンの眼差しには少女を一個の人間として見る意識は微塵も感じられない。
ただ、品評会の場で展示品を眺めるような冷徹な目だった。
「兄さんらしい評価だな」
努めて軽い調子で言葉を返す。
しかし、その声には微かな棘が含まれ少女に向けた視線に対する威嚇でもあった。
「…………兄さん、僕はもう帰るよ」
僕は当然立ち上がって彼女の手を引き帰ろうとした。
「おい、シグマ……彼女とはどういう関係なんだ?」
「できれば詮索しないでもらいたいな」
「弟の女がどんな人物なのか知りたいってのは当然のことじゃないか?なあ、顔をもっとじっくり見させてくれよ」
変な胸騒ぎがした。
僕は振り返ろうとした少女の頭を鷲掴みにして、無言でその場を立ち去った。
「シグマ、またお前とはすぐ会えそうだな……」