第5話 影
僕が探していた白髪の少女。
天使は言った。
―私を捕まえる悪魔。
交差点の中央で佇む少女の視線の先、高層ビルの屋上に何かがいる。
背中、脹脛と順に痺れる感覚は恐怖が逃走を促す合図であった。いつもこの野性的な勘が僕の命を守ってくれている。
今回もそんな勘に従うべきであった。しかし、どうしてもソイツが何なのか、彼女が何者なのかを僕は確かめたくなった。
足元に意識を集中させたその時だった、視線を向けた高層ビルの屋上に亀裂が現れ空中に瓦礫となって一部が飛散する。しかし、時が停止した世界ではその破片すらもある一定の距離を離れると空中で停止した。
同じく空中で停止する雨粒が空中で爆ぜ、空間そのものを歪ませながら悪魔は天使に向かって一直線に接近する。
目で追うことのできない一瞬の出来事に身構えていたにも拘わらず、天使と悪魔の衝突により発生したエネルギーによる衝撃波で体が後退りしてしまう。
荒れる風もやはり停止する。
視界が確保できてようやく確認できたソイツの姿は黒いローブを身に纏った包帯の人間。いや、人間であるかも怪しい外見であった。
黒いローブを身に纏った悪魔は少女に触れようとするも見えない壁によって拒絶され、少女は眉一つ動かすことなくソイツを見据えていた。冷静であるがしかし、どこか悪魔に対し同情するような憐れみを含んだ瞳である。
そんな少女の指が静かに悪魔を指し示した瞬間、静寂が泡のように弾けた。刹那、轟音が響き渡り空間そのものが削られソイツは抗う間もなく、圧倒的な力によって押し流され遥か先の建物へと叩きつけられる。
彼女の生み出した力は地面に衝撃の痕を深く刻み、削り取られた場所に存在した者のことを考える余裕など今の僕にはなかった。
深紅に輝き始めた彼女の瞳が僕を見据え口を開く。
「限界だ……時が動き始めてしまう!」
初めて額に汗を滲ませ眉を顰める少女。
それが合図となってか、世界中に掛けられた魔法が解けたことによって悪魔と少女によって発生した衝撃波が街中で意識を取り戻す。動けるようになった民間人は状況を把握する時間も与えられることなく、体を投げ飛ばすほどの強い衝撃によって大勢の負傷者が発生した。
空中で固定されたビルの瓦礫が落下してきては地上に存在するあらゆる物を圧し潰しパニックが発生している。
少女を視界に入れながら彼女によって吹き飛ばされたもう一人の包帯の悪魔を探すもソイツの姿は見えなかった。念のためズボンのベルトに挟まれた拳銃のホルスターを解除し身構えるも拳銃の弾程度が通用する相手な訳がない。
意識をソイツの飛ばされた方角に向けたその瞬間、再び少女の立つ交差点の中心で衝撃と轟音が発生する。
怪物と怪物の争いだ、人間が介入できる世界ではない。
「こんな争いに巻き込まれたら死んじまうな……!」
物陰に飛び込み状況を飲み込もうとする。
彼女が依頼の少女だろう、ならあの包帯は!?だから保護か……相手がアレだから報酬が高いのか。
点と点を無理やり繋げたこじつけにも近い推理をおこない、自分がやるべきことを理解する。
「なあ、今日も手伝ってくれるよな……相手は同じ。容赦する必要はないよな」
交差点の中央では依然、一方的な戦い。悪魔が少女を覆うように存在する見えない壁に向かい攻撃を繰り返しては、その余波が壁を伝い受け流される形で後方の建物や瓦礫に影響を及ぼしていた。
これ以上の被害を食い止めるには自分も持つモノを使わなければいけない。
決意を固めたソラは迷いを振り切るように指先を傷つけ指輪に血液を塗る。
指輪に血が触れた刹那、突如輝き始め眩い光が辺りを染める。激しい光によって生まれた足元の影がいつより濃くなったそのとき、ソラの影は生き物のように蠢きながら地面に不規則な渦を描き始めた。
来い……!
ソラは低く呟き、深紅に染まった目を鋭く細めた。
指輪の輝きによって勢いを増す自らの影、足元に広がる深淵の渦に精神を飲み込まれないよう踏みとどまる。
悪魔は指輪の輝きとソラを見つけ対象を変えた。
もはやソイツの動きは常識を超えている。
既に僕の目は悪魔を捉えることはできず、姿を見失っていた。
ただ周囲に響く風切り音と高速移動する度に現れる強靭な脚力によって抉り取られた地面の跡が、異様な迫力を伴って接近してくることだけが感じられる唯一だった。
予測もできなければ姿を見ることもできない、視覚から得られる情報に頼ることはやめ全神経を研ぎ澄まし耳と肌で感じ取れる微細な変化にすべてを委ねることにする。
自分の呼吸までもを繊細に感じ取り、ヤツが地面を踏みつけた瞬間に発生する微かな振動や抉れた土の跳ね上がる音を追跡し、ただ一撃を防ぎ、ただ一撃を加えるために精神を極限まで集中させた。
拳を握り、荒れ狂う嵐のような殺気の中で静寂を見つけた。
「そこかァ!」
振り上げた拳と連動するように足元の影が一気に隆起し、巨大な腕が現れソイツの体に直撃する。
手ごたえはあった。
確かな勢いと威力でヤツの体が飛ばされていた。遠くで瓦礫が崩れる音がヤツを追いかける様に轟き周囲から充満していた殺気が消え去ったのだ。
しかし、ソラも無傷ではなかった。
影と完全に連動した攻撃はヤツを撃ち抜いた反動をソラの体にも伝えた。影を介して右腕に伝わる鈍痛は瞬く間に鋭い痛みへと変わり、裂けた皮膚から鮮血が激しく噴き出た。
一心同体というのも考え物だ。
ただ殴るといった動作だけでこれほどのダメージが本体の自分へフィードバックされてしまう相手にその場で蹲ることも許されず、ワイシャツの白い袖が血に染まるのも無視して少女の方へ駆け寄ると手を引き走り始める。
急がなければまたアイツが追いかけてくる……もう一撃なんて考えたくもなければ通用しない。
血に怯えることもなく、連れていかれることに疑問を抱くわけでもなく白髪の少女は顔色一つ変えることはなかった。瞳はどこか寂しそうにヤツが飛ばされた方角に向けられていた。
この少女は何なんだ?
そのとき、僕らの隙間を縫うように風が吹き抜け彼女の髪が静かに揺れる。刹那、ちらりと見えた尖った耳。そのわずかな特徴にソラの脳内に閃光走る。
「キミ……もしや、エルフィノか?」
思わず口にしたその問いに少女は一瞬肩を震わせる。
その反応は明らかだった……僕の考えは的中しているという証拠だ。
赤い瞳に蛇のように縦に割れた瞳孔そして、尖った耳はエルフィノと呼ばれる種族が持つ身体的特徴と一致していた。
それまでの少女の態度は威風堂々とした、上位存在の世界そのものを見下ろしているかのような気高さであったが、ソラの一言によってその雰囲気は崩れ去った。
彼女の表情が変わる。強者としての仮面が外れ、いや人が変わったように現れたのは普通の少女らしい弱々しい顔であった。赤い瞳が僅かに揺れ、彼女が何者であるのかを見抜かれたことへの動揺がハッキリと伝わってきた。
やはりそうだったのか……。
ソラは内心でようやく納得することができた。悪魔を寄せつけない特殊な見えない壁の力、世界の時を止めるなど普通の人間には決して真似することのできない異能。エルフィノという特異体質を持つ種族だからこそ、成し得た技に違いない。
彼らはその血が濃いほど、異能の力が強力になると言われる。
少女は慌てたように手を伸ばし、服の袖口で尖った耳を隠した。
その動作には切実な焦りが滲んでいて、まるでその赤い瞳と尖った耳が彼女の存在そのものを否定する烙印であるかのように――
彼女自身がその事実を一番よく知っているのだろう。
混乱に陥った街であるが、そんな中でも周囲の視線を恐れる様に彼女は更に髪の毛を覆い隠す。雨に濡れた髪が顔に貼りつくのをものともせず、何かを守るような仕草であった。
その瞳に浮かぶのは、隠しきれない孤独と不安。
「警戒しないでくれ……僕はキミを保護しに来た。まずは僕を信じてくれ」
彼女の小さな手を握り街中を駆け抜けていた。
しかし、このまま走り続けるだけでは時間の問題でしかない。いずれ追跡してくるアイツに捕まることは明らかだ。
少女は必死だった。その細い腕から伝わる微かな力、そして段々と歪み始める表情が彼女の限界を物語っている。叫び声をあげて逃げ惑う民間人の間をこのまま走らせるのは危険であった。
僕はすぐに彼女の体を腕の中に抱きかかえ一気にその場を駆け抜ける。風を切るような速さで街頭や道路標識を利用し障害物の存在しない高い場所へと飛び移っていく。
重力をものともせず、目の前の障害物を次々飛び越えていくその様子は獣のような敏捷さだった。
その真横、街路をパトカーの一団が駆け抜けていく。その緊急車両のサイレンが響き渡る中、群れを成す車列の中に見覚えのあるパトカーがあった。
運転席に居るのは――アレンだ!
ひと際目立つ移動方法のソラを確認したアレンはすぐさま窓を開け、音路機と焦りが混じった声で彼の名を呼ぶ。
「ソラ、いったい何をしていたんだ!?お前、ここで何を―」
「話は後だよ!とにかく、今すぐここを離れて!」
パトカーに飛び込みアレンの言葉を遮り叫ぶ。そんな鬼気迫るソラにアレンは一瞬戸惑ったものの、その様子から状況の深刻さを察しアクセルを力一杯に踏み込んだ。
パトカーはその場で勢いよく方向転換をおこない、緊急車両の一段の流れを逆らうようにUターンを始める。
車内にはサイレンの音とエンジンの唸りが響き渡る。振り返ったソラの視線の先には、追跡者の気配がまだ微かに残っていたが、今はただここから脱出することに全神経を集中させるしかなかった。
「ソラ、瞳の色が変わってるぞ。まさか力を使ったところを誰かに見られたわけじゃないだろうな!?」
「え……!?」
バックミラーで確認すると指摘通り僕の瞳も少女と同じ深紅に染まっていた。
「何していたかは情報が混乱するからもう聞かないが、その少女はなんだ?」
「さっき助けた」
「助けた?赤い瞳……尖った耳……エルフィノか!」
やはりその言葉に少女の体が小さく反応を示した。
「エルフィノは久しぶりに見たな。ハルベイドが封鎖されて以来街で見るのは変装した者ばかりだからな……こうも堂々としている子は珍しい」
「そんなことより安全な場所ってどこかない?」
「警察署の留置施設かな……あそこは建物自体が頑丈にできてる」
「じゃあそこまで急いで!」
あまり好まない場所であるが、この際一番安全な場所であるというならパトカーで逃げ続けるよりは安全だ。
「さっきの続きだ……なんでキミはアイツに追われていた?」
僕は改まって彼女に質問をする。
エルフィノはある一件からこの大陸では嫌われている種族であり、彼女らに敵意を向ける住民や組織は少なくない。そのため、迫害を受ける人種である彼女らが絡んだ事件はいくつも発生し、誘拐や殺人などエルフィノはこの大陸にいる以上襲われることは珍しくないのだ。
今回もその一例と言われればそうなのかもしれないが、あんなバケモノに追われていることは普通ではない。
「はっきりとはわからない……ただ、私は彼女を守るために」
「彼女を守る?なんの話だ」
「たぶん、アレは鍵を持つ彼女を追っている」
また一段と小さくなったようにも見える少女は怯えた様子で背後を警戒しながらそう切り出した。
鍵と彼女とは何なのだろうか?
疑問は頭の中でいっぱいになるが、アイツが追いかけているモノは取り敢えず分かった。
そして、僕も彼女と同じくリアガラスの向こう側に視線を向ける。
あの程度で気絶することはないと思っていたが、段々と近づいてくる黒い殺気を感じられた。
「アレンさんスピードを限界までもっと上げて!それと何があっても車は止めないで……僕が何をしても!」
その悪い予想は例外なく今回も的中していた。
小さな点であった黒い影が段々と接近してきたと思ったその瞬間—―
ゴウンッ!
体が浮かび上がり視線がぐらりと傾き、衝撃によって前輪が地面を失った感覚。車体後方に掛かる重力と衝撃にいち早く反応したソラは、すぐさま拳銃をホルスターから引き抜きリアガラスに映る影に向けて発砲する。
雨音をかき消す銃声と飛散するガラスに紛れてソラは車外に身を乗り出した。刹那、銃弾から逃れるためにトランクからパトカーの屋根へと素早く移動していたソイツに向け再び発砲する。
今度は姿を捉えていたために外すことはなかった。