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シグマホワイト  作者: 東雲 静葉(きゃきゃお)
第一章
3/11

第3話 違い

 少年は目覚めた。

 目覚めた――という感覚も、どこか他人事であるようだった。

 だが、ソレも無理からぬことだ。彼の視界に初めて映ったのは、現実と夢の狭間にあるような不可思議な光景だったのだから。

 眼前に広がっていたのは、世界を丸ごと包み込むほどの大樹。

 その幹は天を貫くように太く、枝葉は空を覆い尽くし――それどころか、隙間からは星々が木漏れ日のように降り注いでいた。

 葉の一枚一枚が宝石のように輝いては、それぞれがまるで個別の宇宙を宿しているように見える。

 眼前に聳えるその大樹には、命そのものが脈打っているかのような神聖さが漂っていた。輝きはただ眩しいだけでなく、見る者の心を激しく揺さぶり、抗えぬまま惹き込んでいくような神聖な力を有している。

 しかし、その距離はあまりにも遠い。

 手を伸ばしても決して届くはずもなく、いくら目を凝らしても全貌を捉えきれない。圧倒的な存在感を放つ大樹は影に隠れることなく、ただ黙然とそこに在り続ける。


――その時だった。


 光の中から人の声が聞こえた。

 ソレは優しく、穏やかで――まるで母親が幼子を呼び寄せるような、慈しみに満ちた響きだった。


『ここまで来い』


 挑発でも命令でもない。

 ただ純粋に導くための声。

 その言葉の意味を超えた音の響きに、少年の心はそっと揺れ動き無意識のうちに一歩を踏み出していた。

 しかしその瞬間——彼の指にはめられた指輪が、大樹の放つ輝きにも劣らぬ眩い光を放ち始める。

 強烈な光は、まるで大樹に抵抗するかのように激しく反発する。

 少年はその力に戸惑い、指輪が自らの意志とは異なる何かを拒絶し、警告しているのを感じた。

 だが、ソレでも歩み始めた少年の足は止まることはなかった。

 指輪の光が如何に行く手を妨げようとも、その足は再び一歩、前へ進む。


 ――どれほど歩いたのだろうか。


 次第に時間の感覚が失われ、近づけば近づくほど大樹の存在はますます圧倒的な重みを帯びていく。

 やがて、足元はまるで見えない泥沼に飲み込まれるように重く、息苦しさが徐々に全身を覆っていった。

 さらに奇妙なことに、進むほどに精神が吸い取られているような感覚に襲われる。思考が霞み、目の前の景色が揺らぎ輪郭を失っていた。

 呼びかける声は、遠ざかる様に聞こえる。

 それでも、少年の歩みは止まらなかった。


「なんだ、この感覚は……?」


 少年は額に滲む汗を拭いながら足を止め、乱れ始めた呼吸を整えようとした。

 だが、その瞬間—―視界の端で、何かが揺れる様に現れた。

 大樹に繋がる道に一人の少女が現れたのだ。

 長い白髪は風に乗って銀色の波のように揺れ、赤い瞳が不気味なほど鮮烈に輝いていた。

 間違いない。まさにあの写真で見た少女だ。と、少年は直感的にそう確信した。

 しかし、眼前に佇む彼女は写真の中で見た印象とは、まるで違っていた。

 その肌は白く透けていて、命の温もりを一切感じさせない。冷たく無表情な顔は感情を失った彫刻のようで、見ているだけで胸の奥を絞めつけられるような不安がこみ上げてくる。

 じっと、ただ黙って見つめてくる。

 ただソレだけで――少年の心には不安とは異なる得体の知れない感情が静かに湧き上がった。


「キミは……?」


 少年の口から、思わず言葉が零れ落ちた。しかし、少女は何も答えない。

 ただ、その深紅の瞳でじっと少年を見つめていた。その視線は、彼の魂の奥深くまでのぞき込むように静かでありながらも抗い難い重圧を伴っている。

 やがて、少女がそっと手を伸ばす。

 その仕草は、彼女もまた何かを拒絶しているようであり、或いは迷いながらも引き寄せようとしているようにも見えた。

 そして、少女の唇が微かに動く。


「……ここへ来ては、いけない。

   それとも――来てしまうの?」


 その声は夢の中で聞いた――いつかの母親のような優しさと、どこか哀しげな響きをもっていた。


「僕は――」


 言葉を紡ごうとした刹那、指輪が更に強く光りを放つ。

 眩い輝きは大樹の力に抗うように、光の波紋を広げ空間を震わせた。


「|デリン・ラ・ラナグウェイ《天使はすぐ傍にいる》」。


 光の中で、少女がそう呟いた。

 ソレは少年にとって明らかに未知の言語だった。だが、不思議とその意味だけは――まるで最初から知っていたかのように、明確に理解できてしまっていた。


「待ってくれ!キミは……何者なんだ!?なぜ僕は、その言葉を――!」


 足元が震え、世界が反転するような感覚に襲われる。

 身体が何か強大な力によって、強制的に引き戻されていく。

 ここに留まっていられる時間の限界が迫っていることを理解し、僕は溢れ出る疑問を必死に口にする。

 だが、少女はやはり僕の問いに答えることはなかった。

 引き裂かれていく現実との狭間で、彼女は少年を見つめ続け――その運命を映す緋の水面に波紋を広げる。

 ソレは切なさにも似た哀しみ。或いは抗うことすら諦めた者の、静かな絶望。


「来るべき時が来たら、きっとわかる……」


 その声が耳に届いた瞬間、少年の意識は完全に遠のいていった。

 視界は網膜に焼きつくほどの白い光に飲み込まれ、大樹も少女の姿もすべてが霧のように消え去っていく。



――ジリリリリリィ……!!


 頭と耳に響く不愉快な金属音によって、意識が強制的に現実に引き戻された少年は見慣れた天井に安堵する。

 古く狭いアパートの一室。流し台には食器が放置され、雑誌や参考書は山積みになっている。

 視線を順に動かし、ようやくここが現実であると認識した。

 ベッドから体を起こし、背伸びをすると目一杯の欠伸が漏れる。その勢いで部屋に舞う埃を一気に吸い込んだが、どうということもない。

 整理整頓、身の回りの管理、掃除――どれもこれも少年には苦手なことばかりだ。おかげで部屋は常に何者かによって荒らされたかのような状態で、寧ろこれがいつもの光景だった。

 一度、友人に片づけてもらったことがあったが、その時はあまりの違和感に落ち着かず、一週間もしないうちにまたこの汚部屋に戻ってしまった。

 人は何かしら欠点があるべきだ。

 そう自分に言い聞かせ、タンクトップとパンツ姿の自分を鏡で眺めると、このときはじめて自分が涙を流していることに気がついた。

 まったく健康的な青少年の情けない姿に、更に涙が零れ落ちそうになる。

 久しぶりに見た夢の内容は、目覚めた瞬間にはまだ微かに残っていたはずなのに、今ではすっかり霧のように消えてしまっていた。

 寝汗を掻いた肌に不快感を覚えた少年は、フラつく足取りで浴室へ向かいシャワーを浴びる。

 ぬるま湯が首筋を伝い、髪を濡らし、肌に纏わりついた汗を洗い流していく――けれど、水では洗い流せない“何か”が心の奥底に粘りつくように残っていた。

 シャワーを終え、濡れた髪をタオルで乱雑に拭った後、少年はそのまま再びベッドへと飛び込んだ。

 時計の針は既に遅刻の時間をハッキリと示している。


「まあ、もういいや……」


 少年はぼそりと呟き、時計から目線を逸らして腕を枕代わりに仰向けになる。

 遅刻が確定した今となっては、焦る気力も湧かず開き直るしかない。

 人はこうして、どうしようもない現実に対して開き直るものである――自嘲混じりに自らの弱さを肯定する。

 カーテンの隙間から差し込む光は、やはり眩しかった。

 部屋の中に細く柔らかな筋を描きながら差し込む光に触れる度、彼は目を細めた。

 窓の外からは、街の喧騒が微かに届く。

 朝が始まり、誰もがそれぞれの「やるべきこと」を熟しているのだろう。そんな当たり前の現実までもが、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。


「…………なにやってんだろ、僕は」


 胸の内にぽつりと生まれた疑問は、誰にも届かない独り言として部屋の空気に溶けていった。

 そんな中、唯一寄り添ってくれる存在は傍で蠢く。


「なんだ……キミも眠れなかったのか。なら、もう少しだけこのままで――ハハッ、そうだね。僕もキミがいるなら、どこまでも行けるような気がするよ」


 右手の中指に納まる錆びついた指輪――顔も知らない両親の遺してくれた唯一の形見を見つめ、少年は静かに瞼を閉じる。

 そこは現実と自己の狭間に広がる深淵。

 誰もが心の奥深くで他者に見せることのない感情や考え、欲望、恐れ、信念、そしてかすかな祈りの残滓(ざんし)。ソレらが沈殿する魂の最も深い場所へ精神を沈めていた。

 誰かを傍に感じていなければ、恐怖でそこに踏み込むことすらできない場所。

 自己の本質と対峙する瞬間というのは、誰にとっても深淵広がる底のない沼でしかないのだ。



「ソラ、またお前はこんな時間に登校しおって!」


 ソラという人格を演じる少年が再び目覚めたのは、昼の時報が鳴り響いた頃だった。

 授業終了わずか5分前、悠然と教室に現れた彼に対し教師はその態度を挑発と受け取り、他生徒の授業を放置して怒声を浴びせる。

 それは、今や誰もが見慣れた日常の一幕。陰では(あざけ)る者は少なくないが、少年は気にも留めない。

 他人と自分との間にある、わずかにズレた世界の輪郭。その奇妙な感覚を今日も抱きながら、彼は長く説教に欠伸を噛み殺す。


「いい加減にしろォ!」


 職員室に呼び出されれば、担任までもが加勢して僕を叱り始めた。


「お前は少しは真面目に人の話を聞きたまえ!常に自分は独りだという認識を持っているのかもしれないが、お前の在り方は社会とズレている!」


 教師の言うズレ(・・)と僕の日々感じている世界とのズレ(・・)は、どこか似ている気がした。

 けれど、ソレが本当に同じものであるのかどうか、僕にはまだわからない。未だ何をもってズレ(・・)と定義すればいいのか、その基準さえ見つけられずにいる。

 教師の言う『社会とのズレ』――それは、世間一般と呼ばれるヤツで世間を構成する多数派が定めた常識の物差しの話だ。

 だが、そんな物差しは時代が変われば形を変える。母数が変われば基準も揺らぎ、絶対とされた価値観でさえ、やがて塗り替えられていく。


 いつの時代も、正しさ(・・・)を決めてきたのは多数派であった。

 多数の手によって、僕たちが進む道――いや、広く見れば人類の未来すら方向づけられてきたのだ。

 そして、そんな多数によって構成される社会であるなら、多数が定義する正しさ(・・・)から逸脱してしまった者たちは排斥されるか、従順であることを求められ、そうやって社会という機械は滑らかに回ってきた。

 けれど、それはあくまで、ある時代の強者(・・)が多数であっただけの話だ。

 もしも少し風変わりな者たちが、次の時代の主流となったなら――かつての常識は、あっけなく瓦解してしまうことだろう。

 そのとき、教師たちが唱える正しさはどうなる?

 彼らもまた僕のように常識を定義する者たちによって説教を受けるのだろうか?


 『真面目は不健全』、『教育は自由意志』

 かつては『贅沢は敵だ』と叫ばれた時代は、百年も経たぬうちに我慢の美徳として嘲笑され、時代遅れの思想として葬られた。

 いずれは、『真面目であれ』とか、『先生の言うコトを聞け』といった教えも個性の尊重という名のもとに拷問扱いされ、やがては学ぶことそのものが個人の裁量にゆだねられ学校という制度すら不要になる時代が訪れるのだろうか。

 既に紙だって資源の無駄と言われ、教科書などというものは過去の遺物となった。

 おかげで学生たちは、少なくとも教科書の重さによる肩こりから解放されたようだ。


「今の社会には温かみが無いのだよ!」


 そうなのかもしれない。

 遅れているモノを刷新するのは確かに素晴らしいし、否定をするつもりもない。だが、古いモノがあまりに簡単に切り捨てられていく今の時代には、どこか胸を締め付けられるような寂しさがある。

 解雇とは違う――名前のない不思議な感覚だ。


「ソラ、お前もすぐ大人になる日が来る。お前にとって大人(・・)が、あまり良いモノではないかもしれない。だが、人間の成長は誰にも止めることができないんだ」


 その言葉の途中、不意に教師が見せた情けなくも悲しげな、どこか諦めを帯びた表情――

 あの一瞬を、僕は生涯忘れることはないだろう。


 彼もまた、教師という仮面の奥に迷いながら生きる一人の人間なのだ。


 長い説教から解放された僕は、足を引きずるように教室へと戻る。

 自分の席に腰を下ろし、ただ静かに窓の外の景色眺めていた。

 毎日同じ景色が広がっている。

 校庭の木々も、遠くに見える街並みも一向に変わることはない。

 風が吹けば葉が揺れる。その繰り返しが、あまりにもなじみ深い光景であって、その毎日がただ繰り返されているだけのようにも感じられる。

 ふと、ソラは窓越しに映り込む王都へと目を向けた。

 そこは目の前の景色とは対照的に、常に何かが変わり続けていた。

 新しい建物が次々に建ち、周りの街並みに不釣り合いな高層マンションや巨大な鉄塔を建設し王都を中心に少しずつ姿を変えている。

 活気に満ち、人々が人間として生活をしている場所だ。だが、ソレを見ているとなんだか自分だけが取り残されているような感覚に陥る。

 そして同時にこんな疑問を抱く。

 王都はそこに住まう人々のために変わり続けているのだろうか、それともただ流れに身を任せて変わっているだけなのだろうか?

 その問いは、まるで自分が抱える根源的な疑問に似ていた。

 自分は一体何のために生きているのか。なぜ、ここに存在するのか。

 それは誰もが一度は考える、誰にも答えが出せない疑問であった。


「キミは何のために生きているんだ……と、いうよりキミは生きていると言っていいのか?他の誰かが、キミの存在を証明することはできるのかい?」


 疑問は頭の中で浮かんでは消えていく。

 自分もいつか、何かの為に生きる意味を見つけることができれば――その答えが見つかれば、王都と同じく変わり始めるのだろうか。

 そんな哲学的なことに思いふけっていると、珍しく今日は彼女の方から声をかけてくれた。


「ソラくん、今日はいつになく落ち込んでるみたいだね?なんだか魂がここにないみたいな……」

「……おはよう、セラさん」


 遅いおはようであった。

 彼女は学校でも一番を争うとされる人気者であり、僕のような人間とは関わることのない人物だ。

 それでも、隣の席ということもあって稀に声をかけてくれる。


「今日もよく怒られたねー。でも、先生もソラくんのことを思って言ってくれてると思うから、ちゃんと受け入れてあげなよ?」

「僕はそこまで子供じゃないよ……。ただ、色々考えていただけ」

「考えてた……何を?」

「…………あれ?なんだっけ」



 そして、退屈な学校は終わった。

 いつも通りの授業だった。

 これは自慢ではないが勉強は得意な方だ。

 大陸では名の知れた進学校に通っていることもあって、周りのレベルは当然高い。しかし、僕はそんな中で努力と実力によって同学年を黙らせてきた。

 これくらい素直に言っても罰は当たらないだろう。

 そのため一人暮らしのアパートまでの帰り道、静かにしている僕にも話しかけてくる者は少なくない。

 その多くはテスト対策など勉強に関する質問だったりする。

 正直に言えば、頼られるのは悪い気はしない。誰かの役に立つというのは意外にも心地良いモノで、たとえ僕がその相手と親しいわけなくても必要とされているという感覚にはどこか温かいものがあった。

 街路樹の葉が風に揺れる音を聞きながら、僕らは歩いていた。


「いやー今日も助かったよ!これで今回も赤点は回避できそうだな」

「そう言ってもらえると教えがいがあるよ」

「なあ、この後ソラも飯行かね?」

「…………ご、ごめん。僕、この後少し用事があってさ……今回も行けないんだ」

「なんだよー親睦を深めるチャンスだろ」

「用事があるんだし仕方ねえだろ。わりぃな、今日も勉強教えてもらって!」


 今、こうして食事に誘われることは素直に嬉しい。

 人と関わるのが少し苦手というだけで、僕は人を拒絶しているわけではない。人によっては僕を冷たいヤツだと捉える者もいるが、それも間違ってはいない。

 時々、僕は彼らの放つ輝きに目が潰されそうになる。

 彼らの世界は、あまりにも眩しすぎるのだ。


 数人の男子生徒の背中を眺めながら、僕はいつもどおり人の寄り付かない路地に足を踏み入れる。

 古びたアスファルトの匂いと湿気が立ち込めるその場所は、昼間だというのに薄暗く誰の目にも触れない隠れ家のような雰囲気を漂わせていた。

 ソラの足音が路地に響く。

 その音を合図とするように、物陰から複数の男たちが次々と姿を現す。彼らは(みな)例外はなく、みすぼらしい服を纏い、不潔な髪と悪臭を漂わせ自然と眉間に力が入ってしまう。

 社会から見放され都市の隙間に生きる者たち。

 彼らの集まる目的は一つだけ、僕から煙草を手に入れるためだ。

 しかし、彼らにまとまった金があるはずもない。そこで彼らが煙草を手に入れるための支払い手段は硬貨でも札束でもなく、情報を提供することだった。

 僕の常套手段である。


「みんな順番に並んでくれ。大丈夫、数は用意してるから――焦るなって」


 落ち着きなく忙しなく揺れながら集まった者たちは、我先にと煙草を寄越せと迫りくる。

 原価0.3ノーラ――すべて自らの手作りである手巻煙草を鞄から取り出し、彼らに見せるとゾンビのように群がり始めた。

 口々に短い言葉を吐きながら、一本でも多く手に入れようと差し出される手。

 甲には傷が刻まれ、指先は泥にまみれ、爪は変色して割れていた。

 どんな生活を送ってきたかを物語る姿、太陽の下で生きる者たちには知ることも想像することもできない世界がここには広がっている。


「少女のことだが、最近白髪の子を見かけたって話を聞いたぞ」

「そりゃあの幼女好きの戯言だろ!なぁ兄ちゃん、俺の仲間は郊外の森で白髪の美人を見たって言ってたぞ」

「馬鹿、白髪のババアの話なんか誰も聞いとらんわ!」

「駅前で赤目のエルフィノを見たぞぉ……」

「エルフィノは元から赤目じゃろ!」


 相も変わらず目的のためには手段を選ばない彼らの情報は、どれも具体性に欠けていた。手掛かりとしては、あまりに曖昧で使い物にならない。

 それでも、わずかな希望に縋りたい一心で彼らの声に耳を傾けたが、遂には誰一人として少女に繋がる明確な情報を持っていなかった。

 最初から大きな期待はしていなかった。

 どこにでも現れ、どんな場所にも潜り込む術を持っていて、誰からも見向きをされない空気のような彼らを利用するのが最も効率的であると僕は考えていた。

 実際、彼らが持つ情報網が新聞記者や警察のソレを遥かに凌駕することがあったからだ。

 しかし、今回ばかりは違った。

 用意した煙草数箱分を失い、手に入れたのは必要としないエルフィノの噂話ばかり。

 少女に繋がる糸は、一本たりとも見つからなかった。


「ケッ、お前らに頼んだのが間違いだったな」

「そんなぁ……兄ちゃん冷たいこと言わねぇでまた来てくれよぉ」

「んだんだ。オレたちまた必死こいて探すから」

「なら次は自分たちの仕事でも探してこい!」


 煙草を手に入れ次々と路地を去っていく哀愁漂う背中に吐き捨て、室外機に腰を下ろすとブツブツ文句をもらす。


「クソが……また時間の無駄かよ」


 先ほどの取引を脳内で整理するも、やはり――どれもこれも中身のない嘘ばかりで情報に一貫性など欠片もなかった。

 深いため息をつき、背もたれのない室外機に凭れ掛かる。だらしない姿勢のまま、空を仰いで目でも閉じようとした、そのとき――

 背後で、足音が響いた。

 思わず体が強張る。

 ソレは、浮浪者(ヴァグス)たちの足音とは明らかに違った軽快さに欠ける重量感のある靴音。革靴の底がコンクリートを叩く特有のリズムが二人分、路地に響いていた。


「子供がこんな時間にこんなところで何をしている?」


 声がした瞬間、心中に「面倒なことになった」という感覚が広がる。

 その堂々とした口調、そしてわざとらしく鳴らされるガムを噛む音。

 下品で、威圧的で——相手が警察(サツ)だと気付くのには十分だった。

 ソラは吐き出されそうになったため息を飲み込み、観念したように両手をゆっくりと挙げてみせた。

 ただし、振り返るつもりはなかった。


「よくわかったじゃねぇか……全く敏感な耳をしているなぁ?」


 声が近づくとともに、その余裕に満ちた調子がより鮮明になった。


「別に悪いことなんかしてねぇよ」

「そうかよ……だが、俺たちも仕事だ。こんなところで怪しい小僧を見つけたら取り調べしなくちゃいけねぇんだよ」


 硬く冷たい警棒が背中に触れたのが分かった。

 しかし、これはただの脅しである。


「それで?何をしていたんだ?」

「ガキの社会勉強だよ」

「へぇ……行き場のない貧乏人どもを相手にビジネスか」

「いったいどれくらい儲けられるんだろうな?」


 儲けなんて1ノーラもない。それ以上にマイナスでしかないので、この社会勉強は失敗である。

 ボディチェックを名目に警官たちは僕の荷物や服に隠された物を次々と探し始めた。見つかったのは余り物の煙草が3箱、そして腰のベルトで携帯されていた拳銃が一丁。

 大陸では銃の所持が法律で認められており、護身用などに携帯する者は多く特に違法性はなかった。だが、男たちは眉間に皺を寄せながらその拳銃を手に取り、何かと理屈をこね回しては存在しない問題があるかのように騒ぎ立てる。


「これはどうなんだ?本当に正規のライセンスか?」

「怪しいな。こういうの闇ルートでも出回っているらしいぞ。昨日もソレでぶち込まれたギャングが居たな」


 声色には皮肉が混じり、明らかにこちらを試すような響きがあった。


「馬鹿言うなよ。ライセンス更新は先週だ……数字読めねぇのか?だとしたら、ちゃーんと刻印されたシリアルナンバーがただの装飾になっちまうな」


 彼らの肩にかけられた制服と警察章は一応それらしい体裁を保っているが、その態度や言葉から伝わるのは法の番人というよりも路地裏の掠奪者(プランダラー)である。

 法を盾にして己の利益を追求するためギャングよりもタチが悪い。


「煙草が……3箱か。まあ、悪くないな」

「税金分を考えればかなりの得だ」


 いやらしさが滲み出ていて、目の前であからさまに利を計算する仕草が見て取れた。

 彼らが警察という名の看板を背負っていることは真実であるが、その看板の裏側はまるで埃まみれの鏡のように薄汚れている。

 そのおこないは正義を語る者としての本分を忘れた不愉快な仮面を纏った姿に他ならない。

 まったく反吐が出るよ。

 まだまだ粗探しがおこなわれる気配を感じ取り、ここは税金のかからない煙草を無料提供してやり過ごそう――そう、考えたところに助け船がやってきた。


「お前たちこそ、仕事を放り出してこんなところで何をしている?」


 不意に響いた低く落ち着いた声がその場の空気を変えた。

 今日は色んな人間がよく現れる……。

 目の前で僕を取り調べる二人の警官が振り返ると、そこに立っていたのは彼らとは明らかに異なる雰囲気を纏う男だった。制服には一切の皺も汚れもなく、端正な身なりはまさに教科書に描かれる理想的な警官像そのものだった。


「「あ、アレン警部……!」」


 二人の警官が一瞬だけ顔を強張らせ、そして無理に平静を装う。その様子から、この男がどれほどの影響力を持つ人物であるのかが伝わってくる。

 アレン警部は大陸南部出身ということもあり、深い褐色の肌が特徴的だった。身長は僕よりも頭一つ分高いく、190cmに迫るだろう。

 その鍛え抜かれた体格はまるでどんな状況も一人で切り抜けられる、この場にいる全員をねじ伏せられる強靭さを感じさせた。

 僕は自然と彼を見上げる形となり、その威圧感に思わず言葉を飲み込んでしまったが、彼の眼差しと口調にはただ威圧するだけではない警察の持つ確かな正義感が宿っているようでもあった。


「取り調べはいいが、こんな路地裏でやるものではないだろう」


 アレンの声には一切の揺らぎがなく、取り調べをおこなっていた警官たちは視線を彷徨わせながら言い訳を探しているようだった。


「そ、それがですよアレン警部……!この少年が怪しい行動をしていたもので」

「怪しい行動?」


 彼は眉を一瞬だけ上げたが、その静かな声には明らかに怒気が含まれていた。


「あ、あの……そ……そうで」

「怪しいかどうかは証拠次第だ。だが、少年に対する強請りの現場を見てしまった以上、私も上に報告する義務が発生してしまう。大人しく持ち場に戻れ……今なら俺は証拠がないため見間違いで済ませることができる」


 警官たちは何も言えなくなり、やがてその場から曖昧な言い訳を口にしながらその場を立ち去る。

 結局僕の作った煙草はすべてアイツらの懐の中にしまわれてしまった……。


 助け舟を出してくれたアレンは僕に向き直ると、少し表情を和らげながら言った。


「ところでソラ、お前はここで何やっていた?」

「あ、え…………?」

「残念。補導だ」

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