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シグマホワイト  作者: 東雲 静葉(きゃきゃお)
第一章
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第2話 シグマ

 いつものように、少年は王都の片隅にひっそりと佇む寂れたバーへと足を運ぶ。

 王都—―かつて栄華の象徴であったその名が今では喧騒と煌びやかさを(かたど)る代名詞となり、高層のガラス建築が陽光を反射しては眩い光の帳を描き出していた。だが、そこから離れたこの路地街にあるものは、ただ風化しつつある記憶だけだった。

 経済という名の奔流に取り残され、更新されることを拒んだまま朽ちてゆく建物たちは、古傷のように今では誰からも顧みられることなく放置されている。

 人々の欲望が駆動する中心街の熱量はここまで届かず、空気は乾き音すらもどこか遠く鈍い。都市の現在から切り離された『過去の亡霊』のような静けさがここを支配していた。

 そんな時代に見捨てられた一角、路地裏の闇の奥に沈むように存在するバーの前に少年は何の違和感もなく現れる。

 制服は身に着けていない。だが、端正な面差(おもざ)しからはどこか上質な空気が漂っている。

 それはこの場の空気とはまるで異質でありながら、本人にはその違和の自覚すらないかのようだった。

 道端に座り込み意識の溶けかけた目で通行人を眺める者たち、地面と一体化するように寝そべる男たち。

 彼らの存在を少年は視界の隅にすら置かず、ただ真っすぐに――まるでそこだけが唯一の現実であるかのようにバーの扉へと手をかけた。


 このバーは社会の枠組みから弾き出された者たちの終着点――いや、正確にはその一歩手前、最後の足場と言うべきか。

 表通りの光が届かぬ影の中で、彼らは自分たちだけの静かで濁った世界を築き上げていた。

 ここに集う者たちには、一つの共通項がある。皆、何かを失い何かを諦めた者たちだ。

 かつては夢に縋り、或いは夢に裏切られその代償として社会から見放された者。

 制度や規範に屈することを拒み続け、結果として居場所を剥奪された者。

 あるいは、喧騒から遠く離れ誰にも見られぬことを望んで生きることを選び取った者たち。

 その誰もが多くを語らない。だが、沈黙という名の声が、彼らの背に纏わりつく過去の重さをひっそりと物語っていた。


 だが、果たしてソレは――本当に『生きている』と呼べるのだろうか?

 否。彼らはただそこに『在る』にすぎない。呼吸をし、時間を消費しながら何ひとつ社会にとって意味を持たぬまま、ただ在る。

 その存在すら、誰にも認識されなければ風景の一部にすらなりえない。

 道端に転がる石と何が違うのか?

 いや、むしろ石の方がまだましだ。石は少なくとも、歩行者の足を止めるかもしれず、歩道の摩擦を促すかもしれない。

 しかし、ここに在る彼らは社会の機能にも、構造にも含まれず何ひとつ影響を及ぼさない。制度に組み込まれることもなく、統計に記録されることすらない。

 ただ見えざる手によって切り離され、押し込められ、忘れ去られた者たち。


 ここは彼らにとって、『生きる』ための場所ではない。

 むしろ、『在る』という事実そのものをお互いに確認し合うための場――言葉を交わさずとも、眼差しと沈黙によって互いがなおも存在していることを確かめ合うための、影の集合体である。



「……おっさん5番だ」


 少年の低い声が、場末の空気に波紋を広げた。

 カウンター越しに注文の声を受けたマスターが、ゆっくりと顔を上げる。

 風雨に晒された石造のように無表情な顔。その皺の奥に、微かに宿る怠惰と諦念(ていねん)。愛想という概念からは程遠い男である。

 だが、その無表情は一瞬だけ動いた。

 少年の肩に羽織られた重たそうなジャケット。その胸元、鈍い照明にわずかに浮かぶ紅の刺繍――薔薇。

 それを目にした刹那、マスターの眉間に深い皺が刻まれる。

 露骨に嫌悪とも猜疑(さいぎ)ともつかぬ表情が浮かび、それを隠すでもなく深く重たいため息を吐いた。

 やがて、彼は言葉を返すことなくカウンターの下に手を差し入れ、真鍮(しんちゅう)色の鈍い光を帯びた古い鍵を取り出す。

 鍵は無言のままカウンターに置かれた。乾いた木の音が一つ、場に落ちる。


「――兄さんは?」


 短く放たれた問いに、空気がわずかに緊張を帯びる。


「…………最近はいらしていません」


 間。遅れて発されたその応答は必要以上に平坦だった。


「そう」


 少年は、その言葉をただ一度繰り返すように呟く。

 マスターはそれきり口を閉ざし、顔を背ける。

 まるで何かを遮断するように、眼差しを壁の向こうへと逸らす仕草がかえって多くを物語っていた。

 しかし、少年は追求の言葉を口にはしなかった。

 問いの裏にある真実が、既に彼の中では答えとして立ち上がっていたのかもしれない。あるいは、言葉にしてしまえば余計な問題が発生すると感じたのかもしれない。

 それ以上の会話は交わされなかった。


 無言のまま鍵を受け取った少年は、足取りに迷いを見せず厨房の奥へと進んでいく。

 厨房のさらに奥、古ぼけた床板に埋もれるようにして、ひとつの鋼鉄の蓋がひっそりと存在していた。

 バーの外観にも似た古びた鉄の塊。

 数十年前に取り付けられて以来、誰もメンテナンスをしなかったことにより錆びつき、空気と時間に蝕まれていた。

 その放置された有様が、これがマスターにとってあまり触れたくない場所であることが何となくわかる。

 少年はそこにしゃがむと、手にした鍵を慎重に錆食われた鍵穴へ差し込んだ。

 内部の機構が金属同士の噛み合い、鉄蓋がわずかに浮いた。床と蓋との間にほんの紙一枚ほどの隙間が生まれる。


 ここからが大仕事だ。


 少年は両手を蓋の縁に掛け、静かに呼吸を整える。

 金属は固く、蓋そのものの質量も尋常ではない。金属の板は重量と錆の両方に根を張っていて、表面から伝わる冷たさは地下に充満する沈黙そのものだった。

 だが、開ける必要がある。

 少年は整った顔立ちに紅を差しながらも、それに気を留めることなく全身の力を指先へと集束させていく。

 腕、肩、背筋、太腿。全身の筋肉が連動し、わずかな隙間に楔を打ち込むように力を送り込んだ。


 そのとき――

 蓋が不意に内側から押し返されたかのような奇妙な抵抗を示す。

 蓋の向こうで何者かが持ち上げるように、今までビクともしなかった蓋が鈍く擦れる金属音を響かせながらゆっくりと持ち上がっていく。


「ありがとう……」


 誰に向けたとも知れぬ小さな呟きを残し、少年はそっと鋼鉄の蓋の向こうへと視線を落とす。

 地上の空気が揺れ、埃を巻き上げながら緩やかに地下へ流れ込んでいく。その空気自体が闇に閉ざされた地下の底に手招きされているようで、少年はそれを見るのではなく、感じ取るように理解する。

 蓋の下に現れたのは、ひたすらに続く木製の階段。

 果ての見えない闇に吸い込まれるような段々は、静謐にして異様な空間の気配を漂わせる。その冷気が皮膚をうっすらと粟立てさせた。


 ギシッ……ギギィッ………


 古びた木の階段が、少年の足取りに応じて軋むたび沈黙の闇に微かな呻きが走る。

 低く鳴る音に呼応するように、乾きかけた埃がふわりと舞い上がり、薄暗い空気の中に小さな渦を描く。

 吸い込めば何かしらの症状が出ることだろう。

 この場所は明らかに、飲食を営む店舗の地下とは思えない。どれだけ客の質が悪かろうと、もしこのありさまを知れば誰もが眉を顰めるに違いない。

 実際、今も壁を這う湿気に育まれたカビの臭いが鼻を刺し、少年の眉間には自然と皺が寄った。

 冷気に濁った暗がりは深く静まり返り、聞こえるのは足音とどこか遠くで自分自身が反響しているような微かな残響だけだった。

 やがて、闇の果てに淡い明かりが滲み出す。

 ぼんやりとした光の先に見えるのは、複数の入り口から流れ着いた通路の終着点――王都の地上に点在する幾つもの“扉”が、最終的にたどり着く交差点だった。

 煤けたランタンの橙色の灯りが、石造りの壁をじわじわと照らし輪郭の曖昧な影をいくつも浮かび上がらせる。

 ぶら下げられたランタンの下に整列する屈強な男たち。どれも髪の毛を失った頭皮は微かなランタンの光すらも反射させ、刻まれた古傷がそのまま経歴を語るかのように顔を走る。

 そのあまりにも無骨で警戒心を隠そうともしないその目つきには、顔で判断してはいけないと心掛けていても彼らが表の人間ではないと直感が語り掛けてくる。

 男たちは彼を見ると一様に顔を顰める。

 小さく舌打ちする者もいたかもしれない。

 あり得ないことだが、子供が迷い込んだ――そんな空気だ。

 しかし、タイミングを見計らったように一人の男が奥から静かに歩み寄ってきたことで彼らの態度は一変する。現れた男の姿を認めた瞬間、他の者たちは糸を引かれたように視線を逸らし始めたのだ。

 場の緊張は、質を変えて得体の知れない沈黙へと変わる――少年にとっては、あからさまな敵意の方がまだ扱いやすかった。


「お待ちしていました」

「…………どうも」


 東部訛りを感じさせるその男は、細く切れた瞼の隙間から黒玉が覗いている。笑っているようにも見えるその目であるが、温度は感じられなかった。

 その曖昧な眼差しには何が潜んでいるのか――それがわからない分だけ、少年はこの目を苦手としていた。

 男の名はシェイ。組織の頂点に君臨する我らがボス直属の部下の一人で、なかでも暗殺を専門とする“案内人”として知られている。


「随分早い到着でしたね?」

「……時間は無駄にできませんから」

「まったく、その通りです。ボスも、貴方と会うために今朝はいつもより早くお目覚めでしたよ」


 挨拶の最中、男はいつもどおり細く神経質そうな腕を差し出し、形式的な握手を求めてきた。

 礼儀正しく冷静沈着――そう形容されることの多い彼だが、その態度すら仕事の延長に過ぎない。

 こちらが形式どおりに握手に応じ、適切な礼儀をもって接すれば問題なく事態は円滑に進む。だが、一度(ひとたび)無礼な態度を見せようものなら、それがどれほど些細なモノであってもこの組織に属する者なら結末を想像するまでもなく明白であった。

 シェイは単なる案内人ではない。

 これから対面するボスの元へたどり着くために立ちはだかる『門番』でもあった。

 たとえボスに招待を受けた者であろうと特別扱いを受けることはなく、どれだけ腕が立っても、舌が回っても、それだけでは扉は開かないのだ。

 今回もひとつひとつの動作に細心の注意を払いながら、彼の期待を裏切らぬよう振る舞った。

 やがて、シェイの細い目の奥に微かな笑みが浮かぶ。


「さて、ボスがお待ちです」


 僕は一度を除いて失敗したことがない。

 長い廊下を歩き続け案内された場所は、不自然なくらい静かな扉の前だった。

 ソレは、組織の頂点に君臨する者の部屋とは到底思えない場所である。

 扉を開けるとやはり簡素であった。

 壁はくすんだ灰色で統一され、装飾という装飾は一切なく、ただ無機質な冷たさを漂わせている。

 長年眠っていた倉庫を思わせるシンプルな部屋の中央には、場違いとも言える純白のテーブルクロスが敷かれた丸い木製のテーブルが一つ。しかし、そのテーブルは部屋の中で唯一の鮮やかな存在感を放っていた。

 皺一つない手入れが行き届いた清廉な白のクロスを見れば、この部屋の主が何に価値を置き、或いは何にしか関心を払わないのか――

 おおよその輪郭が浮かび上がってくる。


「どうぞこちらへ」


 案内されるがままに少年は椅子に腰を落ち着け、静かに男を待つ。

 やがて――奥の扉が音もなく開かれた。

 重たげに杖を突きながら現れたのは、年老いた男。

 手元の杖に全体重を預け、一歩ごとに床を確かめるような歩みは病を患った者のソレにも似ていたが、どこか――不自然なまでに計算された遅さ(・・)でもあった。

 着ているのは、古風ながらも無駄のない仕立てのコート。深い墨色に近いその生地には、丁寧に刺繍された薔薇の紋章が浮かんでいる。

 ソレは、この地下組織を一から築き上げた者の証。

 彼の自己紹介に言葉は不要であった。


「無事……夜が明けたようだな」


 椅子に腰を下ろしながら掠れた声の主が言葉を並べる。

 髪は丁寧に撫でつけられ、衣服には一分(いちぶ)の乱れもない。だが、その整った身なりで隠しきれぬ老いの痕跡――深く刻まれた皺、そして声の質感が、否応なく年月の重みを思い知らせてくる。

 けれど、それは決して弱さではなかった。

 むしろその皺一つ、声の揺らぎ一つにすら、長い時を生き抜いた者にしか纏えない風格が宿っている。

 歴戦の盾が剣がその傷跡ごと美しいように、彼の老いもまた一種の美としてそこにあった。


「今度からは事前に相談をしてほしいモノだね。おかげで特務機関が絡んでいたことに気づくのが遅れたよ」

「ソレは悪かったな。だが――お前は、そんな間抜けではないだろう?」


 ゆったりと深く腰掛け座る男は、冗談を交えながらもシェイが用意した葉巻の先端を切り取り形を整えている。ソレは、男が少年に対し信頼(・・)という名の温度を示した数少ない仕草の一つであった。

 やがて葉巻の端が僅かに赤く灯る。

 その火は地下の暗闇を照らす一つの灯火だ。

 口内を満たした濁った毒煙を吐き出される。それは目に染みるほどの毒を含みながらも、男の纏う威圧感に説得力を添えていた。

 男はその煙の向こう側で、束ねられた資料に視線を通す。

 沈黙の中に、幾度もの判断が巡り――やがて、思考が彼の中に静かに沈んでいったのが分かった。


 男は暫くの沈黙の後、再び言葉を並べる。


「最近は若い連中が元気で頼もしい……おかげで私は、老いというやつを否応なく感じさせられる。こうして歩くのも億劫になれば、なおさらだ」


 諦めではなく、受容に近い――自虐で笑みを浮かべると短く指を鳴らす。

 呼ばれたシェイが灰皿を差し出すと、男は丁寧に吸い始めたばかりの葉巻の火を押し消した。

 煙の名残が空気に溶けていく頃には、もう彼の顔に先ほどまでの柔和(にゅうわ)さは残っていない。


「――さて、話をしようか」


 そこにあるのは、仲介人としての顔――冗談も、慈しみも、そこにはない。

 全盛期と変わらぬ最も厄介な男の顔だ。


「お前が昨晩あの世に送った人間だが、依頼した時に言ったとおり裏切り者だ。特務機関とのつながりは不明だ……しかし、政府とは何かしらの関係を持っていたのだろう」

「――その心は?」

「お前が回収した古文書が関係している……さて、渡してもらおうか?」


 男はあの古い書物を差し出すよう命じる。

 その一言に呼応するようにシェイの目つきも変わった。

 逆らえばどうなるかは予測できる――ここは、大人しく従うのが賢い選択だ。

 僕はジャケットの内側にしまっていた古い書物を取り出す。そして、その表紙を手のひらで丁寧に埃を払うようにしてから、テーブルの上へと置く。


「シグマ、お前はその中身は読んだのか?」

「好奇心が勝って……」

「その好奇心――寿命を縮めなければいいな」


 僕は、昨晩の男から押収した古い書物に視線を落とす。

 表紙は革でできているようだが年季が入っていて、かつては何らかの題名が刻まれていたであろう位置も何が書かれているかさえ理解できなくなっていた。

 恐る恐る表紙を捲ってみても、まるで時間そのものが刻まれているかのように所々のページが無惨に破れ、穴が空き、保存状態の悪さが目に見える形で残されている。

 乾燥しきった紙は触れる指先に崩壊の感触だけを伝えてくる。

 記された文字は、象形文字と暗号の中間のようで一見意味をなさないような記号として羅列されていた。しかし、その無意味さこそが逆に不気味な意図を孕んでいるようで、言い知れぬ不安が背筋を這うのは事実だ。


「いや、まったく。表紙から読めるような文字じゃない……始めて見る言語だ。言語というより、記号の羅列だ」

「言語とは本来、記号に意味を持たせたモノだ。その認識は(あなが)ち間違ってはいないな」


 と、老いた男は僅かに口元を緩めた。老いというのはその言葉に説得力を持たせ、(あたか)も真理を唱えているように錯覚させてくる。


「で、これはなんだ?」


 問いかけは自然なモノだ。

 昨晩の男はこれを持って逃走していて、ボスがこれを望んでいるなら何かしら――それも、きっとただの情報や価値をも超えた重要な意味がそこにある。

 そう思っても当然だった。

 しかし、ボスはそれ以上のことは語るつもりはないようだ。

 その沈黙こそが最大の問いに対する答えであるとでも言うように、彼の口は堅く閉ざされていた。


「よくやった。報酬は――」

「いつものとおりに」

「……偉くなったものだな?」

「働きに対する正当な対価だ。これは当然の権利だろう?」


 詮索を避けるべきなのだろう。深入りして今度は自分が狙われる立場になっては、せっかく築き上げた信頼も意味がなくなってしまう。

 幸い、その選択は間違っていなかったようだ。ボスの表情は波風立たず、報酬も滞りなく用意される。

 彼が指を鳴らすだけで部屋に黒服の男たちが次々と現れ、無骨なアタッシュケースを重たそうに次々と積み重ねていく。

 ソレはあっという間に小さな山を作り、蝋燭の揺れる明かりの中で鈍くソレは光っていた。

 金属製の留め金がガチリと外され、いくつかの蓋が開かれる――静謐な空間でそれは異様な儀式のようである。

 中に納められていたのは、黄金に輝く金塊の数々。僅かな灯りさえも逃がさず捉え、表面を滑らかに反射させるその姿はただの塊に過ぎないはずなのに、得体の知れない存在感を放っていた。

 だが、その圧倒的な存在感は少年に不快感を抱かせるには十分だった。

 彼にとって目の前に並べられた金塊は報酬というよりも、ただの『証拠』に過ぎなかった。

 彼が仕事を引き受け、そして完遂したという事実を裏付ける重く無機質な物証――それ以上でも、それ以下でもない。

 故に、金塊を見つめるその視線はどこか冷めていて、その場に持ってきた黒服たちとは異なる反応であった。


「これで満足か?」

「まあ……」


 一方で、この光景を他の人間が見たらどう思うのだろうか。

 強面の黒服たちは、並べられた金塊を一瞥するたびにどこか高揚した気配を隠しきれていない。無表情を装っていても、僅かな視線の動きや呼吸の深まりが胸の内の熱を物語っている。

 少年にとっては目の前の光はただの反射に過ぎず、そこに夢や欲望は宿らない。けれど、ソレが他者にとっては命をすら懸けるに値する財宝であり、実際にコレを巡って過去には戦争すら起きているのだからその考えは決して間違ってはいないのだろう。

 それでも、どうしても納得することはできなかった。


「これがお前の価値観を変えるモノかどうか、見ものだな」

「ただの重たい金属、原子の塊だ。こんなモノの為に必死になるヤツらの気が知れないよ」


 少年は冷ややかな目で金塊を一瞥し、その言葉に軽く肩をすくめた。


「面白いな。だが、その重み(・・)が世の中を動かしていることは確かだ。シグマ、以前からお前に聞きたかったがなぜこの形を望む……紙幣の方が遥かに楽であるというのに」

「そいつがどこに行くかは、アンタがよく知っているはずだ。価値のつけられた紙切れよりもその金属の方が喜ばれる……ただ、ソレだけだよ」


 少年は無表情で答えた。


「欲のないヤツだ……偽善で取り繕ったところでお前の汚れは一生落ちることはないというのに」

「……お互い様だ」


 僕は黒服に住所の書かれた紙きれを渡し、届けるよう指示する。

 今すぐにでも、その不愉快な光を遠ざけたかった。

 もし、彼らのうち誰かが金塊を一つ盗もうと企んだとしても、少年にとってソレはどうでもいいことだった。

 自らの手を離れた金塊に微塵も興味も示さない姿を見て、再びボスは溜息をこぼす。まるで「欲のないヤツだ」と、嘆くように。



 金塊が消え、再び部屋の中には静寂が満ちていた。

 自分と目の前に腰かける老人、そしてその付き人。今となっては慣れた光景であるが、この静謐な空間に漂う特有の緊張感にはどこか異質な感覚を覚える。

 組織の中で、この部屋の空気を吸うことを許された人間は限られていた。シェイに認められた特別な者しかここに居座ることはできない。

 だからこそ、他者から見てこの光景はどう思うのか気になった。

 もし、自分が特別な存在であり羨ましいと思うならぜひ、僕はその役目を喜んで譲ってあげたいと思う。

 その信頼こそ自分を縛り付ける見えない鎖(・・・・・)であり、僕にとっては『制限』が何よりも苦痛であった。


「僕を帰してくれないってことは、まだ何かあるってことでいいの?」


 こんな軽薄な態度を取ることが許されるのも、実力を認められてのことだ。しかし、それ故にのしかかる期待と重圧は一般人には到底耐えられないモノである。

 やがて、ボスは静かに口を開く。


「シグマ……お前はよく働いている。ただ、一つだけ気になることがある。お前、何か私に隠し事をしているのではないか?」


 刹那、部屋を包み込んでいた空気はまるで凍りついたかのように一変した。

 蝋燭の光が、テーブルを挟んで向かい合う二人の表情を微かに照らす。

 少年――いや、シグマはその言葉に、まるで釘付けになったかのように動きを止めた。

 先ほどまで浮かべていた軽薄でどこか無気力な表情は、たった一言で霧散(むさん)する。その代わりに現れたのは鋭い目つきと冷徹な面持ち、まるで別人の――昨晩逃げる男が、最期に見たのと同じ顔がそこにはあった。


「その言葉……どういう意味?」


 シグマの声は一見落ち着いていたが、耳を澄ませば明らかに低くなっていた。


「なに……とあるクライアントが、お前を探っているのだよ」

「探っている?」

「お前は昔から、安い報酬で確実に仕事をおこなう。そのおかげでケチな政治屋どもに人気があった……だからこそなのか、お前を囲いこもうとする連中も少なくない。しかし、今回は少し違う。よりにもよって、最近になって地上に這い出てきたモグラ(・・・)どもがお前に目をつけた」

「モグラは鼻が利く」


 シグマは、静かに男の言葉を訂正する。


「気に食わないが、ヤツらも金の使い方を知っていれば我々の大事な客だ」

「仕事で必要なのは信頼だろ?僕がいつ、クライアントやアンタの信頼を裏切った。――報酬分の仕事は、きっちりこなしているつもりだ」



――どこで何がバレた?

   どこで自分に繋がる証拠を残した?


 男の言葉が耳に届いた瞬間から、シグマの脳内は凄まじい速度で回転を始めていた。平静を装いながらも、その瞬間の彼の思考は誰よりも速く、正確に過去を遡り始める。

 メモリの解析――それは彼自身が自嘲気味にそう名付けた。

 もちろん本物の機械的な分析・演算能力など持ち合わせてはいないが、これまで積み重ねてきた経験と、磨き抜かれた直観が総動員して今日に至るまでの断片的な記憶を一本の意図として手繰(たぐ)っていく。

 男の言う『隠し事』そして『モグラ』に繋がる何かを必死に探し続けていた。

 取引。粛清。搬送。煙草の売買、ここ数ヶ月の仕事を一つひとつ思い返す。小さなモノも、大きなモノも必ず報告をおこない、記録も残してきたはずだ。

 記憶に抜け落ちはない――はずだ。


 「モグラ……?」


 その言葉にだけ、どこか引っかかる感覚があった。


 それどころか――

   僕はヤツらから、仕事を受けてなどいない。


 この一点だけは、揺らぐことはなかった。

 だが、それゆえに疑念は深まる。

 ならばなぜ、男はそんな言葉を口にしたのか?

 彼が虚勢を張る必要などない。いや、むしろあの性格からして何かしらの根拠がなければ、決してこのような話は持ち出さない。

 やはり、何か見逃した事実があるのではないか?

 思い至るごとに脳裏に霞がかかる。


 まさか老いか?

  いや、罠なのか?


 やがて、シグマは思考という名の深い迷路へ踏み込んでいく。

 表情一つ変えずに座り続けながら、その瞳の奥では幾つも仮説を組み立てては崩し、問い、検証し、否定し、また新たな仮説を立てる――その反復に終わりは見えない。

 男の視線はそんな少年をまるで見透かすように捉えていた。

 その目には確信か、それとも単なる挑発か。

 暗闇と、この刹那の時間だけでその真意を読み取るのは至難だった。

 そして時間が止まったように感じる静寂の中、シグマは心の奥底で問い続ける。


「――と、まあ……鎌を掛けてみたが、何も埃は出なかったようだな」


 男が軽く肩をすくめ、残念そうに呟く。その声音には、まるで反応を楽しむかのような薄笑いが滲んでいる。

 もし――男が雇い主でなければ。

 もし――シェイがこの場に居なければ。

 僕は間違いなく引き金を引いていた。

 腰に携帯していたホルスターに手を添えていたことに気がつき、そっと銃から指を離しながら深呼吸で胸の奥で燻る怒りを押し殺した。

 決して表情に動揺を見せることなく、淡々と男の言葉を受け流した。

 ただ、内心では明らかになった事実に安堵する自分と、相手の挑発に少なからず苛立つ自分が交錯していた。


「へぇ……試してたんだ」

「お前がもし、モグラと繋がっているとわかれば――即刻、始末するつもりであった」


 それならば、と僕も当然準備はしていた。

 最初に沈めるのはシェイ。次に――アンタだ。

 しかし、今となっては無用な心配だ。こちらも、ひとつ学ばせてもらった。


「昨晩のことといい最近、組織内部だけでなくハルベイドでも怪しい動きが度々確認されている。恐らく特務機関だけが関わっているとは限らないようでな……どこの組織も内側から破壊されないか疑心暗鬼になっているようだ」

「だからってアンタがソレに倣う必要はないだろ」

「常に警戒することは重要だ。ましてや、私はあのハルベイドの実権を握っているのだからなぁ……敵は多く、気を抜いたとき喉元にナイフを突き立てられるのは目に見えている」


 手にしたグラスを静かに傾ける。

 注がれた淡く紅い液体が、硝子の中で微かに揺れ――やがてゆっくりと喉の奥へと流れ消えていく。


「私はお前の行動を信じて一つ依頼を受けてきた」


 そう低い声が部屋に響くと男は、落ち着いた仕草で胸ポケットに手を差し入れ、そこから取り出した一枚の写真を指先でつまみ無言のままテーブルの上を滑らせる。

 目の前で止まった写真に写り込むのは長い白髪と赤い瞳の少女——年齢は12歳くらいだろうか。幼さの残る顔立ちには、どこか浮世離れした印象がある。

 華奢な体躯、細い首、小さな肩。ソレらは見る者に儚さを印象付け、危うさすら漂わせる。

 写真の背景には、レンガ造りの壁と錆びついた金網フェンスが映り込んでいた。

 アングルと少女の視線からして、ソレが監視カメラの映像であることはすぐに察せられた。


――大方、彼女もどこかの施設から逃げ出したのだろう。


「人探し?」

「鋭くて助かるよ……とある政治家からの依頼でね。しかも指名だ」


 男の提示してきた報酬は――8200億ノーラ。

 大陸では邸宅を建て、駐車場には高級車を数台を並べ、それでも手元におつりが残るほどの金額だ。学生は当然、真面目に働く社会人ですら10年頑張っても手に入らない大金だ。

 まさに桁違いの『富』である。

 だが、シグマはその数字を聞いた瞬間、逆に警戒を強めた。

 人探しに釣り合わない金額――額が額なだけに、裏があると疑うには十分すぎる理由があった。


「人探しにしては――法外だな」

「それだけ払う必要のある仕事ということだ」

「依頼の詳細は?」

「彼女の保護」

「……それだけ?居場所の見当くらいは?」

「外見は見ただろう」


 それだけでどうやって依頼を受ければいいのだろうか。

 詳細が不明で、法外な報酬に不審な点が多すぎて二つ返事で「はい、わかりました」と返答することはできない。

 しかし、目の前に居る男は僕の雇い主――つまり、彼の命令は絶対で「やれ」と言われればやらなければいけないのだ。全ての指導権は彼が握っていて、僕らに与えられているのは単純な主従関係である。


「なんで僕じゃなければいけなかったの?他にも優秀なヤツらはいるじゃないか」

「勿論、他のナンバーズ(・・・・・)を薦めたさ……しかし、依頼主はお前を指名した」

「熱心なファンだこと……」

「期待しているぞ」


 男の低く響く声が脳内で何度も反響する。その言葉をそのまま受け取ってバーを出てきたが、どこかで拒否するタイミングがあったかもしれない。

 いや、やはり拒否するという選択肢は初めからなかった。ソレがどんなに曖昧で不確かな依頼であっても、命令を受けてしまったからには何とかやり切らなければいけない。

 歩みを止め写真にもう一度視線を向ける。

 白い髪が風に揺れ、儚げな印象を与えながらも、さっきは感じられなかったどこか強い意志を宿した少女の深紅の瞳がその写真からこちらを見つめ返していた。

 少年はその視線をジッと受け止め、その姿を脳内に焼きつけるように凝視した。


「守秘義務……か」


 小さく呟いかれたその言葉とともに、ポケットから安価なコンビニのライターを取り出す。

 ジッという軽い音とともに小さな炎が立ち上がり、写真の端にソレをかざすとじりじりと黒く焦げていく。

 次第に焼け落ちていく光景を彼は無表情で見つめ、やがて完全に燃え尽きると灰となった写真を靴先で払いのける。

 誰にも知られることはない。自分が関わった証拠を消し去るのはいつものことであった。少年にとってそれは依頼を完遂するための基本的な手順であり、感情を伴わないルーティン作業だ。

 人気のない路地から出る前に彼はジャケットを脱ぎ、裏返しにして着直す。組織のワッペンを隠すための動作。

 これもまた、何度も繰り返してきた習慣だった。


――少女を探し、保護する。


 ソレが彼に課せられた唯一の明確な目標。

 どこにいるのかも、どう探せばいいのかもわからない。だが、そんなことはどうでも良かった。

 これまで数々の依頼をこなしてきた彼にとって、不確定要素の多い仕事は珍しいものではない。

 ただ探せばいい。探し続ければ、きっとどこかで見つかるはずだ。

 その過程に意味はない。結果がすべてである。


「案外、近くにいるかもしれないな……」


 少年は独り言を漏らす。しかし、自身を励ますように呟いた言葉も、人々の喧騒の中であっという間に掻き消され、跡形もなく消えていった。

 夕刻の街は活気に満ち、店先から漂う香ばしい匂いや、人々の笑い声、時折聞こえる怒声や車の慌ただしいクラクションが入り混じる。雑然としているが、どこか不思議と温かみを感じさせる空間。

 ふと、自分の足元に視線を落とす。

 幼い頃、自分がこんな光の当たる世界を歩くなど、想像すらできなかった。

 狭く暗い路地裏の一角で過ごした日々、誰も手を差し伸べてはくれなかった世界。親の愛など遠い幻想であり、学校という場所さえ彼にとっては異世界の物語のようなものだった。

 だが、今こうして人のいる大通りを歩き、周囲のざわめきを聞きながら、自分もまたこの街の一部であると感じる瞬間が訪れること。

 それは紛れもなく奇跡であり、幸せな瞬間であった。


「わかってるよ……僕らは少しずつ変わってる。社会と一緒に成長していかなきゃなんだろ?」


 少年は呟いた。

 けれど、それは裏の世界に生きる自分を消し去る言葉にはならない。

 表の光と裏の闇――その狭間に立ち続ける自分自身の存在を、少年は冷静に受け止めていた。

 やがて路地を抜けたその背中は、振り返ることなく人々が行き交う雑踏に紛れ、静かに姿を消した。

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― 新着の感想 ―
名作の予感…! 長編だと嬉しいぜ
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