第10話 ハルベイド
返り血を浴びた少年は、その顔に点々と赤い染みを浮かべながら静かに足を進めた。
無音の足取りはまるで存在そのものを消し去るかのようで、姿を見なければ彼がそこにいることなど気づけないほどだった。
彼がたどり着いたのはゴミ回収ボックス。薄暗い闇の中で手を伸ばし、ゆっくりとその蓋を開けるとその中では小さく収まる様にゴミの中で身を埋めた少女の姿があった。
どこか不服そうな表情で何かを訴えかけるような表情で赤く染まった瞳が静かに見つめてくる。
「これで僕のことを信頼してくれる?」
少年の言葉はまるで確認を求めるようだったが、その奥には何かを示す自信の色が含まれていた。戦場で血を浴びながらも、どこか落ち着いたその様子が彼の並々ならぬ冷静さを物語っていた。
「勘がいいんだな……私を見つけた時といい」
その言葉でソラの脳裏にイプシロンの言葉や態度が反射的に蘇る。
過去の記憶が鮮明にリフレインし、胸の奥に微かな違和感を生んだ。
「そうだ……僕は勘がいい。だいたいの悪いことってのは当たるんだ」
イプシロンが向けてきた視線——彼女の価値を見定めるような冷たい眼差し。
外見だけを値踏みしているように思えていたその視線が、最後には珍しく興味深げな色合いへと変化していったことを今になって気がついた。
その変化に隠された思惑は何なのか、彼女の何を見ていたのか、ソレを知ることを今はできない。
だが、その違和感だけは確かにソラの中に刻み込まれていた。
確かに僕らはすぐに会えるのかもしれないな。
僕は日の出を待つことなく少女を連れて歩き始めた。
日常生活で一番利用していた一つの拠点を失ったのは痛手であるが、これで自分が次にどこへ隠れるか相手に悟られることはない。
誰から雇われた者たちであるのかは、まだハッキリはしていないが僕の拠点を知っている人間は限られてくる。
この際、『誰』ではなく『なぜ』という方が重要であった。
なぜ彼女が追われるのか、なぜ僕らを襲ったのか……確かに男の言うとおりだ。
世界の歯車が少しずつ全盛期の回転を取り戻しつつあった。
深夜、家を失い歩き続けたソラたちは、太陽が昇ると交通機関を乗り換え繰り返し到着した場所はハルベイドであった。
エルフィノたちによって作られた地区——木を隠すなら森の中であるようにエルフィノが住みつく地区では少女は目立たたず周囲に違和感を与えることはない。エルフィノの存在が珍しい他の街と違い、この場所では同族の中に溶け込むことができるのだ。
しかし、ソレだけがここを選んだ理由ではなかった。
ハルベイドはエルフィノによる独立宣言後、麻痺した内政内需に付け入り多くの反社会勢力が住み着く街として悪名高い。そして、ソラの所属する薔薇の傭兵はこの地区の実権を握っていて、その環境故に普通の人々にとっては危険極まりない場所だが逆に彼にとっては最も安全な場所であるとも言えた。
周囲に危険が満ちていることでかえって追跡者が手出ししづらい隠れ場所になるという皮肉な現実。敵意を孕む目線がそこかしこに飛び交う中では、敢えてその中に身を潜めることでソラと少女の存在は他の目立つ標的に紛れ込むことができる。
ハルベイド、それは最も危険な場所でありながら最良の逃げ場であった。
入れ替わったように眠い目を擦り僕の傍を歩く少女の人格はそこがどこか分からない様子。それどころかなぜ僕に手を引かれここに来たのか理解していない。
目を丸くして繋がれた手を確認し、再び僕の顔を確認すると気まずそうに地面に視線を向けた。
「彼女の方は?」
「…………寝ています」
寝ると変わるのか。
僕の方はなんとなく少女のことが分かり始めた。
周囲を覆うハルベイドの荒廃した街並み――ひび割れた建物の壁や路地に転がるガラクタ、そして陰鬱な雰囲気に紛れ向けられる怪しい視線など何もかもが異様で普通の少女には到底なじまない世界であった。ソレはその手を引く彼の方にも当てられるモノであったが、依頼の度にここへ来ていれば嫌でも慣れてしまうモノだ。
彼女もまた怯える様子はなく、むしろ興味深そうに繁栄した都市とは違った世界を観察している。
ソラは純粋に少女の適応力の高さに驚いていた。
大陸の法が適用されず警察が存在しない土地は、そこに住む人間の割合がただエルフィノが多いだけですべてが大陸の他の地区と違うというわけではなかった。
スリや強盗といった日常的な犯罪が横行しているものの、大規模な犯罪や抗争はほとんど発生しない。これは街を支配する薔薇の傭兵をはじめとする複数の組織がそれぞれの縄張りを巧みに維持し合い、互いにバランスを保ちながらけん制し合っているためだ。
この絶妙な均衡が一見すると平和に見える状態をもたらしていた。
しかし、その平和は決して穏やかではない。特にストリートギャングや半グレといった下層の者たちが街の治安において最も厄介な存在だ。
少女を連れ歩いているだけでも聞こえてくる、薄暗い路地からの恐喝するような怒号。
彼らは組織のように洗練されたルールを持たず、行動が予測しづらい。さらに彼らが厄介な点は自分の地位を知らしめるために、自分より下であると判断した者に対しては容赦ない行動をとることだ。
街で怖い目に遭わなければ、自分がどの位置にいるのか誰に従うべきなのかを理解できない者も多い。そのため、一般人などの外部から訪れた者たちはこうしたチンピラの無軌道な行為に巻き込まれることが少なくない。
地区全体を支配する組織の影響力がそれぞれ強いため大きな抗争は滅多に起きないものの、こうした無秩序な連中の存在がハルベイドの混沌を象徴していた。
しかし、これがこの街に住む者たちにとっての日常である。
スナックや背の低い雑居ビルがひしめく露店街。
行き交う人々のざわめきや、建ち並ぶ店のネオンがちらつく中、目立たない居酒屋の脇にひっそりと続く薄暗い階段が現れる。手すりは古びて錆が浮き、所々塗装がはげ落ちていた。
電飾看板には『エルモア』と書かれているが、文字が剥げかけ電飾もチカチカと頼りない光を放つだけだった。
店の扉を開けると煙草と安酒の匂いが混じった重たい空気が鼻をつく。
「ばあさん帰ったぞ。鍵貸してくれ」
店内は薄暗くカウンター越しに立つ店主のおばさんが一目でわかる程、機嫌悪そうな顔をしている。
彼女はソラの姿を認めると眉間に深い皺を寄せながら声を荒げた。
「こんのぉガキッ……どの面下げて帰ってきてんだ!うちの客を追い払うようなことはやめておくれよ!」
「客なんて誰もいないだろ。昼間から酔っ払いが居座ってるぐらいじゃないか」
「それがアタシにとっては客なのよ!アンタにそう見えなくたってね!それにアンタが二階の扉を閉めるたびに店の床を汚すのもいい加減してくれよ!もっと優しく静かに閉められないのかい?」
「それは店の管理が悪いからだろ。こっちも不衛生で建付けが悪いところを我慢してるんだからお互い様で解決しようや」
ソラとおばさん店主はこのような調子で口論するのが常だった。
彼は特に嫌味を言うわけでもなく、ただ事実を述べるだけなのだがソレが彼女の癇に障るようだった。
「そうだ、アンタそろそろ金払いな!」
「ああ?」と、ソラは無表情で首をかしげる。
「いない間だって契約は続いてんだからね!タダで部屋を貸しているわけじゃないのよ!」
「何言ってんだよ?ばあさんがギャンブルに溶かしたって言うから前回もその前も多く払ってんだろ」
「……なッ!誰がそんなこと言ったてのよ!」
「そこの酔っ払いが――」
ばあさんは言葉を最後まで聞く前に僕が指差したカウンターで眠る客の胸ぐらを掴み、狂暴に怒鳴り始めた。
これがこの街の日常、これがこの街に住まう人間だ。
外の街とは違う強さがそれぞれに宿っているようにも感じられる。
「なぁ鍵は?」
「勝手に持っていきな!」
ソラは店主から鍵を受け取り居酒屋脇の階段を上がるとその先にある二階の狭い部屋へと向かった。
この部屋はハルベイドで仕事をする際に利用するいくつかの拠点の一つだ。
錆びた金具が鈍い音をたてて扉を押し開けた瞬間、長らく閉ざされていた空気が淀んだ埃とともに押し寄せてくる。
部屋の中は薄暗く、灯りは天井から吊るされた小さな電球のみの光で床には埃が積もり隅には誰かが放置した古びた新聞紙や潰れた空き缶が散乱していた。
壁は湿気とカビで黒ずみ、所々に不気味なシミが広がっている。
家具らしいものは簡素なテーブルと座椅子だけでその表面も汚れと傷で満ちていた。
「は、はは……」
吹き飛ばしたアパートより汚い部屋に少女と僕の顔が引きつる。
せめて空気と外の光を部屋に取り込もうと固く閉ざされた建付けの悪い窓を力尽くでこじ開けた。窓の外には隣の建物の壁がすぐ目の前に迫り、手を伸ばせば触れるられるほどの距離しかない。その隙間には雨水が溜まり、腐敗したゴミが悪臭を漂わせ、窓を開けたことで僅かに部屋へ差し込む外光もその薄汚れた光景を更に強調しているようだった。
「まあ、なんだ……汚いけど生活できないわけじゃない」
「そう……ですね」
少女は小さく頷き肯定する。
彼女を座椅子に座らせるとやがて、沈黙が空間を支配した。手持ち無沙汰、控えめに周囲を観察する少女からそんな気まずさが伝わってくる。
普通の子供よりどこか大人びた態度の裏には彼女なりの気遣いがるのだろう。
「暇かい……?」
ソラは寝っ転がりながら天井のシミを数えながら彼女に問うが、少女は何も言わずに首を小さく振った。
気まずい空気を打破しようと、ソラは立ち上がり部屋の襖を開けると真空パックの山からいくつか抜き取った。ソレは買い集めていたシャグやフィルターの入った袋である。
埃だらけのテーブルにソレらを広げると手本を見せる様に一連の作業を始めた。
葉を丁寧にほぐして巻紙に乗せて器用に指先で巻き上げる。その動作をじっと見つめていた少女の目には初めて見る光景への好奇心が滲み出ていた。
「興味ある?」
少女は小さく頷いた。
「よし、やってみな」
紙と葉を渡すと少女は真剣な表情で見様見真似を始める。指先が迷いなく動く様子にソラは少し驚いたように眉を上げた。
縫合のときといい、手先の器用さはやはりこの体の持ち主である彼女由来のモノなのだろう。
「キミ、名前はなんていうの……キミ自身のだよ」
「…………思い、出せない」
「……そうか」
再び煙草を巻く二人の間に静寂が生まれた。思い出せないのなら仕方ない、思い出せないということは名前が彼女にあるということなのだ。僕はそうやって勝手に推測をおこない彼女の過去を探るも情報が少なすぎて何も見えてこなかった。
「僕は自分の名前を知る前に親と離れたから、キミと同じく自分の名前を知らなかったんだ」
「じゃあ名前を思い出せたの?」
「……ソラだよ。恩人が付けてくれた名前で一番しっくりきて、気に入ってる。もしかしたら両親も同じ名前を付けてくれていたのかもしれないな」
「じゃあ……私にも名前あるのかな」
「あるさ、きっと」
それからも黙々と作業は続き、少女の集中力によって情報収集用の手巻煙草のストックが増え続ける。
やがて思惑が功を奏したのか、彼女を追う者たちの襲撃はないまま平穏な日々が数日続いた。その間にソラは少しずつ彼女ら二人の人格の違いを理解し、見分けられるようになっていった。
同じ身体に宿る二人の人格、大人びた少女とあどけなさを残したもう一人。彼女たちと時間を共有するうちに、互いの距離は自然と縮まっていった。
警戒心が薄れたのか、彼女らはソラに対して徐々に心を開き、会話も滑らかに進むようになっていった。
そんなある夜、作業台に向かってガラクタを弄っていたソラに大人びた人格が声をかけた。
「お前……いつ寝ているんだ?」
彼女は目を覚ますたびに、何かに没頭しているソラの姿を目にしていた。
静まり返った薄暗い部屋の中で彼の指先が微妙な調整を続ける様子が彼女にはどこか奇妙に映ったらしい。
ソラは手を止めることなく、軽く肩をすくめて答えた。
「寝る必要がある時に寝るだけさ。今はやるべきことがある……だからその時じゃないってだけ」
そんな回答に少女は小さく眉をひそめた。
「……効率が悪いだろう。休むときは休まないと体がもたない」
「余計なお世話だ」
そう言いつつもソラはどこか優しげな表情を浮かべる。その態度に彼女もソレ以上口を挟むのをやめ、ただ静かに彼の横顔を眺めていた。
光を避けるように灯された薄暗い部屋で淡々と作業を続けるソラ。その横顔にはただ気まぐれでは済まされない何か強い意志が感じられた。
そして、しばらくしてソラは再び言葉を続ける。
「僕、実は寝ることが怖いんだ」
突然の告白に少女は目を丸くする。
「どうして?」
「スピリチュアルみたいだけど……無意識のうちに僕は心の奥底に精神がダイブするみたいなんだ。ソレで思い出したくないモノを思い出したりするんだよ」
「例えば」
「怖い記憶だよ。とある女の子に拒絶された過去とかね……」
その言葉を聞いて少女はふっと笑った。
「なんだ色恋話のトラウマか。心配して損した」
彼女の軽い反応にソラは苦笑いを浮かべたが、何も言い返さなかった。ただ、薄暗い部屋の片隅で静かにガラクタを弄る作業に戻った。
しかし、その横顔には微かに影が差している。
彼にとって、ソレは単なる「色恋話」ではないことは明らかであった。そんな様子を見て不憫に思った少女もまた自分のことを語る。
「私はどこで生まれたかも、なんて名前だったかも思い出せない」
本来なら自らのことを知らない、自身が何者であって何のために生きているのか不明であれば不安に思うこともあるだろう。しかし、その声には温かみが感じられた。そして、彼女は続ける。
「ただ、一つだけ覚えていることがある。この体の持ち主……彼女が毎日のように私に会いに来てくれていたこと私はソレだけを覚えていればいいと思っている。ソレだけが私にとって一番大事なことだから」
ソラは彼女の言葉をじっと聞いていた。彼女が語る「覚えていること」というのは、名前や出自のような通常の人間が大事にする情報とは全く異なっていたのだ。
「……名前よりも、生まれよりも、何よりもか?」
ソラは小さく問いかけると、少女はゆっくりと頷いた。
「そう。彼女が私に会いに来てくれていた。それだけで十分。ソレが私にとってすべてなんだ……だから私は彼女と一緒に逃げている」
ようやく彼女の思惑がわかってきた。
何かを作動させるための鍵であると自分を名乗っていたが、本当のところは少女と生き延びることが目的なのだろう。
なら、依頼主と彼女らは一体どういう関係なんだろうか。