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シグマホワイト  作者: 東雲 静葉(きゃきゃお)
第一章
1/11

第1話 はじまり

「今日も月は綺麗だね…………キミもそう思うだろ?」


 少年はそっと指輪を掲げ、夜空に浮かぶ光を透かす。両親の形見――今は小さな銀の輪に宿る面影を探すように、重なり合う月の輪郭を眺めながら、ぽつりと問いかけた。

 けれど、返ってくる声はどこにもない。それが当然だとわかっていても、静かな寂しさがあった。


 夜の帳が世界を覆うと、街は無数の色彩で織られた絨毯のように、視界を鮮やかに染め上げていた。

 高層ビル群は天へ向かって深い闇を突き破り、ネオンの(まばゆ)い光が地上を染め上げる。ビルの谷間に蠢く人々の影と、騒々しい車のライトが交錯(こうさく)し、都市全体が絶え間なく脈動しているかのようだった。

 その全景を見下ろす鉄塔の上で、少年は吹き抜ける風に身を委ねながら静かに足元を染める街の光の海に視線を落とす。

 夜風が頬をかすめるたびに微かな金属の臭いが鼻腔を刺激するも、少年の意識は双眼鏡を通して街の一角で目まぐるしく展開される追走劇に注がれていた。

 狭い路地を駆け抜ける三つの影。

 先頭を走るのは追われ命を狙われる者――おそらくは組織を裏切り、警察と手を組んで身の安全を図ったのだろう。

 しかし、組織もまた末端の人間であろうと裏切り者を逃がす程落ちぶれてはいなかった。暗闇に紛れ逃げるその背を、複数の追っ手が執拗に追い詰めていく。

 さらにその一団を警察は包囲網を狭めながら追い詰めていた。三者三様の思惑が絡み合い、欲望と正義の名のもとに命を賭けた攻防が夜のざわめきの中で静かにおこなわれている。


『ネズミは路地に入りました。薔薇は三房』

『民間人に対する規制は完了しました!』

『了解、こちら北に向け修正を始める』


 少年は鉄塔に設置された電波局の設備を利用し、警察無線を密かに傍受していた。無線から伝わる断片的なやり取りと、焦燥感に満ちた声が夜の喧騒と混ざりながら耳をかすめる。

 視覚と聴覚から得られる情報を即座に整理をしながら、状況を冷静に見極めタイミングを窺っていた。

 そのとき、不意に。警察無線の周波に割り込むように、ひとつの暗号化された信号が入り込んできた。雑音を押し退け、微かな沈黙を挟んだのちにメッセージは少年の端末に届く。


『今夜も夜景は綺麗かな?』


 一見すれば、ただの気取った挨拶。無邪気ともとれる問いかけだった。だが、その音色には感情というものがまるで宿っていない。

 冷え切った金属のような声音が、言葉の裏に潜む冷徹な意図を無言で告げていた。


「おかげさまで……」


 その声には、どこかまだ幼さが残っていた。抑えた語調の奥に、声変わりの途中にあるような不安定さ――それでも、その響きは奇妙なほど冷静だった。


『この通信を使っているということは――お前にも、何が起こっているのか。そして、私がこれから何を依頼するかは既に理解しているはずだ』


 それは命令というより、確認。いや、形式的な儀式に近い。

 内容の詳細など知らずとも、次に下される指示はわかっている。この暗号無線が用いられるとき、少年に課される任務は決まっていた。

 それ以外の用途で使われたことなど、一度としてない。


『相手は裏切り者だ』


 その声には、一片の感情もなかった。ただ冷ややかに、言葉が整然と並べられるだけ――正確すぎるその調子が、夜気に緊張を孕ませる。

 少年の耳を掠めた人工的で不気味な無機質さのある声、それが命の選別を告げる声であるということに彼は慣れ過ぎていた。

 表情に揺らぎはない。むしろ、その眼差しは深く静かに定まっていた。

 命令を受けた者の顔ではなく、命を奪う覚悟を携えた者の顔がそこにあった。


『期待しているよ、シグマ……』


 その言葉を最後に、通信は沈黙した。

 少年は双眼鏡を静かに折り畳み、手慣れた動きでジャケットの内ポケットへとしまい込む。そして再び、眼下に広がる街の光へと視線を落とした。

 きらびやかに瞬くその灯りは、遠目には絢爛(けんらん)で美しささえ感じられる。

 だが、少年の眼にはそれがあまりに脆く儚い幻想に映っていた。

 恐れ、孤独、醜さ――人間の本性に巣食う脆弱さを、ただ覆い隠すために塗られた薄化粧。光の仄かなきらめきは、むしろ痛々しい虚飾に見えた。

 夜景はただの明かりではない。

 それは、“見てはならぬもの”を見えなくするための精巧な欺瞞に過ぎなかった。

 街は光に包まれている。あたかも闇を否定するかのように。

 だが、少年は知っていた—―光が濃くなればなるほど、その裏に落ちる影もまた深く濃くなることを。

 きらびやかなネオン、街路樹に絡まる電飾、虚構めいた笑顔を顔に貼り付けて歩く人々の群れ――それらは皆、己の抱える虚空や弱さに気づかぬふりをするための演出に過ぎない。

 人はなぜ、あれほどまでに光を求めるのか。

 なぜ闇を塗り潰すように街を飾り立て、わざわざ華やかさを演出しようとするのか。

 少年には、それが理解できなかった。

 人は皆、何かを隠したがっている。

 心に空いた穴、言葉にならぬ不安、満たされぬ承認への渇き。

 そういったモノを「明るさ」で覆い隠し、「賑やかさ」で誤魔化す。しかし、覆い隠されたモノが完全に消えるわけではない。むしろ、それは深く静かに影を濃くしていずれ別の形で表に現れるのだった。

 少年はそのことを知っていた。

 だからこそ、光に救いを見出すことができなかった。

 光は美しい――しかし、その美しさは住々(おうおう)にして嘘にまみれている。まるでそれ自体が、都市の見せる欺瞞(ぎまん)そのもののように思えた。

 光に魅かれながらなおその奥に潜む闇へ目を向けた少年は、冷えた鉄塔の手すりにそっと手をかけ、足元を確かめる様に身を僅かに屈める。

 夜風が一層強まり、耳元で低く唸るような音を立てて通り過ぎていった。


「仕事の時間だね……今日も手伝ってくれるかい?」


 独り言のように呟きながら、少年は指輪を嵌めた。

 けれども、返ってくる返事はない。あるはずもなかった。

 少年は短く息を吐き刹那――夜の波間に放り出すように、躊躇なく鉄塔の上から都市の光と影の織り成す眩惑(げんわく)の渦へその身を投げ出した。

 夜の奔流(ほんりゅう)へと身を投じた彼の身体をかすめ、冷たい風は唸りを上げる。

 落下する彼の輪郭は、やがて都市の絶え間ない鼓動と溶け合ってゆく。

 そして彼の存在は――あたかも最初からここにはいなかったかのように、誰の視界からも消え失せた。



 同じ頃――夜の街の片隅、一筋の光も差さぬ路地裏を一人の男が荒い息を吐きながら駆け抜けていた。

 濡れたアスファルトを革靴の踵が叩きつけられるたび、甲高い音が狭くかび臭い路地に不気味なほど響き渡り、己の存在をいやでも刻みつけてゆく。

 呼吸は既に限界を超えていた。

 冷たい夜気を吸い込むたび、焼けた肺に氷の針を突き立てられるような痛みが走る。喉の奥はひりつき、吐息は白く霧散する。

 足はもつれ、心臓は今にも破裂しそうだった。


――追いつかれる! 


 背後から迫る複数の足音。

 それは決して速くはないのに、逃げる男の耳には確実に忍び寄る死神の足取りに聴こえた。

 無機質な金属が弾かれる音と共に、風を裂く気配が肌を掠める。その一瞬、見えざる刃が背筋をなぞったかのような錯覚に襲われる。

 恐怖に背を押されるまま、男は何度も振り返った。闇の帳は何も映さず、しかしそこにいるという確信だけが喉元を締め上げてくる。

 こめかみを伝う汗は、冷たいはずの夜気など意に返さずとめどなく流れ、視界をじわりと曇らせた。

 内側からこみ上げる恐怖は声にならず、喉奥で言葉にならない呻きに変わる。

 言葉を奪うほどの不安が、じわじわと意識を侵食してゆく。

 走るたびに腕から零れ落ちそうになる荷物を、男は焦燥に駆られるように胸元へ抱き直す。

 その手にしっかりと抱えられた物、ソレは一冊の古びた書物であった。

 湿った革表紙の上に刻まれた無数の傷が長い年月を物語り、爪でひっかいたような浅い擦り傷もあれば、刃物で抉ったかのような深い裂け目もある。

 そのどれもが、この書物が長き時を生き延びた証であるように思えた。

 そして、男が一瞥したときに見た表紙の中央に浮かぶ微かに光を宿したような不可思議な文字列――記号とも呪文ともつかぬその刻印が、見る者の理性に震えをもたらす。

 その文字に視線を留めるだけで、心の奥底に冷たい指が差し込まれるような錯覚に襲われる。

 その文字そのものが、警告するかのごとく無言の圧力を放っていた。

 しかし、男にはその記された記号のような文字を理解することはできなかった。むしろ、理解しようとすること自体が禁じられた行為であると直感していた。

 彼に逃走の手引きをした協力者もまた、余計な詮索を禁じて何より『決して開くな』とだけ告げて姿を消した。

 ゆえに男は、それ以上を知ろうとはしない。

 書の内に何が封じられているのか、それを知ってしまえば戻れないことを言葉ならぬ予感として感じ取っていた。


「なんだっていい……!生きるために、コイツが必要だってなら――」


 男はこの書物を政府のとある組織に届けることで、自らの安全が保証されると信じていた。

 金か、命の為か――いや、おそらくはその両方だ。生きることへの執着と破滅への恐怖。その狭間で男の選んだ道は、この一冊にすべてを賭けるという愚かでしかないほどの一点突破だった。

 だが、辿り着かねば意味はない。

 背後から響く足音が、地鳴りとなって鼓膜を圧し潰す。

 それはただの追跡ではなかった。

 それは意図的で、男の恐怖を煽り焦燥を増幅させ冷静という最後の理性すら削ぎ落とすための「演出」だった。

 振り返ることすらもはや死の兆しに等しい。

 男はただ前だけを見て、ひたすらに足を動かし続けた。

 日頃、煙草を手放せぬ肺は、もはや焼け焦げた布のようにひしゃげて悲鳴をあげている。

 視界は霞み、世界の輪郭がゆらゆらと揺らぎ始める――それでも足を止めるわけにはいかない。

 そのときだった。

 路地の先、まるで幾千万の闇を裂くように一筋の光が走った。

 都市が吐き出す人工の煌めきが、暗黒の海の彼方に浮かぶ灯台のようにかすかに男の視界に刺さった。

 それはまさしく救い――地獄の淵に立たされた者にのみ許される、遅れてきた赦しのようにも思えた。

 だが、同時にソレは幻の如き不確かさを孕んでいる。

 あまりに脆く、儚い。

 近づけば霧散し、触れようとすれば自らの手で壊してしまいそうな不安定な奇跡に疑念が胸の奥で鈍く疼く。

 あれは本物なのか――それとも、ただ死の瞬間が見せる蜃気楼なのか。

 希望と猜疑(さいぎ)、そのどちらともつかぬ重圧が男の胸に爪を立てた。


 だが、辿り着かなければすべてが終わる。


 男の頬を伝っていた涙が、そのまま夜風に攫われて闇に消える。

 それは恐怖の名残か、絶望の呻きか、或いは光に触れかけている安堵の兆しか――もはや彼自身にもわからなかった。

 ただひとつ確かなのは、魂の淵から引きずり出すように踏み出したその一歩が、濡れたアスファルトに深く重く刻まれていたということ。


 出口まで、あと――わずか数歩。


 指先が光の輪郭に触れかけた瞬間、男の身体は焦がれるように反応した。

 重力すら振り払うように全身の筋肉が悲鳴を上げながらも加速する。


 しかし、その光を遮るようにひとつの人影が立ちはだかった。

 まるで(やみ)そのものが形を成したかのように。

 都市の光が届かぬ死角。闇と光の僅かな境界線にその姿を現した少年は、まさに夜の輪郭だった。

 均整の取れた体格に、夜の闇を纏うような漆黒のジャケット。

 その左胸では沈んだ赤の輝きを放つ薔薇のエンブレムが、それは彼が誰であるかを何より雄弁に語る印として十分すぎるほどだった。


 『薔薇の傭兵』


 組織の名を知る者であれば、それだけで膝が抜ける理由になる。

 ましてや、目の前の少年が噂に名を連ねる者であると知ったとき、人はもう生存の(ことわり)を忘れる。

 暗闇にひときわ鋭く浮かび上がる深紅の瞳。

 それは情を拒んだ宝石――血とルビーとを掛け合わせたような色でありながら、そこに宿るのは熱ではなく透徹した冷気だった。


 冷たく、ただ任務を遂行する。そこには哀れみも怒りもなく、ただ静かに男を対象(・・)として見据える冷酷さだけがある。


 男はその存在を前に思わず歩を止めていた。

 意志とは無関係に両足が地面に縫いつけられたかのように動かず、喉にひっかかった息は吐くことすら躊躇う。

 沈黙。耳鳴りすらない、完全な無音――それは自然のものではなかった。

 そこで男は、ようやく気がついた。

 少年が姿を現したその瞬間、背後にあったはずの複数の足音。しのぶように迫っていた気配。それらがまるで霧に呑まれたかのように、すべて――消えていたのだ。

 この路地には今、少年と男。ただその二人以外、何者の気配もなかった。

 都市の明かりがわずかに差し込むその先には、確かに光があった。

 だが、今やその光は少年という絶対的な影の前に飲まれ、希望などという言葉がかすむほどに暗く塗りつぶされている。

 胸を締め付けるような静寂が、氷のように男の内側を蝕んでゆく。

 これは偶然などではない。すべては最初からこの瞬間に至るよう切開された――周到な“演出”だったのだ。


「掟に従い選ぶ権利を与える」


 執行人は静かに(つづ)る。


「死か、救済か……」


 刹那、少年が一歩前へと踏み出した。

 風すら息を呑むような間合いの中、男は悟る。

 彼の命運は、既にあの深紅の瞳に映された瞬間から決まっていた。


「ま、待ってくれ……俺は何もしていない!し、しッしし……信じてくれぇ!」

「じゃあ、ここで何をしている」

「…………俺のような男が、こんな夜の街を歩くのに理由なんざ要らねぇだろう?俺はなにも――(やま)しいことは……いや、むしろこれからが本番ってところで、だな……」


 言い終わるより早く、少年の手元で閃光が弾けた。

 乾いた銃声と共に、男の足元に焼けつくような激痛が走る――それは痛みというにはあまりに唐突で、容赦の欠片もない断罪であった。


「御託はいらない」


 少年は冷たく言い放つ。


「選ぶ権利を与えているんだ……ならば、その言葉の重さを理解し、真剣に選べ」


 声にならない悲鳴をあげながら、男は地に伏して転げまわる。

 足元から滲む鮮血が地面を濡らし、そこに残るのは呻きと割れた吐息と、命を握られた者の無様な姿だけ。

 だが、少年の言葉には依然、感情というものがまるで宿っていない。

 その声音は、選択という名の罰を執行するためだけに組まれた装置のようだった。

 「選ぶ権利を与えている」という事実――それこそが、この場の主導権をどちらが握っているのかを語る簡潔で残酷な証明だ。

 しかし、足に撃ち込まれた銃弾に悶絶し冷静な思考を失った男にはそんな言葉は届いていない。ただ痛みに泣き叫び許しを乞うように少年の方へ這いずることしかできなかった。


「頼む……助けてくれ……!俺は、俺はただ――頼まれただけなんだ……!本当は、こんな命懸けの仕事なんて……したくなかったんだぁ!」


 しゃくり上げ、涙と唾を撒き散らしながら懇願する男。

 その言葉には確かに哀願(あいがん)が込められていた。だが、それは罪を償う意思ではなく、ただ己の醜く浅ましい命を守りたいという動物的な叫びに過ぎなかった。

 少年は、何の感情も示さぬまま静かに銃口を男の口へと差し入れる。

 涙と嗚咽が滲んだ唇を押し分け、冷たい鉄の感触が喉奥へと滑り込んでいく――沈黙を強いる楔のように。


「依頼主は誰だ」


 声は低く、乾いていた。

 殺すための声ではない。

 ただ、知るべきことを知る――それだけの機械のような声音。

 男は震え、泣き、声にならぬ叫びを喉の奥で詰まらせながら遂に恐怖が限界へと達する。

 喉奥にまでねじ込まれた銃口。その先端が舌を押し上げ、息すらまともに吸えない状態で少年の指がゆっくりとハンマーへかかる。

 これは、最後の問い。

 答えなければ、沈黙のまま生涯を終える。


「し、しらへぇ(しらねぇ)おへぇはぁ(俺は)はのまへぇは(頼まれた)はけなんはぁ(だけなんだ)!」


 嗄れ声が銃身を咥えた口内から漏れる。

 言葉としての形を失いながらも、なお命乞いの意志だけは伝えようとする。


「名前も知らないヤツにいくら払われた?」

「い、命の保証はッ……そ、そそう、約束されたんだよ!」

「なら、その保証はなかったことになるな。――契約不履行ってヤツだ」

「や、やめッ!?」

 

 断末魔となった叫びが、唾液に紛れ絶叫になりきれぬまま路地に消える。

 ――次の瞬間、

 乾いた銃声が二度。

 路地の静寂を無慈悲に切り裂いた。


 数分後――

 民間人の立ち入りを規制し、現場一帯を封鎖した警察が到着した頃には既に少年の姿は影も形もなかった。

 そこに残されていたのは、裏切り者への粛清という結果だけである。

 路地は再び静けさを取り戻していた。

 ただ一人、壁に凭れ掛かるように倒れた男の亡骸だけが、何かを語るように夜の底に沈んでいた。

 頭部に至近距離から放たれた二発の銃弾は、容赦という言葉を完全に否定する精密な仕事だった。さらに、膝への一発――最初から殺すための構成が決まっていたように、逃げられぬよう撃ち込まれたモノだろう。

 現場に薬莢は残されておらず、指紋や足跡など犯人へ繋がる痕跡は何一つ残されていなかった。

 あるのは吐き出された血の温もりと、粛清の香りだけである。


「下っ端とかじゃない……プロの犯行ですね。一切の情報の痕跡が消されています」


 分析班の一人が、無力な報告を呟く。


「監視カメラは?」

「全然だめですね。死角から現れています……」


 言葉を濁す捜査員を横目に、現場責任者らしき男が低く息を吐いた。


「まさか、こうも特定が早いとはな……。今回の案件は優秀な諜報員を総動員したというのに」


 舌打ちすら躊躇うような沈黙が一瞬、現場を包んだ。

 この任務は、反社会的な地下組織からの離反者――すなわち情報提供者となりうる人物を保護するという、極めて機密性の高い案件だった。

 警察のメンツを懸けての作戦、現場には諜報活動に長けた精鋭が揃えられ通信遮断から追跡、偽装までと万全の布陣が敷かれていた――はずだった。

 それにもかかわらず、影はその網の隙間を縫うように現れ何ひとつ残さずただ粛清の余韻だけを置き去りにして消えたのだ。

 敗北。それも骨の髄へと沁み入る(たぐい)の敗北である。

 現場に到着した捜査班長はやがて口を閉ざし、血の跡と残された死体を無言で見下ろした。

 微かに震える指先は、職務を全うできなかった無力さに噛みしめる怒りか。あるいは、闇に紛れて姿を隠した何かが、今もこの街のどこかで息を潜めているのでは――そんな、言葉にならぬ恐怖であったのかもしれない。

 否、どちらでもないのだろう。

 ただひとつ確かなのは、敗北の輪郭が重くひたひたと己の内へ沈殿してゆく感覚だ。

 彼ら警官は慣れているはずだった。

 裏社会の粛清、冷酷な処刑、情け容赦のない血の結末。

 しかし今回は、これまでの犯罪とは何か違う空気があった。

 犯人の殺意の質には様式美すら感じさせられる精密さがあり、殺しという卑劣な行為が芸術にまで昇華されているようである。


「……凡そ人間の仕事ではありませんね」


 誰かがぽつりと呟いたその声に、場の誰もが内心で頷いていた。


「薔薇の傭兵に紛れ込ませた諜報員は?」

「指示を出しましょうか……?」

「そうだ――」

「それはいけませんね……今すぐその諜報員は引き上げさせるべきです」


 その声は、あまりに自然だった。

 まるで初めからそこに居たかのように、男は警官たちの会話へと割り込んできた。

 気がつけば、視線は一斉に彼へと集まっている。

 観劇の観客席から舞台へと降り立った俳優のように、穏やかな笑みを浮かべながら現場へと足を踏み入った男。その足取りは、血の池の中央で躊躇なく足を止めた。

 そこが最も相応しい立ち位置であるのだろうか。

 白髪が品よく整えられ、仕立ての良いスーツが風に揺れる。だが、その洗練された外見と凄惨な痕に平然と身を置く姿との落差が、あまりにも異様で場違いだった。

 惨劇を美として愉しんでいるような振る舞いに誰もが言葉を失う。


「彼らにとって――キミたちが潜り込ませた諜報員を特定することは、造作もないことだろう。無駄な犠牲を増やす前に、あらゆる証拠を消して即座に撤収させるべきだ」

「ミスターラズロア……忠告には感謝します。ですが――もし、あなたが現場を荒らしに来たというのなら、たとえ特務機関のあなたであっても我々警察は法に則り拘束する権限を有しています」


 男の登場によって緊張した現場で捜査班長が応じる。正論であったが、そこにあったのは威圧ではなく、どこか怯えを隠しきれない声だった。


「そうか……しかし、ソレは捜査が終わってからにしてもらおうか?」


 彼はあくまで穏やかな調子のまま、しかし一切の反論を許さぬ口調で続けた。


「薔薇の傭兵が関与しているならば――この件は無条件で我々、特務機関の所掌(しょしょう)となる。よって、もし我々の捜査を妨げる意図があるというのなら……速やかに解散してもらおうか?」


 それは決して脅しではなかった。

 ただの通告である。

 ミスターラズロア――そう呼ばれる男は、まさに時代錯誤の高貴なる亡霊である。

 優雅な白髪に包まれた頭部と、滲む教養によって洗練された言動。そのすべてが古き良き時代を引きずりながら、現代を彷徨っているようであった。

 しかし、ソレは決して敬意だけで語られる存在ではない。

 彼の名を知る者は皆、一様にこう言った。


—―あれは何かに憑りつかれ、未だに成仏できぬ亡霊だ。


 その亡霊の正体は、かつて多くの闇に関与してきた元工作員。そして現在は、犯罪組織を監視する大陸軍直属の組織『特務機関』の諜報員である。

 その口調は常に丁寧で礼節を欠くことはない。

 しかし、その実――言葉の端々には冷笑と皮肉が宿り、他者の失態を微笑の下で切開する。

 人を斬るのに剣は不要だった――時に、言葉こそが最も鋭利な刃となる。

 その傷は、目に見る出血よりも遥かに深く、決して癒えぬ痛みを残す。

 犯罪やテロを迅速かつ密かに処理することで知られる特務機関であるが、その所属は警察と違い軍であることで常に暗黙の対立が存在していた。

 軍と警察は連携しているべきだ。しかし現実には方針や目的、手法までもが異なるために相容れず、互いの存在は不協和音を奏で続けている。

 特にラズロアのような人物は、その「軍人としての傲慢さ」と「工作員としての非情な合理性」が混じり合い、警察の捜査員たちにとっては最悪の存在であった。

 ラズロア自身もまた、警察を快くは思っていない。

 彼の目に映る警察の諜報活動は、幼稚で稚拙。戦場では通じないぬるさ(・・・)があった。

 ゆえに、彼はたびたび現場で警察の失態や非効率を見つけるたびに、皮肉めいた言葉を放つのが常だった。

 いっそ敵であった方が心にゆとりが生まれる。


「――これがキミたちの情報収集の成果かね?……随分と可愛らしいお遊戯だな」


 ラズロアは口元に薄い笑みを浮かべながら、またしても警察の手法を堂々と嘲笑した。

 彼にとって、警察が現場でおこなう諜報など所詮は素人の延長。教養の皮を被ったままの未熟な模倣に過ぎない。

 彼はゆっくりと膝を血だまりに落とし、地面に広がった紅に指を滑らせてみる。

 光沢と粘性を帯びた真っ赤な血液が、絡みついた男の細い指先を染める。それをまるで嗅覚や味覚で情報を確認するかのように、鼻先へ持っていき深く吸い込む。

 そして、その指を舌先で僅かに舐めとった。

 警官の一人が思わず顔をしかめるが、声に出して反応する者はいなかった。


「な、何を――」


 当然の疑問である。誰もがこの現場を目撃すれば、何かしらの問いを口にせずにはいられなかった。


「……いくつもの現場を経験するとね、血の味で大まかな経過時間がわかるようになるのだよ」


 ラズロアはゆっくりと口角を上げながら、講釈の続きを語るように告げた。


「ン……15分、といったところか。――さて、キミたちは15分もの間いったいどこで何をしていたのかね?」


 それは明らかな侮辱だった。

 流石に、捜査班長の胸中は怒りに煮えたぎっていた。侮辱、屈辱、そして何よりも――無力感。

 ここで死んだ男は、政府直轄の組織から『保護対象』として引き渡しを求められていた重要人物。その任務を任されたのが、自分たち警察である。

 どこでラズロアに情報が入ったのかはわからないが、失敗は明らかであるもそれを嘲笑うような特務機関の横暴な態度に、班長は抑えきれない苛立ちを感じていた。


「ふざけるな……」


 心の奥底で燻っていたその言葉は、喉の奥から熱を帯びて吐き出されていた。


「確かに我々の落ち度は否めない。しかし――この男の保護は、正式に我々警察に与えられた任務だった。アンタら特務機関が、勝手にしゃしゃり出てくる筋合いはない!」


 そう声を張り上げたものの、目の前の男は一切動じることはなかった。

 むしろ静かに眼鏡のブリッジに指を添えわずかに押し上げると、文章を整えるような所作で言葉を選び口を開く。


「――だが、その任務は“果たされなかった”のではないのかね?」


 反論の余地すら許されない強烈な一言が、班長の口を閉ざす。そして、その場にいた警察もまた否定の言葉を紡ぐことはできなかった。

 彼の指摘が的を射ていることを誰もが認めざるを得なかったのだ。

 核心を突かれた重みが彼らの肩へ静かにのしかかり、現場に満ちていた緊張感は今や静寂と化していた。

 ラズロアは立ち上がりゆっくりと眼鏡を外すと、内ポケットから取り出したハンカチでレンズを丁寧に拭きながら続けた。


「これより、我々特務機関がこの事件のすべてを引き継ぐ。既に申し上げたとおり、薔薇の傭兵が関与している以上……この先は、キミたちの管轄ではない」

「し、しかし……!我々はこの男の引き渡しを正式に託された側だ。この状況で『はい、そうですか』と引き下がれば、組織としての信頼が瓦解してしまう!」

「信頼?なるほど信頼、か……」


 ラズロアは息を漏らすように薄く笑った。

 鼻で吐き出すような笑いには、軽蔑の色が混じっている。

 眼鏡をかけ直す彼の瞳は冷ややかで、そこに映る班長の姿は既に敗北者としての枠の中にあった。


「その信頼とやらが仕事を遂行する能力に裏打ちされているのなら……崩れるのは、偶然でも不運でもない――むしろ当然の帰結だろう」


 その声は低く静かだった。だが、その言葉の端々には確かな棘が宿っている。


「……上司には、こう伝えておいてくれ。次はもう少し、背伸びをしなくても済むような仕事を与えてくれとな。たとえば、交通安全講習のスライドを読み上げるとか――児童向けの防犯教室で可愛らしい着ぐるみでも着て踊って見せるとか」


 皮肉を言い放つと、ラズロアは静かに事件現場の観察に戻る。

 眼鏡を軽く押し上げる仕草は彼の冷静さと慎重さを象徴するもので、純白のスーツに一滴の血もつけないよう注意を払いながら足元に広がる血痕を睨む。

 その視線の奥には、特務機関の工作員として積み重ねてきた長年の経験と拭いきれない苦々しさが交錯していた。

 薔薇の傭兵—―その名を耳にするだけで、彼の神経は鋭く逆立てられる。

 離反者が命を落としたというのは、これが初めてではない。

 薔薇の傭兵に一度身を置いた者は、例外なく出口のない檻に囚われることとなる。それはどんな末端構成員であれ、組織の内情を知り組織の構造を知る者を生かして帰してくれる程優しい組織ではない。

 裏切り者に与えられるのは目の前で横たわる彼のように、死というただひとつの出口だけである。

 皮肉を口にしながらも、彼の胸中に去来していたのは過去の失敗であった。

 特務機関であっても、かつて離反者三名の保護任務を受けるが、いずれも果たすことができなかった。

 今回の失敗は警察のミスが一因であることは明白だ。しかし、それだけがすべてではないことをラズロアも理解している。


 現場には冷え切った血の匂いが漂っていた。

 湿った空気を割ることなく、ただ沈黙のなかでラズロアは転がる死体に刻まれた銃創を観察する。

 頭部に二発、足に一発。

 それは単なる殺害ではなく、儀式のような確かな意志を帯びた痕跡であり、それは彼にとってあまりにも見慣れたものだった。


「またか……」


 この粛清方法はここ十年、薔薇の傭兵が仲間内で裏切り者を処分する際に繰り返し用いてきた典型的な様式だった。

 撃ち込まれた角度、弾道の軌跡、そして標的を精神的に追い詰め確実に動けなくするための足への一撃。これらすべてが、同じ人物によるものだとラズロアは直観的に確信していた。

 それは彼のような工作員だからこそわかる筆跡(・・)であった。

 犯人の名が明かされるまでもなく、ラズロアの頭の中にはその冷酷な殺し屋の表情が浮かんでいた。

 それでも男の表情に変化はなかった。無感情とも思えるその顔は怒りや苛立ちを完全に押し殺していた。

 薔薇の傭兵――その名を背負う者たちが、いったい何を考え、何を目的にこの粛清に至ったのか。

 答えを導き出すことこそが、特務機関の責務である。

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