朝東風のステージ
都内は湾岸地域にビルと倉庫の両方の特徴を併せ持ったような真四角の建物がある。首都高の高架がすぐ脇に通る。建物の前には前には品川ナンバーの黒いワンボックスカーが3台も留まっている。まだ午前中。
他人が自分に向ける全ての視線を受け止める勇気ができたのは何歳くらいの事だろう。モデル一人と一着の衣装。その組み合わせを写真に収めるために使われる人々の熱量は想像できないくらい大きい。真剣であればある程に、そういうものが恵令奈に圧し掛かってくる。自分の取ったポーズや表情、服の見せ方も含めたモデルの技量の全てに正解はなく瞬間切り取られた光の強度で判断されるとわかっていた。ダメならすぐにカメラのシャッターを操作する手が止まる。子供の頃からモデルを続けきてきた恵令奈は、自分を見ている大人達が不満気な表情を見せる事に何より敏感だった。シャッターが止まらない限り、自分はうまくやれているのだ。そして今日の自分は調子が良い。
拒否される事への恐れと表裏の関係が19歳の恵令奈の心で揺れながらバランスされていた。
「恵令奈さん、視線こっちね。照明眩しいけど少しの間だから」話しながらも無音のままシャッターが切られ続けているはずだった。息を飲み、汗が流れる音さえするかのようだった。一本の糸が切れるか切れないかギリギリのテンション。エレナは気が遠くなりそうになりながらカメラの向こうの幻影の中に立つ十字架に磔られた自分の幻を見ていた。
本当のスタジオは狭く、モデルの恵令奈とカメラの梶岡、カメアシと呼ばれるアシスタントカメラマン。スタイリスト兼メイクのケーコ姉さん。それに照明係と雑誌社の真壁氏。それだけでいっぱいな程なのだが、ファッション誌の予算は厳しく巻頭特集といってもスタッフはこの程度である。全員の視線は照明をいっぱいに浴びたモデルのさとう恵令奈に集まっている。
今日は夏物の洋服のトレンドを伝える特集の撮影だった。「はい、続いてそのポーズのままでいいから表情を10通りくらい作ってみて、連続でね」恵令奈は言葉では答えずすぐに表情を変え始めた。
爽やか笑顔、口角上げてのにっこり笑顔。そのあとは口膨らましキュート顔。ふっと力みの抜けたリラックス顔。まだまだある。ウインク顔にいたずらっ子風ちゃめ顔。恵令奈にとってはいつもの撮影だ。
「恵令奈さん、今日も最高だよ。さすが最強の10代モデル。次はキュート顔のままポーズ5種類頼みますね」
梶岡の要求に的確に答える恵令奈の細い首に新たな汗が浮かび始めた。照明が熱いのではなく空調の効きが悪い。
「もう少しだから頑張ろうね」梶岡が励ます。モデルの集中力を途切れさせないようにすることもカメラマンの仕事だった。トップモデルの恵令奈であれば、この程度で根を上げることはない計算がある。だから次のポーズ要求が来る。恵令奈もその梶岡の期待に応えた。忙しくて昨日も2時間しか寝ていない。そもそも朝から何も食べていない。でもクスリも飲んだし今日も体調はパーフェクトに調整できていた。
その服の持っているラインをしっかり読者に伝えることが大切。そして着ている自分がスタイリッシュに見えることもファッション誌では大事な要素だ。モデルが可愛く見えない服を着てみたいとは思わなういだろう。だからモデルは服の一部としての自分を素敵に見せる必要がある。モデルは呼吸するマネキン人形。モデルの私たち自身がパーツなのだ。
自分を見せるのではなく服の、ファッションの一部としての記号化する事で可愛いを表現する。そして恵令奈は生まれ持った8頭身のフィジカルを含めてモデルとしてのセンスは抜群だった。腕を少し捻る事でもっと細く、もっち真っ直ぐに見える。袖の長さと袖から見える腕の長さが服のコンセプトに合っているか。不必要な生地のシワが写真に写らないか服を理解することが上手なモデルは重宝される。恵令奈は仕事がやりやすいモデルだと思われていた。言われた通りに動くのが普通のモデルだとすると、言われた意味を理解して動くのがトップモデルなのだ。
やがて事前に計画された全ての写真を撮り終えて梶岡はカメラを置いた。
「はい、終了。恵令奈さん、スタッフのみんなお疲れ様でした」梶岡の合図でスタジオに張詰めて居た空気が緩んだ。
ふうっと息を吐いて恵令奈は疲れを自分の体の重さ加減で感じる。恵令奈は撮影中に遠くに見えていた十字架から自分が降りたのだと思った。考えすぎな気もするが十字架が見えていたのは本当だ。誰にも言っても信じてもらえそうにないが。そういう事はあるのだと思っていた。みんながセットや衣装をしまい始める。撤収が早いのもチーム梶岡の特徴だ。
恵令奈は上着を羽織ると、10代にしては慣れた愛想笑いをしながらスタジオの隣の控え室にスタイリストのケーコと入っていった。カメラの前でのキュートな表情とは全く別の恵令奈が鏡の前でそそくさと衣装を脱いでいた。服は全てメーカーから送られて着ており返却する必要がある。
鏡の前に立つ骨と皮だけになった自分のくぼんだ鎖骨から薄っぺらい背中を眺めて恵令奈はほっと息をついた。
恵令奈はさっきレンズに取られたポーズを鏡の前で再現してみた。腕を伸ばす時は肩から伸ばす。指を伸ばす時は肘から一本の角度で。脚を伸ばす時はお尻も足の一部に見えるように。前に脚を投げ出すと曲げたもう一方の足との対比で長く見せる。背筋は空の上から釣られているみたいに首から伸ばす。レンズの前では実際の身長より本当に3センチ伸ばすこと。可愛く見せるためにはとにかく痩せること。お腹が減ったら鏡を見ろ。モデルは体重が少なければ少ないほど良いのだ。それが価値だ。細くて長いこと。胸もお尻も小ぶりが良い。服を着るのが仕事なのだから必要以上に女性らしいラインは邪魔だった。恵令奈もつるんとした体をしている。
骨と皮だけで作られた人造人間。植物が茎を細長く伸ばして衣装という花びらを纏う。例えるならモデルとはそういうものだった。
「やっとメイク落とせるぅ」恵令奈は30過ぎの子持ちのメイクスタッフのケーコといるとリラックスできる。
「恵令奈はほんとならメイクがいらないくらい可愛いんだけど、撮影だからね」
「はい、お仕事ですから」笑顔で答える。母親のいない恵令奈にはケーコは甘えられる存在。
13歳からモデルをしているのに恵令奈は未だにメイクが好きになれない。プライベートではメイクをしなかった。
「メイク落とし完了。今日はどうする?」ケーコとは撮影終わりにお茶をしたりする間柄だ。
「ううん、次に行かなきゃ。パパから着信入ってたからきっと仕事の予定だと思うし」
恵令奈はピンクの春物ニットにラフなジーンズ姿で背中まで伸びた髪を束ねた。
「あらそう、売れっ子は忙しいわね。体壊さないでね。ではまた次号の撮影もよろしくね」
恵令奈は部屋を出ると周りのスタッフの一人ずつを回って挨拶をしてから退出した。
スタジオでは次のモデルの撮影に向けた準備をするためにスタッフ全員がフル回転し続けていた。
「恵令奈だけど、若いのによく躾けられてるよね」残った梶岡が控え室から出てきたケーコに言った。
「モデル事務所って言ってもあの子のお父さんがやってる個人事務所みたいなもので、朝起きてから寝るまで生活の全てをモデル修行に費やしてきたんだって。純粋培養、英才教育。ザ・モデルって感じね」
「確かに早熟だよな、でも完成されてるように見えるけど、ときどき決定的に欠けてるものが有るような気がする。恵令奈を見てるとそう思うんだよな」
梶岡はファインダーを覗く仕草をしながら言った。写真にすると見えないものが自分には見えるとでも言いたい様だった。
「モデルとして努力してる子はあの子だけじゃやないわ。だけど周りのスタッフが恵令奈についてだけは色々と語りたがるのよ。俺だけはわかってるんだけどって言いながらね。それがあの子の凄いところ」ケーコは最近すっかり帯同しなくなったマネージャー代わりの父親の抜かりのない育て方をいつも褒めていた。
「でもあの事務所で売れてるのは、あの子一人で他には光ってる子はいないよな」梶岡は作業をしながら目で周りを見て恵令奈の父親が今日も来ていない事を確認しつつ言った。
「だから余計に息が抜けないのよ」
ケーコはメイクセットを整理をしている。「恵令奈がね、忙しくて潰れちゃう方に掛けてもいいわよ」
梶岡が意外そうな顔でケーコを見た。「俺知ってるよ。恵令奈とそのパパさん。変な連中と連んでるんだってな」
「変な連中って誰?」「なんか、薬物とか扱ってる半グレみたいな人達っていうのかな?」
ケーコが顔をしかめた。「噂でしょ?ホントだったら終わりよ、あの娘」
「いやぁ、俺も真偽のほどは知らん。まぁ噂だったらタチが悪いよね」そう言って梶岡はマスターカメラを持ってスタジオに入っていった。もう少し話を聞きたそうなケーコの言葉を遮ってすた時の中に歩き出した。
「はーい、次の麗子ちゃんスタジオ入りした?時間押してるから急かしてよ!さっきの恵令奈のファイルは全部俺が家で修正とか掛けちゃうからね 月曜日には編集部にデータで送りまーす」
編集の真壁がそれに応えた「送る前にデータエラーがないかテェックしておいてよ。前回それで納期遅れたんだから。注意して」
2)
父がいない時の恵令奈はタクシーで次の現場へ移動する。中目黒のスタジオから千代田区の映画制作会社まで。新作映画のパンフレット用のコメント取りと写真が何枚か。多分いくつかの雑誌にも載せるだろうからコメントも何パターンか種類が必要になると思う。アクション映画だから、迫力やダイナミックさについて。あとは主役の俳優が日本びいきだから、そこに絡めて日本文化との比較の視点からのコメント。あとは、あとは…。考えているどっと疲れが出て来た。父からは着信履歴だけが残っている。スケジュール連絡ならメッセ入れてくれれば良いのに。電話返さなきゃいけないのが億劫。さっきまで体調良かったのに。
特に最近はクスリが切れた時の落差が大きくて疲れ方が酷い。父からの履歴の他には友達が何人かメッセージをくれていた。中に春樹からのメッセージを見つけて心が和んだ。モノクロの気持ちに色が差し込んだ。春樹のメッセを最初に開いた。
”恵令奈、次の映画なんだけど断っちゃった。ごめんね、せっかく共演のチャンスだったのに。今日は撮影かい?また連絡するね”
春樹は2歳年上。舞台俳優上がりで映画なんかにも出るようになった。演技一本で生きていきますって感じの叩き上げの俳優。歯に衣着せぬ言動で良くも悪くも個性的な人って思われている。でも恵令奈にとっては優しくて嘘のない人。掛け替えのない特別な人だった。
付き合い始めたのは1年前。出会った場所はチャリティーイベントの打ち上げのパーティ。二人でパーティーを途中で抜け出して朝まで過ごした。何で私を誘ったのと聞いたら、春樹は、だって皆んな気を使ってその場を盛り上げようと楽しい振りしてたのに、恵令奈だけ私は全然楽しくありません、って顔してるんだぜ。それでお前のこと気に入ったんだ。春樹が自分の事を正しく見てくれているみたいで、そういうところも好きだった。
スタジオ前のタクシーの中では行儀良くないながら父に電話をかける。この時の恵令奈は父が、次の仕事の終わった後にもう一本仕事を入れたのだと思った。よくあることだった。「恵令奈か?」ワンコールで父は待ち構えていたように電話に出た。「パパ、次の現場ってどこだっけ。できたら1、2時間遅らせられないかな。体が重くて動けそうにないの」キャンセルするなどとは言わなかった。そう子供の頃から訓練されているからだ。現場が少し遅れる事は許されるケースがある。でも現場はその日のうちに終えないといけない仕事なのだからキャンセルだけは死んでもできなかった。そうやって暮らして来た。
「恵令奈、よく聞け。俺のいう通りの動きをしてくれ」こちらの話なんか御構い無しに父はいつもの様に自分の言いたい事を一方的に続けた。
「次の仕事はキャンセルしてある。誰にも行き先を言わずにすぐに麻布十番のカフェに行ってくれ」
このサスペンス映画みたいな父に不似合いなセリフ。きっと何か悪い事だと思った。麻布十番のカフェは、それは見かけだけで本当はクスリを買うお店。
「詳しい事はおかみさんに聞いて、指示通りにするんだよ」それだけを伝えて父は電話を切った。おかみさんはカフェの女主人だ。声の調子から、ただ事じゃないってわかった。落ち着くために深呼吸をする。車窓には今日は自宅から一人で現場に入った。昨日の撮影からほとんど寝てない、家に帰ってシャワー浴びれただけましというものだった。モデルの仕事だけでよかったのにパパは、なんで私に女優とか色々な仕事をやらせたがるわけ?春樹と初共演になる予定だった映画も父が無理やり突っ込んだものだった。演技の指導を受けた事は一度もないのにも関わらず。
実の父とは子供をこき使って上前をはねるもんなのか。そうすることができる業界の構造だった。アイドルグループの子も散々こき使われて賞味期限が切れたら卒業という名の解雇。お金を儲けたのは後ろで操ってる太ったおじさん達。食べたい物も食べず、恋もせず、寝ないで働き夢を見た気になってる。でも私も似たようなものかな。と恵令奈は思った。
人気といっても10代のファッションモデルの知名度は、それほど高くない。モデルとかファッション業界というものがメジャーとマイナーの中間で、ある人々には絶対的な注目を集めるが、そうでない人の興味を引く事はない。
恵令奈の目の前で背中を見せてハンドルを握るタクシーの運転手は、自分に気づいただろうか?きっとモデルのさとう恵令奈を知らないだろう。でも時々出演しているテレビ番組やドラマの類を見たことがあるかもしれない。もしも警察に追われるような事になった場合に足取りをつかませたくなかった。それで変装用の帽子とサングラスをつけてタクシーを乗り継ぎ、麻布十番商店街の入り口付近で車を降りた。
麻布十番の駅からほど近くにある古いビルの一階にセラピーカフェがある。半軒作りのドアから入ると、5席ほどのカウンターとテーブルが1つきり。小さな店だった。カウンターの奥におかみさんがいた。
「恵令奈ちゃん。一人? 誰にもここに来ること言ってない?」おかみさんは、この変で薬やってる人の間では知られた存在。背がすらりと高く、細くてちょっとサーフガールみたいな服装でジーンズを小さなお尻に格好良く履いていた。歳は本当は40を超えていると思うけどレベルが高い美人で、実年齢より若く見えるタイプだ。
「誰にも言ってないです。タクシーも変装して乗ってきたし誰にも見つかってないと思います」
「ちょっと大変な事になったわよ。まずは座りなさい、これでも飲んで」おかみさんは、アロマの強いコーヒーの入ったマグカップを恵令奈に渡しながら言った。恵令奈はカウンターの前の席に座る。メニュー表が無造作に傍に置かれていた。滋養ドリンクばかりで普通の喫茶店と間違えて入ってきた客はこのメニューを見ると何も注文せずに帰ってしまう。他にはヨガセラピー教室の案内。瞑想の会のフライヤーなんかがある。聞いた話ではクスリを調達できるお店で路面店でやってけてるのってここだけらしい。
おかみさんに初めて会ったのは中学生の頃。パパに連れられて来た。確か最初に飲んだのは普通の栄養ドリンクだったと思う。それがいつのまにか元気の出るクスリ。そしてMDMとか特別なクスリに変わっていった。恵令奈は未だにおかみさんの本当の名前を知らない。
「お父さんとしばらく会えない…という事ですか?」「そうなるかもよ。ついさっき任意同行で警察に行ったから」
おかみさんは早口で言いながらレジの中のお金をまとめて財布に入れていた。何となく予測していたから驚かなかったが、現実に感じない不思議な気分だった。警察の存在を身近に感じた事はない。自分たちは捕まらないという根拠のない自信があったのも本当のことだ。運命が逆回転する事ってこんなに突なのだろうか。
「私、どうすればいいんですか?」「いい質問ね」ニヤリとしたつもりのおかみさんの目は笑っていなかった。歳をとった女の人はどんどん綺麗な女の魅力を重ねていく人と、逆に男勝りになっておじさんとおばさんの中間くらいの強さを身につける人がいると思う。おかみさんは女を重ねながら魅力を増して究極の一品になったような人だ。「恵令奈には身を隠してもらいます。これで京都へ逃げて」恵令奈は新幹線チケットと幾らかの現金と着替えの入ったカバンを受取った。「とりあえず途中まで一緒に行くわね」おかみさんはそういうとさっさと店の電気を消して入り口の半軒ドアの鍵を閉めてしまった。
「京都で私の知り合いがやってるゲストハウスを借り切っているから、そこで薬が切れるまで暮らしていて」
「どういう事ですか?私って警察に捕まるんですか?」
「うーん、判ってると思うけど、これまで何度も何度もMDMをやってきたよね、それ犯罪だって知ってるよね?」
「はい…?」「クスリはあんたが買ったものじゃなくてお父さんを通して入手してる。お父さんはさらに私から仕入れてるの。つまり、お父さんやあんたが捕まると沢山の人が困る訳。わかるよね?もちろん、仕事とかで関わってきた人たちも含めてね」
「でも誰も関係ないよ…」だって撮影現場や、デザイナーさんも、イベントの人達は誰も無関係だと思った。
「だ、か、らぁ。貴方が逮捕されると皆んなが共犯者扱いで疑われるの。参考人って言います。あんた頭悪いの?』おかみさんは怒気を強めた。女性として極めたなんて嘘っぱちで、やっぱりヒステリックなだけと恵令奈は思った。とにかく自分一人ではどうにも出来ない事になったのは確かだ。それに仕事に穴を開けたら、基本この世界ではもう立ち直れない。
「あと、これが携帯電話。お父さんとも連絡が取れる」父からの指示が届くから指示に従えって事のようだ。自分とは別行動をする事を意味している。おかみさんが途中で逃避行を指南してくれる訳ではないようだ。「お父さんのいう通りにして、他の誰かに連絡するのに使っちゃダメよ。それに自分の携帯は使わない事、判ったわね」最後を特に強い口調で言っておかみさんはカバンを持った。
「そもそもこんな事になったのはパパが私を薬漬けにしたからでしょ」その薬の仕入れ元のおかみさんの前で毒づいていしまった。それを聞いたおかみさんが目を剥いてキレる。
「なめんじゃないよ。ガキのくせに。ヘマして警察に追われるから、こっちまでいい迷惑なのよ。モデルだか新人賞取った女優だか知んないけど、誰もあんたの事を思って世話してるんじゃないんだよ」
これに言い返すことができないで恵令奈は俯いておかみさんの後に続くしかなかった。
「本日便の羽田ー九州のフライトがあなた名義で取られているの。でもそれには乗らずに新幹線で移動して当分の間は京都で隠れていて。どこにも出歩いちゃダメよ。携帯でSSNとか絶対に使わないでね。
電話も待ち受けだけよ。1ヶ月隠れていてくれればいい。この手の事は現行犯じゃないと逮捕してこないの。警察だって証拠がないからクスリが抜けたら立件できないわ」
二人はおかみさんの運転する古そうなベンツで品川駅に向かった。おかみさんは、この明日には羽田から東南アジアに逃げるそうだ。クスリやカフェの商売はうまく畳んで数年は日本に戻るつもりがない。もしかしたらもう戻らないかもしれないと言った。品川駅の前で車を降りた。きっと会うのは最後になると思ったから最後に顔を見ようとした。でもサングラスをしたまま口元だけが笑っていて、その表情がどんななのか判らなかった。お互い顔を見せる事ないまま別れた。おかみさんは一度もこちらを振り返らなかった。
チケットを見ると、のぞみの発車時間まで少し時間があった。その時「あ…」恵令奈は絶句した。駅前のビルの大きなモニターにモデル事務所社長の薬物疑惑のニュースが流れていた。人気モデルで女優のさとう恵令奈の事務所社長とある。関連して警察が薬物の入手ルートを追っていると女子アナが伝えた。ワイドショーのようだった。
恵令奈は真深く帽子をかぶり直した。コメンテーターは事務所社長の事よりも恵令奈も薬物を使用しているのかどうかに焦点を当てて解説していた。曰くモデルで芸能界に入りもう何年も薬物中毒になってる場合には脳にも影響がで後遺症が残るかもしれないと言っていた。
’’脳がドーパミン物質のフラッシュバックを起こすんですけど、それが後遺症というもので、薬物を使ってない時でも言動が異常になったり挙動不審になったりするそうなんです’’
そんな事になった事はない。恵令奈は心の中で否定した。クスリは元気の前借りみたいなものだと思う。体力や集中力が高まるが、効果が切れると反動で動けないくらい疲れが出る。でもそれだけだ。異常な行動などおこしたことはないし、これまで中毒になって強い常習性が出た経験もなかった。
おかみさんに言われた通りに、トイレで服を着替えた。ここからは独りきりでの逃避行だ。行った事のない街、会った事のない人のところに匿われるのだ。ホームのベンチで擦り切れたジーンズの足を組んだ時、カバンからクリスタルの飾りがついたペンが転がり落ちた。春樹が身につけなくても良いアクセサリーだとプレゼントしてくれたものだった。モデルの恵令奈に身につけるアクセサリーを渡すわけにはいかないからと言っていた。もしかしたら春樹にも二度と会えない気がして恵令奈は細いペンを折れんばかりに抱きしめた。
3)
品川駅の地下の狭いホームで恵令奈は、ずっと俯いていた。手に握ったチケットは、こだまのグリーン車だった。気がついた事は、品川駅くらい大きくて人が多いと自分一人が居ても居なくても誰にも解らないって事だった。人が首都高の車みたいに猛スピードで行き交っている。同じように、私が雑誌の特集に出なくなってもすぐに忘れられてしまうと恵令奈には思えた。
こだまの車内は思った以上に空いていた。他の乗客はそれぞれ自分の携帯の画面を見たりしていて周りの事を気にとめる様子はなかった。ちょっと一息つけそうだった。
新幹線に一人で乗るのはこれが初めてだった。母が病気で死んだのは恵令奈が小学生の頃。その頃からお仕事をしてきた恵令奈は学校以外ではいつも父と行動してきたからである。友達と遊んだりする時間はなかった。いつか一人で旅行にでも行ってみたいとは考えた事があったが、まさか警察から逃げるのに一人旅をする事になるとは思わなかった。
もう警察は私を追っているだろうか。父が事情聴取を受けている頃だろうけど、薬の入手ルートが判っても普通に考えて、実の父が娘をクスリ漬けにするとは思われない。私は関係者の一人として事情を聞かれるだけかもしれない、だったら逃げたことで却って怪しまれる事にならないだろうか。もしかして警察は既にもっと詳しい事まで知っているという事なのだろうか。父がどこまで話したかが重要だ。
父は見栄っ張りだけど気の弱いところがある。その反動で格好ばかりつけているような人。父が警察で責められてすぐに全部を白状してしまう光景が目に浮かぶ。ニュースやワイドショーが流す情報から推測するしかなかった。
そこで、ハッと気がついた。春樹にクスリの事は言ったことがなかった。言えるわけがなかった。テレビや週刊誌の情報が春樹の知るところになった時、春樹は私の事を信じるだろうか。春樹にクスリの事を知られたくない。でも同時に、もしも知ってしまったらどう受け止めるか知りたくなった。私の事を知ってもなお、私を好きでいてくれるだろうか。春樹ならば世間の評判なんか気にせず自分を好きでいてくれる気がした。全てを正直に話せば私を連れて逃げてくれるかもしれない。列車が海を渡る橋を通った。窓から陽の光を白く反射する波が白く見える。春樹と二人きりで海辺の名もない小さな寒村で静かに暮らす姿を想像した。しかし、こだまはあっという間に次の街へ恵令奈を運んで行った。恵令奈は少しうとうとした。体が鉛のように重い。薄れる意識の中で最後まで春樹の顔を思い浮かべていた。
名古屋で目を覚ました。ここで別のこだまに乗り換える。足がつかないよう徹底的に計画されている。こんな時でも春樹の声が聞きたい。乗り換え時間を利用して駅のホームから春樹に電話をした。誰にも連絡するなと言ったおかみさんの顔が頭に浮かんだが、少しだけだからと心の中で言い訳をした。電話に出るかどうかも判らない。衝動的に電話をしただけなので何をどう話すか何も考えていなかった。
春樹は2コール目で電話に出た。
「恵令奈、今どこにいるの?」予想外に春樹が電話に出たのでこちらが逆に戸惑った。「お父さんのニュース見たよ。恵令奈は大丈夫かい?何かできる事ある?」「ありがとう、でも平気。心配かけてごめん」
周りのざわついた音が春樹にも伝わったのだろう。「どこか駅にいるのかい?」「騒ぎが落ち着くまでの間、東京を離れる事になって」「色々騒がれてるけど、嘘だよな。あんな酷い言われ方ないよね」春樹は私にも疑惑の目が向いている事を言っているのだ。
「どこに行くの?俺も休みが取れたら会いに行くよ」春樹の申し出はとても嬉しかった。でも巻き込む訳にはいかなかった。
「それはまだ言えない。落ち着いたら春樹にだけは連絡するね。もう少しだけ待っててね。それまで連絡しないで。こっちに連絡があるのが知れたら逃亡を助けたとか、事務所にも迷惑かかるし」
「逃亡って、どういう事? まさか本当にクスリやってたって事なのか?」慌てて否定したが春樹は純粋なところがる。疑問をはぐらかされる事が我慢できないのだった。駄目だとは思いながらも、さっき春樹が真実を知ったらどう思うのか、それが頭をよぎった。何回か使ってみただけ。すぐに抜けてバレる事はないから平気だと説明する。その言葉に春樹が真っ直ぐに反応した。
「クスリやってるなんて信じられない。とにかく警察に行ってくれよ。今なら間に合う。俺も一緒に行くからさ」
しまったと思った。春樹はそういう人だって判ってたはずなのに。
「それはできない、パパから逃げるように言われているし」
「それはどういう意味?恵令奈はクスリに手を出してないんだろ?」「そんな、違う違う」この言い方じゃ白状しているようなものだった。「私の事、心配してくれてるんだよね?落ち着いたら連絡するから、それまで待ってて」
なんだか泣きそうになった。電話なんかしなければ良かったと恵令奈は思った。
「無理だよ。話がヤバすぎるんだよ。舞台を控えてるんだ、俺を巻き込まないでくれ」
目の前が真っ暗になった。電話は向こうから切れた。恵令奈はその場に膝をついてしゃがみこんだ。春樹は私にとって大切な人。きっともうこの人以上の人はいないって思う。
私たちは、いつも互いの何かを分け合った。将来の事について話した事もあった。一緒に過ごす時間だけじゃなく、きっと足りないものを埋めあってきたんだと思う。
16時20分 名古屋発。こだまが発車した。片道切符の旅だった。窓の向こうの景色が流れていき、見続けていると目眩に似た鈍痛が額の奥に生まれた。切符に書かれた終着駅は私の本当の目的地なんかじゃない。もうどこにも戻る事はない。春樹に優しく慰めてほしかった。無性にクスリが欲しくなった。
4)
父が恵令奈にクスリを使わせ始めたのは中学生の頃だった。父の小さなモデル事務所がまだイベントコンパニオンの派遣会社だった頃の事だった。地方の携帯電話ショップやカー用品店のイベントに女の子を派遣する仕事をしていた。今より少しのんびりした時代。週末には越谷や館山まで車に乗せられて付いて行った。事務所に所属していたコンパニオンのお姉さん達は雑誌広告で集まった大学生やフリーターだった。恵令奈にとっては皆んな優しくて友達がいなかった自分と仲良くしてくれる姉の様な存在だった。毎週旅をするみたいで楽しかった。
何かが変になっていったのは事務所が大きくなってバイトではなく専属モデルを雇う様になってきた頃だ。恵令奈がイベントガールの見習いという事で足りない人手の埋め合わせをするようになっていた。父はよく今が正念場だと言っていた。事務所の経営が安定するために私達は昼も夜も働いた。恵令奈は学校にも通うため仕事に出るのは週末だけだったけど、他の女の子達はこれ以上ないくらい忙しかった。それもでも辞めなかったのはきっとみんなそれなりに事情を持つ子達ばっかりだったのだろうと今は思う。
そうして疲れた時に飲む栄養剤から始まって、もっと強いクスリを求めるうちに、誰かが違法なクスリを使い始めた。おかみさんの店に通うようになったのもその頃。決しておかみさんに勧められたり騙されたとは思わない。自分からクスリに手を伸ばしていた。初めてのクスリの効めは凄くて幾らでも元気が出て羽が生えたみたいに体が軽く、笑顔も自然に出て、爪の先まで感覚が研ぎ澄まされて行くのが判った。
自分が何者か強いものに生まれ変わったような気がしてしまうと、もう簡単に止められなくなる。そうして容易に手に入るって事も含めて、それが違法である事にも慣れっこになっていく。みんなで使っていたから悪い事という意識は私たち人数分の言い訳で薄まってしまっていた。
やがて京都に到着するアナウンスが聞こえた。ホームには警察が待ち伏せているなんて事はなくて、恵令奈は自分のの悪運はまだ尽きていないんだと思った。
ホームに降りると、恵令奈は身体中に悪寒を感じた。寒いのに汗が出る不快な感覚だった。風邪でも引いたかも知れない。ストレスなのか無性にお腹も痛かった。
もらったメモの住所は駅からそれ程離れていないという事だった。
駅の中の通路で小さな子供が立ちすくみ泣いていた、サマードレスを着た低学年くらいに見える可愛い女の子だった。
「どうしたの?」恵令奈はその女の子の前でしゃがみ込み目線を合わせて話しかけた。周りに大人の人はいなかった。
迷い子だろうか、女の子は泣いていて声が出せないようだった。お名前は? 言いたいのに涙と嗚咽で言葉ならないのだった。見ていると恵令奈は自分まで泣けてきた。駆け寄ってその女の子を抱きしめてしまった。「怖くないよ。大丈夫だよ。私が助けてあげる」
しばらく泣いているとその子は落ち着いてきたのか恵令奈の腕の中で少しづつ話し始めた。名前はかおりと言った。案の定、母親とはぐれていたのだった。母親のいない恵令奈には分かりにくい感情だった。親とはぐれた子供の気持ちはわかる。駅員の誰かに預けたいが自分の顔を見られるわけには行かなかった。どうにかしなきゃ、この子供を置いていこうとするには遅い気がする。かわいそうだなんて思わない。これが母親を求める子供ってものなんだ、そう思うと珍しさや興味が湧いてきて人の良さそうなキオスクのおばさんに預けるか。きっと細かい事を詮索せずに引き受けてくれる気がする。周りの人が私たちを気にしている。恵令奈はなるべく顔を上げずにうずくまったまま高い身長もごまかした。
その時向こうから警備員みたいな制服を着た男が二人で歩いてきた。だめだ逃げなきゃ。でも子供はしっかりと恵令奈にしがみついていた。こっちに気づいたみたいだ。視線を感じる。声をかけられたらもう終わりだった。ちょっとくらいなら上手く誤魔化せるかもしれない。近づいてくる二人の足を横目に見ながら気持ちを落ち着かせた。キオスクのボックスのすぐ脇に公正堂化粧品のポスターが貼ってあった。見覚えのあるポスター。私の顔が大きく映し出されていた。その時マクドナルドの脇の階段を登ってきた女の人が私たちに気がついて駆け出した。カオリーーー!
ビクッと子供が震えた。母親だとすぐにわかった。駆け寄った母親は綺麗な人だった。恵令奈は目が合わないように俯いていた。警備の男たちは何も言わず恵令奈たちの脇を通り過ぎて言っただけだった。
「ちゃんと待ってなきゃダメって言ったでしょ」母親はカオリを突然怒鳴りつけた。恵令奈は自分の見てる前でキレまくる母親に驚いた。カオリは手をぎゅっと握って俯いていた。震える唇を硬く閉じていた。
「ちょっと、いい加減にしなさいよ」私は反射的に母親を突き飛ばした。キレてるのはどっちだと自分で気付いた時は、すでに冷たい床に倒れた母親の方が驚いてこっちを見ていた。恵令奈はカバンを持つと周り一番広く空いた人の隙間に向かって走り出した。一瞬カオリと目が合った。他の誰とも目を合わせなかった。白い床に映る天井の照明の明かりが反射していて走るたびに揺れた。俯いたまま何度か誰かの肩とぶつかったような気がする。駅の出口から外へ出たところで振り返った。さっきの警備員も追いかけてこなかった。
もっと騒ぎになると思ったが、誰も何事も無かった様に自分の目の前だけを見て歩いていた。恵令奈なんかには気づいてもいなかった。上がった息が落ち着くには時間がかかりそうだった。
恵令奈はただ一瞬のカオリの目線を無視して走って着たしまった事に罪の意識を感じた。父のやってる事と大して変わらない気がした。
北口を抜けてバスターミナルの横を早歩きで過ぎると、タクシー乗り場が有った。宿までの距離は3キロといったところ。恵令奈は並ぶタクシーを横目に
歩いて駅前の交差点を東向きに横断した。携帯ともらった地図だけ部屋に着く頃には、どっと疲れが出て体が普段の何倍もの重さに感じられた。道は歪み空から雨に泣き出しそうだった。無性にお腹が痛い。朝からほとんど何も食べていないのにどうしちゃったんだろう。駅から車で10分程度の川沿いのごちゃごちゃした街にある目立たないゲストハウスが私の隠れ家だった。
宿はいわゆる京町家って趣を持っていた。でも意外と周りには同じような家が並んでいた。
ここじゃ珍しいものではないようだった。開きの扉には鍵がかかっていて脇の古臭い押ボタンを押すと中でチャイムが鳴ったのが聞こえてきた。私は偽名で取られた予約でしばらく滞在する事になる。1ヶ月も連泊したら怪しまれれるんじゃないか。違う、この宿の人もも知らん顔してるけどグルなんだ。私が捕まったら偽名だったからって言い訳するんだ。そうに決まってる。
父から電話がかかってきた。ゲストハウスに着いたか?うん着いたよ。父が怯えているのが良くわかる。未だになんでバレちゃったかわかんないけど、こっちの方が大変そこまで気が回らないくらい怖がっている。
「誰にも見られなかったか? SSNとか繋いだり電話とかするんじゃないぞ。1ヶ月位はそのゲストハウスで
隠れてるんだ。外にも出るなよ。それにもし、俺からの連絡が途絶えても東京には絶対戻るなよ」
無理しないでよ。恵令奈はそう言おうとしたら、指示ばっかり一方的に喋って父の電話は切れた。さっき誰にも気づかれなかった駅で走り続けた白い照明を思い出した。なんだか無性にがっかりした。逃げ回ってももう先は見えてる。さとう恵令奈はもう終わりだし。パパとの家族事務所ももう終わりだった。
5)夜になった頃から、寒気と頭痛がひどくなってきた。風邪じゃない。やっぱり薬が切れた時のブルブルだ。初めてブルブルを感じたのは高一の夏休みだった。もうだめだ。クスリがほしい。どうにか手に入らないかな。 これまでクスリ打って頑張ってきんだから急にやめるなんてできっこない。宿の人に言ったらくれるだろうか。お金は後から払えるかもしれないし。クスリやめるにしても少しづつ減らしていくとか、体に負担がかからない方法があるんじゃないの。あのヒステリックなおかみさんにちゃんと聞いてくればよかった。電話番号もラインとかも知らないし。喉が乾く、水飲んでごまかそう。きっと何か食べたりしたらましになるのかな。
幻覚を見るように、外へ出た、もう夜だった。昼間とは違う暗い路地に戸惑う。ブルブルするけど暑い。ちょっと街の方まで歩けば誰か売ってくれそうな人がいるかもしれない。この辺だって街があるんだからきっとクスリ打ってる人だっているかも。うまく見つかればいいけど。
迷路のように見える初めての路地の奥でフラフラ彷徨う。不思議なほど誰にも会わない。誰もいないよね。その方がいいんだ。だって私の顔を見られたらダメだから。それに春樹が探しにきてくれるから、そうしたらきっと家に帰れる。
あぁ、クスリなんかやらなきゃ良かった。だって春樹に秘密を持ってしまったから。ひとりぼっちじゃないのは春樹といる時だけ。なのに春樹を一人にしちゃった。隣にいた私があなたに伝えていなかったんだから。手をもっとしっかり握っていたら私たち、離れ離れになることなんてなかった。
気がついたら私は、町屋の宿の中庭で眠っていた。薄ら寒い夜明け前だった。なんだか、気分がすっきりしていた。もう抜けたかもしれない。なんだか心が軽くなった気がした。まだ1日しか経っていない。だけどこの様子ならうまくやれそうだ。父の安堵した顔が目に浮かんだ。ひょっとして春樹にもバレないでやり過ごせるかもしれない。クリアになった頭で色々と考えている。クスリなんかやっていない。ダイエットピルをずっと服用していてそれは副作用があるし、飲みすぎた可能性はあるけど、モデルやってると痩せるためのプレッシャーに24時間絶え間無く襲われている。なんだか自分でもそういう気がしてきた。あれ私ってMDMじゃなくって本当にダイエットピルだけを飲んでたんじゃなかったかしら。少しくらいはMDMだったかもしれないけど、みんなが思っているよりもその量は少ないと思う。きっと。だから1日で抜けたのよ。まずシャワー浴びたいな。気分が良いから変装して 近くのカフェまで歩いて、でお茶とかできるんじゃないかな。
相変わらず人気のいない宿。誰もいないのでそのまま外出するが、途中から何をしにきたのかわからなくなる。電気量販店が数件ならぶ通りに出た、そこでテレビで自分のニュースが出ていた。警察はゆくえを追っている。ワイドショーで司会者が、私に呼びかける。たくさん並んだテレビ画面が大きいの小さいの。全部が私を見ている。私がここにいるのはバレているんだ。
恵令奈さん、どこにいるんでしょうか。国内のどこかにいると思われます。
やはり、体から薬物反応が抜けるのに最低2週間は必要なんです。
汗が止まらない。周りのみんなが私を探している、興味本位で芸能人をディスる人たち。私だって普通に恋してるだけなのに。春樹に薬のことがバレたらどうするの。電気店の人がこちらに歩いてきた。 もしかしてこの人もクスリのネットワークの一味。誰が誰なのかわからない。スパイだらけだ。春樹を迎えにいく気になってしまい駅に向かおうと歩き出すが、そこで宿の芥川に腕を掴まれ黒塗りのミニバンに乗せられて宿に連れ戻される。
その夜は激しい禁断症状が出た。本物だ、頭の中がぐるぐる回る。芥川が睡眠薬をくれて眠れるはずだった。
「クスリ我慢できなくなったら言ってください。俺と寝てくれたらMDMあげてもいいですよ。ヘヘ」
芥川が趣味の悪い口元の歪んだ笑みを浮かべて言った。
「あ、でも簡単には値を上げないでくださいね。これでも恵令奈さんのこと頼まれてる立場なんで」
睡眠薬は全く効かなくて、恵令奈の身体中の血管の中に蛆虫が這い回ってるみたいだった。ダメだ、春樹助けて。 ずっと叫んでいた。でも声になってはいなかった。部屋の外に出ようとしたがドアは外から鍵がかかっていて開かなかった。パジャマは汗でびっしょり濡れていた。体全部から水分が抜けて、あぁダメな痩せ方になる。運動をして筋肉を薄くつけて代謝から痩せていかないと綺麗な体のラインが作れない。欲しい欲しい。クスリをくれるならなにをしてもいいと思った。携帯、春樹の声を求めてしまう。絶対出ない。どうせ仕事中に決まってる。
TVを付けると朝のワイドショーは恵令奈のニュースばかりだった。佐藤恵令奈は京都に潜伏か! とキャプチャーが出ている。ばれたんだ。駅で騒ぎなんて起こさなきゃよかった。画面には見覚えのある顔。駅のキオスクにいた人のよさそうなおばさんがカメラに向かっていた。
「見たんですよ。親子の旅行客に絡んでいて、なんだか様子が変でした。あれば薬物中毒の症状なんだなって、すぐにわかりました」
あぁ、もうどうでもいいやって。私が何をしたっていうんだ。クスリ打ったって貴方には、なんにも迷惑をかけていないでしょ。独り言だった。法律違反だっていってもパパが渡してきたんだよ。それで元気出して仕事してきたんだっていうの。 うわぁ!恵令奈はさけんで閉められたドアをたたき続けた。「よこせよ。よこせよ、持ってんだろう! クスリがなきゃやってけねーんだよ」ドアを蹴り続けていると最後には穴がいた。足の爪が割れてドアに血のシミがついていた。さすがに息が切れて開かないドアをにらみつけていた。このドアの向こうに芥川が白けた笑みを浮かべて立っているのが見えた。手には薬を持っているのがはっきりとわかる。感覚がギラギラと鋭敏になってくる。この街にもどんどん雑誌記者たちが押し寄せてくる。車だ。駅からタクシーだ。どうしてこの宿の場所を知っているのか。芥川の手引きだろうか。裏切ったのかもしれない。父もここには助けにこれないのに。もう外へ出て逃げるしかないかもしれない。外に飛び出した恵令奈を芥川が追いかけてきた。はなしてよ。父に電話しようとした。どうしてでないの。そのとき芥川が恵令奈の携帯を取り上げた。
「禁断症状が出るとどこに電話するか分かりませんから預かっておきますね」
外に出ることは芥川に止められる。そして僕と寝たらクスリを上げるといわれる。もうなんでもいいと思った。あぁ、いいよって言おうとした瞬間。TVのワイドショーから春樹の声がした。
「恵令奈どこにいるんだ」 今一番聞きたい声に惹かれて、開けかかけたドアノブから手を放して画面を食い入るように見つめた。テロップで、’’生放送。筧 春樹 引退宣言。 佐藤恵令奈と恋人宣言か!’’ と出た。
「俺がお前を守るから戻ってきてくれ」春樹は持ち前の真っ直ぐな目線で画面越しに訴えていた。その言葉は世界でただ一人だけ、恵令奈のために力強く紡がれていた。
なんて馬鹿な事してるんだろう。春樹って正直すぎる。騒ぎが大きくなるだけなのに。でも泣けてきた。そんな馬鹿な事してくれる人ってもう春樹だけだった。どうして。そっか、馬鹿なのは私のほうだったんだ。
TVを消して恵令奈は、震える体と戦うことに決めた。モデルを続けることはもうできないかもしれないけど、クスリが抜けたら、本当に自分らしい綺麗な体に戻って春樹に会いに行こう。シミだらけの天井を見つめながら絶え間なく襲いかかる禁断症状を感じながら、ただそれだけを思っていた。指の先まで痺れるように震える。よだれが止まらない。飢えた野犬のように唸り声が出てくる。
「どうしたんだ。クスリ上げてもいいんだよ」そうだこれが幻聴だろう。そうに違いない。その手に乗らないわ。
目の前に、父がいる。もう来なくてもいいんだよ。悪魔のような一日だ。恵令奈は叫び出した。うわぁーーーーーーーーだれも助けに来るわけじゃない。
体の中の悪魔が消えるまで、この暑さと寒さと戦うんだ。寒いのに汗が止まらない。目が頭蓋骨から飛び出してしまいそうで、恵令奈は自分の眼を押さえた。 骨がきしんだ。もう宿の前にワイドショーのスタッフがカメラを設置している音が聞こえる。もう来たんだ早い。いや違うこれは妄想だ。外の音なんか聞こえるわけがない。私はまだ正気だ。春樹が支えてくれるんだから。耐えなきゃ。春樹が来てくれるまで。カーペットをかきむしる爪が剥がれる。 うわぁーー恵令奈は何度目かの叫ぶ声をあげた叫んでいないとクスリの誘惑に飲まれてしまう。何のためにクスリをやめるの、別に必要だったんだから仕方なかったんじゃん。でももう違う。春樹が私を呼んでいる。クスリの抜けたちゃんとした私を呼んでいる。春樹が私の手を掴んでいてくれたら戻れそう。ウワアァー。嗚咽、吐き気。でも涙も吐瀉物も何も出てこなかった。こうして夜が更けてまた夜明けが近づくころ。恵令奈は禁断症状が治まっていくのを感じた。波のようにまた襲ってくるかもしれない。でもその間隔は徐々に長く空くように変わってきた。禁断症状に慣れてきたのかもしれない。そんなことがあるのだろうか。
明け方、恵令奈はゆっくりと立ち上がった。昨夜より意識が明確になった。いないはずの父が裸足で追いかけてくるなんてこともなかった。不思議と部屋のドアは開いた。鍵がかかっていたってことが幻覚だったのかもしれなかった。1階に降りると洗面所で顔を洗った。やつれて一気に老け込んだ、落ち窪んだ頰にトップモデルの恵令奈さんの面影なんてなかったけど、変装しなくても新しい自分に変わったような気がして不思議と気に入った。
探して見たが、父にそっくりな芥川って男はどこにも居なかった。 玄関脇の小部屋には太ったおばさんが腰かけてた。一度だけ見たフロントの人。最初にいた女の人だった。恵令奈には目もくれず俯いて本を読んでいた。 もしかしたらクスリが抜けてきたのかな。こういう感じなんだ。鉛のように重い体を引きずる様に歩く。決してすっきりなんかしない。マラソンを走りきった後みたいだったが、あの吐き気やイライラしたりすることはないから
気持ちは落ち着いている。どうやら禁断症状のピークは抜けたようだ。だんだんと周りの事を考える余裕が出てくると、明日からのことが怖くてたまらない。見ると足も腕もそこらじゅう痣だらけ。よく一晩持ったなって思う。
クスリが抜けるってこういうことなのか、自分がそのままむき出しでいる事に気がついて怖くてたまらない。
モデルなんて、もう辞めたい。しばらく誰にも会いたくない。春樹に会えたとしても、迷惑をかけちゃうだけ。どんな顔で会えばいいの。無理よ無理。
事務所の従業員の人とかに電話しておいた方が良いのだろうが、この騒ぎではできそうにない。昨日のTVの事を思い出すと数ヶ月は隠れている必要がありそうだった。私なんて事してたんだろう。何もかも終わりだ。
京町家作りの薄暗い廊下の奥から中庭に通じると、恵令奈の足はそのまま建物の裏側へと進んだ。朝日が庭木の枝の隙間から照らさないように恵令奈の髪を温めた。裏口をゆっくりと開けるとそこは道路ではなく細い川が流れていた。建物が川べりに立っていたのだ。石積みの川べりは自然の仕切りになっていて、古いゲストハウスとそれ以外の街を厳しく隔てていた。
恵令奈は庭にある梯子を持ってくると、自分の立っているところから下を覗き込むよう身を屈めてその梯子を下ろした。せいぜい2メートルくらいの高さから下に降りる道となった。恵令奈は河原に降りると、朝の柔らかい日差しの中を川を登る方向に歩き出した。
朝が早いせいか周りには誰も歩いていなかった。すぐに眼前に川を渡る橋が現れた。まず一本、しばらく歩き また一本の橋の下をくぐり抜けた。川はどこまでもずっと続いていた。しばらくして恵令奈は、河原から道路へ登る道を伝い、また知らない街に出た。朝が早いせいか誰もいなかった。
橋を恵令奈の宿があったのと反対の側に渡った。そちらの街にはもう朝日が差し込んでいた。向こうから犬の散歩をする老人が歩いてきてすれ違ったが、老人は犬にばかり気を取られていて恵令奈には全く気がつかなかった。もっともやつれた表情では見てもわからないかもしれなかった。もう私の帰る場所がない。これからどうしたらいいんだろう。パパは私をどうするつもりだったんだろう。
うっかり携帯を宿に置いてきた事に気がついた。なんかパパと連絡が取れる事にさほど意味が無い気がする。春樹にも連絡をとってはいけない。私とは関わり無いという事にしてしまわないと。それより雑誌編集部やモデルイベントの人達の顔が眼に浮かぶ。クスリ打ってたなんて誰も知らなかったからショックを受けているだろう。私はみんなを騙していた。時には笑って話したこともある、アドバイスしてくれたり、叱ってくれたり。家族みたいなものだったよね。私には思うよりは沢山の支えがあったんだし、クスリなんてなくてもやってこれたんじゃ無いのかな。私、私、私。私が戦ってきたものってなんだったんだろう。それこそが幻覚だったんじゃ無いかな。
また頭が痛くなってきた。波の間隔は空いているものの、それが終わったわけじゃない。坂道を登っていくと、神社の鳥居が見えた。大きい赤色と、石でできた小さな鳥居。なぜか2種類の鳥居があった。ここでは並んでいるが鳥居はそれぞれ別の参道に続くようだった。さらに登っていくと、石畳の脇道が見えた。神社そのもに自分なんかが近づくのは気が引けて、恵令奈は脇道に引かれた砂利の上をザラザラと鳴らしながら歩いた。
細く畝りつつ山に沿うように道は続いた。遠くから何か音楽が聞こえてきた。聞いたことのあるメロディだった。子供の頃だったろうか。時々口ずさんだような、いつのまにか忘れてしまうような、その時にだけ知っている唄。惹かれるように足を早めた。 そこは鉄のフェンスで囲まれた広い場所だった。中に何があるのかよくわからない。所々錆びついたフェンスの周りを回ると、一箇所だけ破れたところがった。奥に何かが見える。そこから音楽が聞こえてくるのだ。決められていたかのように中に忍び込み、恵令奈はそれを求めた。見つけるとステージだった。屋根はなく、コンクリートで丸く作られた野外ステージだった。さらにステージはすり鉢状に作られた客席に扇状に囲まれている。あぁここから聞こえていたのね。
ステージには誰もいなかった。朝も早く音楽が聞こえていたことが不思議だった。どこかにスピーカーでもあってラジオなんかを繋ぎっぱなしだったのだろうか。でも唄も音楽も今は聞こえなかった。
恵令奈は、客席の階段を一段づつ丁寧に降りていくとステージに登った。振り返ると、昨日まで見慣れた壇上からの景色が広がった。
その時コツン、コツン。リズミカルなそれでいて軽やかな音が聞こえてきた。だれ? そこにはステージの日よけ替わりのシャッターから落ちてくる水滴だった。昨夜は雨だったのだろう。 コツンコツン それは笑いかけてくるようなリズムだった。 しばらくすると鳥たちがどこからか集まってきて、恵令奈に向かってさっきまで聞こえてきたメロディを歌い始めた。
お前たち、こんなところで人間に内緒で唄を歌っていたのね。 振り向くとカエルが現れて水滴の貯まった空き缶を叩いている。面白い事に彼らは缶の中の水の量で音の高さを調整していた。まぁ、面白い楽器ね。カエルたちはこっちを見てニヤッと得意げに笑った。狸がリズムを重ねてきた。それらはパーカッショニストだった。
みんなが見てる。私に歌えって言ってるのね。こんなところで歌うのなんて初めてよ。ねぇ、私なんかで大丈夫かなぁ。恵令奈は微笑んで他に誰も居ないステージを軽やかに歩き出した。
遠くから風に乗って、パトカーのサイレンのような音が聞こえた。恵令奈は気にせず、両手を広げて体全部で朝東風を浴びてしなやかに揺れて見せた。陽の光が恵令奈の薄い背中を照らした、太陽のライトを浴びて恵令奈は歌い始めた。細い首をまっすぐ伸ばし薄い唇から透き通った声がしっかりと出た。
終わり