精神の自傷
「触れてはいけない物というのは 触れてしまいたくなるものね」
ジョジョに出てくる敵キャラのセリフである。
誰しもが心の奥深くに、半ば無理矢理閉じ込めた記憶があると思う。それは例えば「いじめ」であったり、「恋愛」であったりと、人それぞれ形も大きさも違うが「それ」は確かに存在するだろう。僕にも抱えきれないほど大きな、ひとつの「それ」が居る。中身が何かは墓場まで持っていく秘密だ。
普段は心の奥深くに何重にもロックをかけて見えないように沈めている「それ」。対面することが無ければ心に余計な傷を作らずに済むのだが、ある日、ある夜、突然「それ」を閉じ込めている箱のロックを外して中身を見たくなる。理由は自分にもよく分からない。案の定精神には多大なダメージが刻まれるのだが、闇に沈む最中になんとも言えない「心地良さ」が生まれることに気がつく。
「心」というものは概念に過ぎず実態は脳の働きで感情が動いている、といえばロマンが無いが、このなんとも言えない心地良さは、目を背けたい過去のトラウマを敢えて見るという心の自傷から生まれる安心感なのではないだろうか。かつて太宰治になりたいボーイ氏は言いました。「不幸って居心地がいいんだよな」と。彼のこのツイートは本質をついていて、病んでる人や沈んだ心に慣れた界隈の人間にとっては「世間一般の普通」の感覚を味わうより、慣れ親しんだ「陰鬱とした心」でいたほうがある意味幸せなのだ。心が闇に沈んでいく感覚、嫌いじゃない人も少なからずいると思う。「心」という物理的にカッターやカミソリで切れない物を傷つけて心地よい闇へと堕ちる為、人はあえてトラウマを閉じ込めた箱のロックを外すのではないのだろうか。