1話 目撃
そうだ、海に行こう。
何となくそんな気分にであった。ホームルームを終え、とめどないお喋りを始めるクラスメイトが視界の端に映る中、俺は急ぎ帰り支度を済ませる。
喧騒が煩わしい教室を出た所で、同じ美術部に所属する山本とすれ違いざまに声を掛けられる。
「美田君は今日も部活に来ないのかな?」
「ああ、今日も外で描いてくる」
「そっか、分かった。偶には顔を出してよね」
部活に来ないことを咎めるものでも、心配するものでもない声色にどこか安堵する。
「あ、後、最近行方不明者が出てるんだって、1人で外にでるなら気をつけてね。」
物騒だよねー、そう付け足すように言う山本に俺は別れを告げ歩き出した。
昇降口で上履きからスニーカーに履き替え、太陽が照りつける外に出て、自転車置場へ向かった。愛用しているスケッチブックとペンがバックに入っていることを確かめると、海を一望できる岬へ向けて自転車を漕ぎ出した。
(今日は日差しが強くて夏の訪れを感じられるから海を見たくなったのかもしれない)
背中の汗を鬱陶しく感じつつ、道を早いペースで駆け抜ける。
20~30分ほど自転車を走らせると、ちょっとした観光名所となっている岬へ案内する標識が目に入ようになった。残り2 kmだそうだ。道中に点在する砂浜にはチラホラと人影らしきモノが見える。サーファーだろうか? 海開きはまだ先なのに熱心だなと感心してしまう。
そうこうしている内に、岬入り口の公園へとたどり着く。観光客向けであろうこぢんまりとした土産屋や定食屋が並んでいるが、客は入っていないように見える。客入りがないのは平日だからであろう。
店の前を通り過ぎ、岬の先端を目指す。ここまで来ればあと一息だ。先端までの道はアスファルトで舗装されていて、自転車に乗ったままでも苦労しない。マナーとしては自転車を手で押して歩いた方がいいのだろうけど、さっきの店同様に他に人がいないのでよしとする。
岬の先端まで来ても無人であった。最先端の岩場の上には如何にもカップルが絶景を眺めるためのベンチも当然空席である。
(こちらとしては描きに来たので、静かな方がありがたい)
海を描くのに最も適した場所はそこにあるベンチであろうが、あいにく独りでハートがふんだんにあしらわれたベンチに座る勇気は持ち合わせていない。次善策として、その隣の岩場に腰掛けた。辺りを見回す。
海と空が織りなす青と白のコントラストに視界は染まり、海風と波が奏でる音を耳が捉える。自然の美しさに暫し心を取られていると、汗は次第に引いていき、自転車を漕いできた疲労感は心地よさへと変化していく。
しばらくこうしてくつろいでいたいが、そうも言っていられない。現実は非情であり、時間は有限である。
今回で言うなれば、辺りが暗くなるまで。スマホを取り出し時間を確認する。
(暗くなるまで後1時間半ってところか。ここできっちり色を塗ることは無理だろうな)
分かっていたことであるので特に気落ちすることない。バックからスケッチブックとペンを取り出し、両目を閉じて集中する。
気持ちが落ち着いたところで右目を開き、あたりに目を凝らす。
視界に入るのは先程と同じ、青と白。
(今日は、何も見えないか)
異常が見られない事に落胆し、ついため息を吐き出してしまう。
だが見えないモノは仕方がない。右目をつぶり、左目を開き、目に映る景色を描くことに取り掛かる。
ペンをサラサラと走らせ、スケッチブックに描き込み始めた。
一通り線が引けたところで、ずっと閉じていた右目を開き、小休憩に入った。岩場に座っていることや姿勢が悪いからであろう、あちこちが凝り固まっている。
もう人は来ないであろうから、恥ずかしいとか迷惑だとか考えずにベンチに座ってしまおう。
そう決断を下しベンチに目線を向ける。
そこには、1人の少女がベンチに座っていた。
「--ッ」
驚き、声が漏れてるが、彼女の耳に届いた様子は見て取れない。
左目で見てみる。誰もいない。再び右目を見開く。
少女は先程と変わらずそこに存在し、何をするのでもなく只々海を眺めていた。
(混沌とした異型の生き物。理解の及ばない超常現象。知りたくもない真実。右目が不思議なモノを見せつけてくるのはいつも通りなんだけど)
手を伸ばせば届きそうな位置に人間を見せてきたこれまで一度もない。初めての事態に思考が停止し、彼女から目を離せなくなる。
ボーーッ!!!
唐突な大きな音に我に返る。今のは汽笛だろう、気がつけばいつの間にか船が前方を通り過ぎていた。
(5分?10分?一体どれほどの時間、彼女を見つめていたんだ?)
時間を失ってしまったことへの焦りから、ペンを持つ手に力が入ってしまう。
いつまでもこうしてはいられない。いつも通りならば彼女はいつ目の前から消えても不思議ではないのだ。
意を決して行動を起こす。心臓が早鐘を打つのは何に対する緊張だろうか。
ベンチの隣に腰掛ける。反応無し。
挨拶する。反応無し。
目の前で手を降ってみる。反応無し。
ためらう気持ちはあるものの、二度とないチャンスだと思い直し、触れようと手を伸ばす。
その手は彼女に触れることなく体を突き抜けてしまった。驚き、慌てて腕を引っ込める。
何をしても彼女は俺の存在に気づく様子はなく、顔を海を向けたままだった。
(結局、いつも通りってことか……)
彼女は何か違うのではないか、もしかしたらこの右目の特異性を説明してくれるのではないか、そう期待していた。
しかしながら、右目に映るは干渉することが不可能なただの映像でしかない。その事実を改めて突きつけられ、落胆する。
世界の見方は何も変わらなかった。
いつしか太陽は傾き、夕日となった。
気力を取り戻し、せめてもと、右目に捉えた少女をいつものように描き残す。
服装は半袖のシャツにショートパンツ。さらけ出された色白でやや細い手足。キラキラと銀色に輝く銀色の髪。
外見的特徴は何とかそれなりに描けた。
だが、端正な顔を彩っている憂いを帯びた表情を表現できず、何度も描き直している。
(何故彼女はそんな表情をしているのだろうか?)
描きながらそんな疑問を覚え、人の事を詮索しない普段の自分とのギャップにどこか可笑しくなってしまう。
彼女を生きた人だと感じられないからそんな興味を持ったのだろうか。
やがてタイムリミットが訪れる。
ついぞ納得のできるものは描けなかった。今まで人物画に取り組んでこなかったツケだ。自分の不甲斐なさにため息をつきながら、荷物をバッグにしまう。
最後に少女の表情を目に焼き付けようとと顔をあげると、
少女は知らぬ間に見えなくなっていた。