桜木の下で恋が笑う
――私は、山下先輩のことが好きだ。
呼吸をすれば、卒業式後の校舎からは学生たちの喧騒が感じられる。
それは、すぐそこに迫った別れを惜しむようでもあり、これから先に続く輝かしい未来に思いを馳せているようにも感じる。
様々な感情が入り混じったその空気は、まさしく春の訪れを告げていた。
その校舎を背にして、私の足は少し離れた校庭の端へ向けられている。
そこにあるのは、一本の桜の木。
日本の春を形容するその悠然とした姿を見ていると、少しだけ、自分も強くいられる気がする。
「山下先輩。どうしたんですか、こんなところに私を呼び出して」
すでにいた先客の背中に、私は声を掛けた。男性が勿体ぶるようにゆっくりと振り向く。
「……やあ。よく来てくれたね、美咲くん」
「待たせちゃいましたか? 一応ホームルームが終わってすぐ来たんですけど」
「大丈夫さ。この桜の木の下で、過ぎ去っていく時間に思いを巡らすのは悪い気分ではないよ。春の香りは、僕たちの心に安らぎを与えてくれる」
「ちょっと何言ってるか分からないですね」
軽口を叩き、先輩の方へ一歩近寄る。踏みしめた花びらが地面と擦れ、乾いた音を立てる。
「そんなことより、早く私をここに呼んだ理由を教えてくださいよ。急にLINEで『卒業式の後、桜木の下で待つ』だなんて……びっくりしましたよ」
口では平静を装っているけれど、私の心臓の鼓動は少しずつ速度を上げていく。
だって、もしかしたら先輩は――。
「美咲くん、君も知っているだろう? この桜の木の“伝説”を」
きた。私は息を飲む。
「……えーっと、確か昔、既婚の男性教師と不倫関係になった女子生徒が大恋愛の末奥さんに殺されてしまった時の死体が埋められているんでしたっけ?」
「いや怖いよ。雰囲気台無しだよ。これからミステリー小説でも始まるのかよ」
「だって先輩、物語の序盤で速攻で殺されそうなエセ探偵みたいな喋り方してるじゃないですか」
「僕のことそんな風に思ってたの!?」
「……先輩の足元、何かを掘り返したような跡がありません?」
「マジで!? ……って、そんなわけないだろう! からかうのはやめたまえ!」
「あはは」
慌てふためいた先輩の反応に、思わず笑みが溢れる。
ずっと素直になれなかったけれど、私はこういう風に素直に感情を表す先輩のことが好きだった。
ぎゅっと拳に力を入れて、決意を固める。
「知ってますよ。『卒業式の後、桜の木の下で告白が成功したカップルは、永遠に結ばれるであろう』……ですよね」
先輩がそれを知っていて私を呼んだということは、やっぱり先輩も私の事が――。
この胸の高鳴りが、表情に出てはいないだろうか。
「その通りだよ、美咲くん。この学校の開校当初から生徒たちを見守ってきた桜の木。その美しさから、いつしかこの学校の聖地として知られるようになった」
「……先輩は、そんな噂話みたいな伝説を信じているんですか?」
「信じているわけではないよ。ただ、看過はできないと思っている。本当はこの桜の木にそんな力がなくても、そういった伝説から精神的に力を貰えるということはあるからね」
風が吹いた。
花びらと一緒に、色々なものが巻き上がる。
気持ちとか、体温とか、そういったものが。
「……それで、結局何が言いたいんですか? 早く教えてください」
「ああ、良いだろう。ーー美咲くん。僕はこの春で、この学校を去らなければいけない。それは知ってるだろう?」
「……もちろん」
春は別れの季節。
誰が言った言葉なのかは分からないけど、それは確かに現実になって、すぐそこまで近づいてきていた。
私がこの学校に来て1年、先輩は色々なことを教えてくれた。
確かに少し変な人だけど、それでも彼がいなければ、私はここまでやって来れなかったと思う。
先輩のいない学校を、私はどうやって過ごしていけばいいんだろう。
先輩がいなくなってしまうと知ってから、もういくら考えてもどうしようもないなんて分かっていたけれど、私の頭の中はこのことでいっぱいだった。
それでも——
「美咲くん。最後に、君に伝えたいことがある」
どうかこの楽しかった思い出だけは、永遠に続きますように。
◇
「あそこにいるの、山下先生と美咲先生じゃない?」
「あ、本当だ。今年もいるんだ、山下先生」
卒業式後の教室で、二人の女子生徒が校庭にある二つの影に気づいていた。
「今年も……って、どういうこと?」
「知らなかったの? 山下先生、毎年卒業式の後になると桜の木の下で生徒を待ち伏せしてるんだよ」
「えっ。なにそれやばっ! なんで?」
「さあ? 変わった先生だからね」
「ふーん……じゃあ、美咲先生は?」
「そっちも分かんないけど……もしかしたら、何かあるかもね」
女子生徒は含みがあるようにニヤリと笑う。
「ん、どういうこと?」
「分かんないかな? 美咲先生、いつも山下先生のこと見てる気がしない?」
「あっ、たしかに!」
「あれは、恋をしてる女の目ですぜ、奥さん」
「口調急にどうした」
「とにかく! 『伝説の桜の木の下に若い男女が2人きり』……これは、恋の匂いがしますな〜」
◇
「まあ、こんなことだろうとは思いましたけどね」
軽い溜息をつき、私と先輩は桜の木から少し外れた草むらの中で息を潜めていた。
大の大人が周りの視線を気にして草木の中に隠れている。側から見れば、と言っても見えないように気を配っているわけだが、極めて異様な光景だろう。
「仕方ないだろう、美咲くん。はっきり言って、僕は教師の中で君以外に友人がいない。だから君に頼むしかなかったんだ」
自分で言って悲しくならないんですか、その言葉。
「だからって、先輩の妙な性癖に、私を巻き込まないで欲しかったですね」
「妙な性癖とはなんだ!」
先輩は心外とばかりに憤慨する。
「……生徒たちの告白を邪魔するために桜の木で待ち伏せしておくなんて、正気の沙汰じゃありません」
「邪魔とは酷い言い草だ! これは生徒たちの不純異性交遊を防ぐためで、それ以上でも以下でもない!」
「不純って、戦時中じゃあるまいし」
「何を言ってるんだい美咲くん! いいかい、学生時代の恋愛なんて錯覚だ、夢だ、幻想だ! いずれ大人になった時、枕に顔を埋めながら恥ずかしい思いをすることになるのは彼ら自身なんだぞ? 我々、教師には子どもたちの将来を守る義務があるんだ!」
身振り手振りを加えながら、力の籠もった熱弁を振るう先輩。
……ふむ。
「先輩って、確かここの卒業生でしたよね?」
「そ、そそ、そ、それがどうした?」
「……もしかして、学生時代にここで告白してフられました?」
「な、な、なな、なんてことを言うんだ美咲くん! こ、こ、この僕がフられるなんて、そんなわけないだろう!」
なんて分かりやすい男なんだ。
「自分の嫌な思い出のために、生徒たちの青春を邪魔しようなんて教師の風上にも置けませんね」
「だから違う! 美咲くん、君も教師という立場なら、僕と同じように生徒を守ることを考えるべきだろう!」
「嫌ですね。生徒たちから変人扱いされている先輩と同じ思考になんてなりたくありません」
「え、そうなの? 僕変人扱いされてたの?」
「ええ。生徒たちからなんて呼ばれているか教えてあげましょうか? 2組の田中くんからは『節約のためにトイレの水3回に1回しか流してなさそう』、4組の佐藤さんからは『トイレットペーパー使った後は全部三角に折ってそう』、5組の村山くんからは『家に友達呼んだら小便も座ってするように言いそう』とのことでした」
「なんで全部トイレ周りに偏っているんだ?」
「でも私は嘘だって分かりましたよ。先輩は家に友達呼ぶことなんてありませんもんね」
「あ、やめて。他人に言われるとやっぱり傷つく」
しゅん、と先輩は俯いて動かなくなった。
……ちょっと苛めすぎたかもしれない。
「……まあ、先輩も4月から異動になってしまうわけですし、最後の年ぐらいは付き合いますよ」
「あの、さっきも伝えたけど、この桜の木で僕のような犠牲者が出ないように、後を引き継いでいってほしいんだけど……」
僕のような、って認めちゃったよ。
「絶対嫌です。お断りします」
「酷い……」
先輩は自分の考えを理解されなかったことにぶつぶつと不満を漏らしている。
やりすぎたかと少しだけ思ったけど、まあこれぐらいは良いだろう。
期待させるだけさせといて裏切ったのは先輩の方、本当はまだまだ言い足りないぐらいだ。
そう、言い足りない。
先輩への不満も、それ以外の感情も、全部。
「それに——今年で、その嫌な思い出が終わるかもしれませんよ?」
「……ん? どういうことだい、美咲くん?」
さあ、勇気を振り絞れ、私。
この鈍感な男は、私の言葉にどんな反応をするだろう。
教師としてこの学校に赴任して1年。辛いことも、苦しいこともあったけど、先輩がいたから笑ってこれた。
だから、別れの悲しみなんて、今回も全部笑いに変えてしまおう。
「ねえ、先輩。わたしは——」
花びらが空を舞う。
ピンクの色が、私と先輩の周りを包みこむ。
伝説の桜の木が、本当にその力を発揮してくれるかは分からないけど。
それでもきっとこの感情だけは永遠に続きますように、と私は願った。
お読みいただきありがとうございました。
連載中の「夢追い虫狂騒曲 〜チャンスの前髪はトイレから流れてくる〜」もどうぞよろしくお願いします。