かすみ草と僕。
暗く寒い冬の街の中、坂を上る。地面に積もった雪には二人分の足跡が残る。僕は女の人と手を繋いで歩いていた。手袋越しに、よろしくと言われているようだった。その女の人はリリイさんという名前らしい。
今日、母の葬式が行われ、僕は一人の身になった。そんな僕を引き取ったのがリリイさんだった。
はあ、はあ、と息をするとそれは白く染まる。
初めて上る長い坂。初めての街。初めての家。
リリイさんは、赤い屋根の家の玄関の前で立ち止まる。ここが今日から、僕の家になるのか、と僕は思った。
リリイさんが片手でドアを開ける。ギイーと鈍い音がする。
家の中に入る前に肩や頭につもった雪をはらう。靴を脱ぎ、ゆっくりと中に入る。今日から自分の家になるのだから、お邪魔しますは言わなかった。
家の中にはだれもおらず、明かりもついていないため、真っ暗であった。古い家であるから、少し不気味だ。リリイさんが小さな豆電球をつける。部屋が橙色に染まる。温かさを表す色。
「今日から、ここは、あなたの家ね。よろしくね。」
リリイさんはにこやかにほほ笑む。母親と同じくらいの年齢の女の人。今日から、僕の母親の代わりになる人。僕は、母親が亡くなるまで、リリイさんと話したこともなければ、会ったこともなかった。
リリイさんは遠い親戚。僕の身近な親戚は誰も僕を引き取ろうとしなかった。僕の母親は親戚の中でよく思われていなかったのだろう。僕は母子家庭で育った。僕の母と父は、母方の両親の反対を押し切って、駆け落ちしたという。昔、母が僕に話してくれた。しかし、僕の父親は、母親が身ごもったことをしってすぐ、どこかに消えてしまった。だから、母には、頼れる家族もおらず、一人で僕を育てた。休むことなく働いていたからか、病気にかかり、死んでしまった。
親戚のだれも、僕を引き取ろうとしなかったが、リリイさんは迷わずに僕を引き取る決意をしたという。
リリイさんは、長い栗色の髪を結っており、ほんわかした雰囲気を漂わせる女の人だ。
黒髪で、きつそうな顔をしている僕の母親とはタイプが違った。
僕は、この人と上手くやれるだろうか。
「よろしくおねがいします。」
僕は笑顔で言えているだろうか。
リリイさんは夕ご飯の支度をするため、台所へと消えていった。
僕は座ってリラックスすることなど、到底できず、辺りを落ち着きなく、キョロキョロと見渡す。
壁に掛けられている絵。誰が書いたかわからないが、色使いがきれいだ。
黒色のテーブルと、深い赤い色のソファー。そのうえに掛けられている、茶色のチェックのひざ掛け。
棚の上に置いてあるものに目を移す。リリイさんと女の人が写った写真。花壇の前で二人で笑顔で写っている。今より少し昔の写真のように見える。この女の人はリリイさんの友達だろうか?
写真の隣には、水色の花瓶に入ったかすみ草が飾ってあった。
「そのかすみ草、きれいでしょう?」
いつのまにか、リリイさんがリビングに来ていた。手にはお盆を持ち、その上にはいくつかの皿が乗っている。
「それね、向こうの丘に咲いてあるのよ。とってもきれいな丘だから、春になったら行ってみるといいわ。」
リリイさんは、膝をつき、テーブルの上に、料理を持った皿を並べる。
「さぁ、いただきましょう。」
僕は手をあわせ、いただきます、と言った。
僕は、スープから口にする。
寒い冬の日。母の葬式の日。リリイさんと初めて会った日。
具材の沢山入った温かいスープは、僕の心に沁みた。