冬
冬。
そこに記されていたのは、
郵便屋の少女が届けた手紙のことでした。
色が消えて。声が消えて。
星が流れて。月が消えた。
色んな物を撒き散らし。
私は、落ちた。
黒く濡れた紙。ポケットからこぼれたリップ。
なにか分らないけど、きらきらしたもの。
全部、全部。消えていく。
大事なものだった気がして伸ばした手も、ボロボロと崩れていった。
ああ――なん、だっけ。
もう何も、わからな――
□ ■ □
「……っ!」
跳ね起きた。
「え、あれ? ここ。なに……?」
見知らぬ部屋。窓はない。入り口ひとつ。ひとり用の■■が。
「?」
目が霞んだような。頭の中で何かが引っかかったような。そんな気がして目をこする。瞬きもしてみる。うん。大丈夫。手を見ても、手袋に涙を吸った跡があるだけで――。
「あ。目が覚めた?」
「ひゃぁっ!?」
突然かかった声に、心臓が跳ねた。
「わ……ごめんね! 大丈夫!?」
「は、はい……」
大丈夫、と息を吐くと目の前に■■が。……コップが、差し出された。顔を上げると女の子が立っていた。
肩で揃えた茶色い髪。白い■■、ブラウスに青いプリーツスカート。
その女の子はマグカップ片手に「それならよかった」と笑った。
「驚かせてごめんね。私、キリハ」
そのまま呼び捨てちゃって、と、彼女は隣に腰掛ける。
「んでね。貴女は外に倒れてたんだけど。何か覚えてる事ある?」
「……自己紹介をしたら、次は名前を聞くと思ったのに」
彼女は何も言わず、マグに口を付ける。
「覚えてる事……って」
変な質問。なんて言えなかった。
私の頭の中は、滅茶苦茶だった。
ひとつ残らずバラバラになっていた。
名前? 年齢? 響く雑音。
ここは? 私は? 酷い雑色。
色とりどりで、やかましくて。まるで壁みたいなノイズ。
どれもこれも断片で。断片で。断片で。
自分の事だって何一つ――顔すらも分からなかった。
「うん。聞いても良かったんだけど。覚えてない人、多いから」
黙ってしまった私に、キリハは「いい天気だね」みたいに言った。
ここは「郵便局」で。居る人はみんな「配達人」なんだと、彼女は教えてくれた。
「分かんない事いっぱいあるかもだけど、慣れるから心配いらないよ」
それでも不安げな顔をしてたのだろう。キリハは「大丈夫」とにっこり笑う。
「昔がどうだったとか、名前とか、国とか、年とか。ここじゃあ何の意味もないし」
あったら便利だけど、無くても困らないよ。と彼女は言う。
「あなたも?」
「うん?」
「キリハ、も、何も覚えてない?」
「んー。私はちょっとだけ覚えてたけど」
忘れた事の方が多いかな、となんでもないように答える。
「忘れてしまうのは、怖くない?」
「さあ。どうだろう」
そんなの忘れちゃった。と彼女は笑った。
久しぶりに思い出したな、と白い息を吐いた。
手紙や荷物を届ける日々は戸惑うことも多かったし、混じるノイズにイライラすることもあったけど。キリハの言う通り、そんなのは慣れだった。
誰も私達を不思議に思わない。誰もが愛おしそうに、誰かからの手紙や荷物を受け取り、送る。
そういうものだ。
私達も。私も。騒がしい断片やノイズの壁も。
そういうもの。
小さな門が見えてきた。
木製の門と玄関。小さな庭。空にはパンケエキみたいな満月。私の■■が。影が門にくっきり落ちていた。
鞄から封筒を取り出す。
宛名も何も書いてない、■■な。真っ黒な封筒。
あれ? でも。
私はこの中身を■■――宛先は分かってる。
この家の住人。女の子と二人で暮らす女性に。
呼び鈴を鳴らしても、誰も出てこなかった。
留守かな、と思ったその時。家の裏から物音がした。
「こんばんわ、手紙なんですけどー」
声をかけながら覗いたそこには、■■を。井戸を見下ろす女の人が居た。
振り向いて。
驚いた顔をして。
手に持ってた何かを取り落とした。
「あの」
「……どう。して」
彼女は青い顔で■■へ。地面へ座り込む。
「あの。大丈夫ですか?」
一歩近寄る。彼女は後ずさる。怯えている。
どうして、近寄らないで、と震える声で言う。
「あの、手紙届けにきただけなんですけ……ど」
思わず言葉が途切れた。
落ちてたのは包丁だった。周囲は黒い何かで濡れている。
彼女はひどく怯えてて。
背後の井戸から何かが落ちた■■が。音がした。
「あ。あの。手紙を……」
封筒を差し出す。けど、彼女はそれを見ていない。
ただ、震える手で■■を。包丁を拾い上げ。
井戸を気にしながら、私に震える■■を。刃を向けた。
■■の。母の■■は。顔は真っ青で。今にも■■で。死んでしまいそうだった。
「――て」
どうして。と彼女はつぶやく。
彼女の目には■■が。涙が溢れてて。声は。次第に大きくなる。
「あの」
「どうして! ここにいるのよ!!」
「え、手紙を……」
「今 ! 落 と し た じ ゃ な い !」
「――っ!?」
月を弾いた包丁が見えた。
咄嗟に避けたけど。手袋は切り裂かれて。手紙が舞う。
黒い封筒のはずなのに、月光を通して見えた■■。文字は。
■■
――読めない。
■■ ■■
――赤黒くかすれてる。
■■ ■■
――何かが書いてあるのはわかるのに。
■■ ■■ ■■
■■ ■■ ■■
――ああもう!
■■ ■■ ■■
Why Killed Me?
「――!」
目に入った文字を認識し。理解した瞬間。
何かのスイッチが押されたように、ノイズがざぁ、っと音を立てて組合わさっていく感覚がして。
あ。
全部、解った。
女の人は。私の母、だった人は、蹲って泣いていた。
聞こえるのは、謝罪と弁明と疑問。
それを聞きながら、私は落とした封筒を拾い上げる。
手の甲からは、血が出てた。
”なんで わたしをころしたの?”
それは、井戸の中の私が最期に知りたかった事だ。
答えはもう、知ってたのに。
「あの」
声をかける。
母さん、とは呼ばない。呼べない。
答えはない。
泣いてる背中は小さくて。
なんだか。
なんと言うか。
哀れで。
私が知っている優しく温かい背中じゃなかった。
「……ごめんなさい」
破れてしまった手袋を外して、そっと彼女の肩に触れる。
じわりと何かが染み込んで濡れていく感触がする。彼女は震えている。でも、手を払われることはなかった。
「帰ってこなければ――殺さずに済んだよね」
果物を潰したような音がした。
肩から抜け落ちた腕が黒く変色しながら、ぐずぐずと崩れて土に混ざっていく。
私の手は。触れた人の身体を腐らせてしまう。
治療法なんてない。苦しんで死ぬか殺すしかない。
私は森の奥で発症して。
自分の身体もあちこち変色させて家へ帰り。
母は私を。泣きながら井戸に落とした。
思い出すとショックだけど。でも、仕方ない気はする。
どうしようもないことだったし。
そうするしかないって決まりだったし。
逃げる途中で見た、鏡に映った私は確かに。
化け物だったから。
「ごめんなさい」
ぎゅっと残った服を抱きしめる。
もう、嗚咽は聞こえなかった。
□ ■ □
「あ。おかえりー……って、どうしたのその服」
休憩室に入ると、キリハが目を丸くして声を上げた。
「うん。ちょっと……色々、ね」
それで彼女は何かを察したようだった。
「そっか。ロビンちゃん」
「うん?」
「パンケーキあるんだ。それ着替えたらお茶にしよ?」
「あ。うん」
キリハは何も聞かず、温かいココアを作ってくれた。
手袋越しのそれはとても暖かくて。
パンケーキはおいしくて。
ちょっとだけ、泣きそうになったけど。
それは夜に。とっておくことにした。




