信者と創作
好みについてで、知らず知らずのうちに自分が多数派で自分が否定する側が少数派だと思い込む発言が多々ある。この最も端的な例が信者って言葉だと思う。これをどうにかしたい。私は信者って発想が間違ってるとは思わない。問題はそれに該当するか?が適当すぎる個人的な思い込みだって点。
これ以外にも、人気のある作品に群がる多数派を流されてるだけだって発言。はて?それは人気が有るから取りあえず見てみて、その後の反応は誰でも自分の思いでは?これものすごくアホ発言じゃない?これらの根底にあるのは、自分が気に入らない作品が評価されてるのが不快だという感情で、それに対して意味不明なとんでも理屈を作ってるケースが多い。
そういう君は流された経験があるのか?さてそこで、その人は無いとこたえる。だって流される自分と違う人間が居るから。要るの?多分経験からこいつ流されてるって思い込んだ経験があると見ている。その経験は本当に相手は流されていたのだろうか?そして、その経験すらないかもしれない。自分と他人は全く違うって思い込み。
それはただの好みじゃないのか?そう、これ流されてるって理屈なんて要らないとなる。どう考えてもそっちの方が妥当なのだが。何故こんな複雑な思考をするか?で結局根本は自分が好みじゃないものに他者が好むことへの納得できない不快感にある。この流されてるって発想と、信者は根本的には同根の発想。他者と自分の好みの問題に落とせないためになる。
次に土台がしっかりしたから信者に移ろう。信者はこれに集団の数の論理が入ってくる。これは中年に多い発想だと思う。何故か?まず集団への経験を重ねる可能性が高い。なら出鱈目じゃないのでは?だが間違った把握でずっとすごすと逆にこれが固定化する。おっさんの間違った人生経験の押しつけというとてつもなくうざい話しになる。
もう1つ中年以降多発する理由を示す。根拠もあるこれ5chで多い発言だから。5chは年齢層が高いのは衆知の事実だと思う。この事と関係するのが、過去は確かに多数派が示す好みと言うものがあった。好みは人それぞれじゃないケースがある。人間全体の好みってのがある。分かりやすい例なら病気じゃないと、基本旨味は旨い。
創作にもそういうパターンがある。否定的な人がいても、それでも大多数が好む好みがある。過去日本が発展途上だった時期の名残。どこを区切りにするか?なら分かりやすいのがある。バブル崩壊じゃないか?と思う。そう考えると、その流れがまだ入ってた年齢も含まれる。だから今10代前はなんらかの古い時代の影響を多分経験している。
20代はおじさんじゃないでしょ?だが21ならそうだが、29ならどう思う?これに社会人って線引きもオジサン集団に入りやすい。だからちょうど良いから10代以外カットで考えている。私がズット書いてる一般層って幻想=思い込みがその土台になってる。過去それがあったのは事実で良い。それを経験してる私は納得できる。
だが、今の時代それをそのまま適用して、自分=一般の好みを知ってる人として良いのか?となる。そこから信者って言葉が繋がっていく。当初信者は、本当に中身を問わないような盲目的な受け手をさしていた。顕著な例はアイドル映画だろう。ただこれも中身が無いとは言えないのだ。好みの役者が要るからそれが刺激になってるってハリウッドのやり方とも似通ってる。
これは程度問題でしか語れない。そこに中身が空っぽの盲目的なものが無いとそれは信者とは言えない。それは程度で語られるべきで、質じゃなく量の問題になる。何故なら私はストーリーが無いとか言われるキャラ萌えも中身はあると思ってるからになる。その中身はそのキャラをどう可愛く魅せるか?の工夫がきちんと組み立てられているか?になる。
ストーリーについてこれは分かってない。敢えて言うなら、起承転結や展開に起伏が無いとかその手の批判になる。物語としてはこれで十分に成立している。だからそういった工夫を度外視した、そこにそのキャラがいればいいってサービス精神の無い塩対応、おざなり対応のキャラを動かす作り手が居ない限りは中身はあるのだ。何を重視するか?の価値観の違いに過ぎない。
そもそも集団の数を論じる前に、中身への深い理解が伴ってない。自分に興味の無いものをここまで突っ込んで考えろってのが無理がある。じゃ何故私は?私はけいおんが音楽アニメとして楽しんでいたのに、2期になってなんだこりゃ?ってなった経験から、頭を使うようになってしまったから。
そうなると、私はけいおんの4人のキャラを可愛いと思えなかった。それに帰結した。私は所謂日常系と言うものが笑いがしっかりしてないと全く楽しめなかった。だがキャラによっては自分も面白いと思えるのが分かった。私はこの手のものが嫌いなのじゃなかった。単にけいおんだけたまたま多数派と違って可愛いと思えなかったからだけだった。
可愛いは面白いと同等と見て良い。確かに可愛いは言語的に分けられる。だが可愛く見せるために、キャラデザ以外に様々な工夫が見られる場合、それは面白いと同等じゃないか?と私は考えている。信者って言葉の多くはこのようにシンプルな好みに偏りやすい。何故か?好みの間口が狭いから排除する人が多くなってしまうんだ。
一点突破の好みの刺激は信者と見られる可能性が高い。後はこれに集団の数が絡めばほぼ信者といわれる。次の問題は数の大小が本当に否定的な人が多数派で、信者の方が少数派だと見なせるか?にある。信者作品が少数なのは間違いない。問題はそこじゃない。否定的な人の好みが本当に多数派なのか?そこにある。
信者認定できるほど自分は多数派の感覚なのか?自分は、信者と呼ばれる側に回る可能性の狭い好みが無いのか?になる。それは違う、だって好みって中身があるじゃないか?ブーメランだ。
こういった作業を相対化という、過去のマスビジネスはそれに対して絶対化の価値観を創りやすかった。これは相反するもので、争いの元凶になる。それが中年ゆえに発生するってのに無自覚な事がかなり問題を巻き起こしてると見ている。