第一章_第八節
「おい、大丈夫なのかよ!」
凄惨な光景を見たことにより興奮しているのか、ルドルフは声を荒げてクラウスに詰め寄った。当てどころのない感情を目の前のものにぶつけて、心の均衡を保とうとしているようであった。
「大きな声を出さないでください、傷に響きます」
クラウスもやや苛立っているように、平素のときと違い声を荒げた。口を覆うように、真っ白な布の端を頭の後ろで結びつけた。
アルノルトは、わずかではあるが息をしていた。大量の血を含んで衣服はぐっしょりと真っ赤に染まっていた。服をハサミで切り裂き血が溢れ出ている傷口を見たとき、クラウスは眉をひそめた。怪我人を見慣れているとはいえ、何度見ても嫌悪感が消えるわけではない。だが、はたとクラウスは手を止めた。本能的な嫌悪感と同時に、医者として培ってきた理性が違和感を告げていた。
「……この傷は」
一直線の傷であった。しかも、鋭利な切れ味のあるもので傷つけられたような跡である。作業にとりかかりながら、クラウスは周りにいる人間に視線を配った。そして、ある人物に目を留める。自分の推測が正しければ、これは――。
クラウスは首を振った。今は、アルノルトの治療が最優先だ。湧き上がる憶測の数々を頭から追い出す。
長い宵の時間であった。大広間の振り子時計が零時を告げた。澄んだオルゴールの音色が流れる。夜の薄暗いときに流れるオルゴールの高い音色は、静寂を引き立たせた。
ぐったりとしたように、クラウスはソファに身体を沈めた。口を覆っていた布を取り去り、天井を見つめ大きく息を吸った。そして、表情を沈めている面々に視線を送った。
「……最善は尽くしました。ただ、意識が戻るまで安心はできません」
大広間に集まっている者たちの中に一人の少女の姿が見当たらず、クラウスは身体を起こした。
「……それで、彼女の方は」
「気を失ったまま眠っているよ」
「そうですか……」
フォルカーの返事に、何を思ったのかクラウスは小さく吐息をついた。手で額を覆うと、ふたたび周りの者たちに目を配った。シャンデリアの明かりに照らされて、瞳が黄色い光を反射した。
「……それでは、本題に入りましょうか。あの部屋で何が起こったのか聞かせてくれますね」
クラウスの言葉は一人の男に向けられていた。自然と他の者たちの視線もその人物に向けられる。
「……ああ」
ヴォルフガングは、険しい表情を浮かべたまま腕を組んでいた。皆が、その口から出される言葉に固唾を飲む。
「――人狼だよ」
わずかばかりの沈黙が落ちた。暖炉で火のはぜる音が嫌に耳についた。誰かが呆けたように、え? と声を出したのが、ひどく滑稽に響いた。
ヴォルフガングはある程度反応を予期していたように、ため息でもつきたそうな顔をして片目をすがめた。
「だから、人狼が出たんだよ」
「ええっと……ごめん、なんだって?」
ヴォルフガングが放った言葉自体は聞き取れていたが、信じたくないといったようにフォルカーは聞き返した。
「だから、人狼が出たんだって」
「……ははは。え……っと……」
「実に興味深い発言です」
いささか冷やかし交じりのクラウスの言葉に、ヴォルフガングはちらりと視線を動かした。
「……それで?」
あきれたような様子で話の続きを催促するルドルフに、ヴォルフガングもヴォルフガングでどう説明したものか、と頭をかきながら言葉を選ぶように唇を噛んだ。
「まあ、なんつーか、雨の音とか風の音がうるさくてなかなか寝つけなくてよ。のども乾いたから水飲みに行こうと思ったんだよ。で、廊下に出たわけだ。そうしたら……アルノルトのいる部屋の中から何かが暴れまわっている音が聞こえたんだよ。なんだー? って思いながらノックしてみたわけだ。だが返事がねえ。でも相変わらず物音は聞こえてくる。ドアノブに手をかけたら開いていたもんだからそのまま部屋をのぞき込んだ。そうしたら――いたんだよ、人狼がな」
ヴォルフガングは、右足のホルダーからゆっくりとナイフを取り出した。シャンデリアに照らされ、刃がきらめいた。
「あいつが人狼に襲われていた。だからこのナイフで人狼を返り討ちにしてやった、ってわけだ」
「へえーそりゃおもしろい作り話だ」
ルドルフははじめから話を信じていないかのように、ヴォルフガングが言い終わった途端に真っ向から否定にかかった。たたみかけるように言葉を男に投げかけていく。
「で、あんたが追い払ったその人狼ってのはどこにいったんだ。どこに逃げていった」
「お前たちも見ただろう、あの破られた窓から」
「へえ、じゃああんたの話を簡潔にまとめるとだ。人狼は窓を蹴破って部屋に侵入、アルノルトに襲い掛かった。そしてあんたに返り討ちに合って窓から逃げた。……あそこは2階だぜ」
「人狼は普通の人間や狼とは違う。身体能力も何もかもがな」
「あんたのその口ぶりだと人狼をさも知っている……見たことがあるみたいじゃないか」
「…………お前らは自分の見たことのあるものしか信じないってわけだ」
「じゃあ、あんたの言うことは全部本当だってわけだ」
「だからそうだって言っているだろうが」
明かりに照らされ、ルドルフの瞳がきらりと輝く。猫のように細められた瞳は、男の姿をとらえて離さなかった。
「そいつはおかしいな」
がこん、と音を立てて暖炉の薪が崩れ落ちる音がした。
「――ガラス片が少なすぎる」
ルドルフの言葉に、ヴォルフガングは淡く浮かべていた笑みをひそめた。