第一章_第六節
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
かたかたと、窓枠が風に揺らされる音で目が覚めた。薄暗い中で、夕焼け色の光が淡く灯っていた。光を追うように視線を動かすと、心配そうに顔をのぞきこんでくる少女の顔が映った。ランプの光が、彼女の髪を赤茶に染めていた。
記憶を思い起こし、眉を寄せた。なんて醜い行為をしてしまったのだろう。ひどい醜態であった。わめき散らすだけ、わめいて。
彼女が――レアが介抱してくれたのだろうか。自分と、あまり年は変わらないだろうに。優しい人だ、と思った。――優しい人は、損だ。
「大丈夫? 落ち着いたかしら」
「……すみません」
激情にかられた姿を見られたことがひどく恥ずかしく、フロレットはうつむきながら身体を起こした。
「いいのよ、気にしないで」
優しい言葉が、よけいに心をえぐった。何かを言おうと唇を動かすが、何も言葉が思い浮かばない。
レアは窓枠にそっと手をかけると、激しく雨が打ちつけている窓ガラスを見つめた。
「雨やまないわね。本当に困っちゃうわ」
真っ暗なガラス越しに、レアの横顔が半透明に映っていた。言葉とは裏腹に、彼女の口元は笑みを描いていた。
「雨の日って、不思議な感覚がするわよね。どこか悲しくなるような、切なくなるような。でもどこか心地よくて。……私ね、隣街からやってきたの。兄がこの街で昔働いていてその縁でね。街にようやく着けると思ったら雨にあたって、走って走って森の中を駆けて……困っちゃうわよね。あなたはこの森を抜けた街に住んでいるの?」
柔らかく微笑みをたたえている少女の眼差しに耐えられず、フロレットはうつむいた。
「ええ、母と二人で街の外れに住んでいて……」
急に表情を暗くしたことをいぶかしんだのか、レアは笑みをひそめた。どうせ情緒が不安定だと思われているのだ。わかりはしない。自分の心の奥底の醜さなど、わかりはしない。知られたくない。彼女の優しい顔を見ていると、自分がひどく醜い存在だと突きつけられるようだ。人の優しさに触れると、罪悪感が責め立ててくる。
「……もう寝ましょうか」
「……私、少し水を飲んできます」
「あら、お水ならそこの水差しに」
室内を見回すと、水差しらしきものが卓上にあった。のどが、乾いて、仕方がない。
けれど、彼女のそばから離れたくて仕方がなかった。自分のような存在が近くにいると、彼女の高貴さを穢してしまうような気さえした。いいや、それよりも何よりも、彼女の清らかさの前にいると、暴かれてしまうのではないかという恐怖に絶えず襲われる。
それに、のどが渇いていることも事実であった。ひどく、のどが渇いて仕方がない。
「いえ、少し体を動かしたくて……じっとしているとなんだか……」
「そう……足元には気をつけてね。もう大広間の明かりも消えているでしょうから」
「はい……」
寝台から降りると、彼女から逃げるようにランプを片手に廊下に向かった。扉を境に、内と外でまとわりつく空気がまったく違うようであった。廊下はひんやりと冷たい。けれど、ほっとした。
ああ、それにしてもひどくのどか乾いている。ひどく……のどが渇く。
壁づたいに、水を求め歩いていった。薄暗い中、ようやく台所にたどり着く。大理石でできた台の上にランプを置いき、樽に貯め置かれている水を拝借した。器にひとすくい流す。
暗い中で見る水は、どうして黒いのだろうか。一口水を含み、ぼんやりと思った。冷たい水が、のどの表面をなぞっていく。
壁越しに響く雨音が、不思議と心を落ち着けた。ランプの光が、ゆらゆらと水の上で揺れている。残りの水を飲もうとしたとき、ぐらりと頭が揺れた。気持ちが悪い。息を深く吸い落ち着こうとするが、頭の揺れは止まらない。耐えきれず、床に膝をついた。その拍子に、器が床に落ちた。水が、床に広がっていく。
「な、に……」
耳鳴りがした。雨音が、遠く聞こえる。床に手をつきながら、頭痛が収まるのを待とうとした。けれど、一向に引く気配がない。どうしよう、どうしようという焦りばかりが広がっていく。
そのとき、獣のうなり声が聞こえた気がした。――狼だ。とっさに、そう思った。狼が、近くにいる。どうして、どうしてどうしてどうして!!
暗くて、何も見えない。怖い。逃げよう。手を這わせたとき、ぴちゃり、と指先に液体が触れた。ぞくりと悪寒が走る。
「あ、あ……」
赤く、赤く染まった、手のひら。
真っ赤な、液体。
――おばあちゃん。おばあちゃんの大好きな、葡萄酒を、持ってきたのよ。
――おばあちゃんの、だいすきな、ぶどうしゅ……。
――お……ちゃんの、ダイ、キ……な……を。
「あ……」
――おばあちゃん。おばあちゃんがね、真っ赤になっちゃったのよ。
「どう、して……。……ちがう、私は……おば、ちゃ……」
フロレットは、引きずり込まれるように暗闇の中へと意識を沈ませた。