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第一章_第四節


◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 ああ、腕がじくじくと痛む。全身がとてもだるい。視界が点滅を繰り返す。まぶたを閉じても、光の残像が緑や紫がかったピンクに瞬く。ひどく、疲れた。じくじくする。私は何をしているのだろう。私はなんて滑稽なのだろう。愚かだったのだ。無意味に自分を責める感情ばかりが浮かぶ。


 ふと、視界の端で動くものを捉えた。その人を見て、なんて綺麗なのだろうと思った。腕がじくじくと痛んだ。目の前でひざつく男を、フロレットは熱に浮かされたようにぼんやりと眺めた。じくじくと腕が痛い。鈍く痛む。



 明かりに照らされ、黄金色に鈍く輝く髪がまぶしい。まぶしい。とても綺麗。


 男を見ながら、幼い頃に見たことのある真っ白な彫像を思い出した。天使というのが本当にいるのだとしたら、このような姿をしているのだろうか。――ルチフェル。……なぜか、その単語が浮かんだ。皮肉だ。


 大天使ルチフェル。明けの明星。――堕天使ルチフェル。神に反逆して天から堕とされた、偉大なる天使……サタン。目の前にいるこの男は悪魔か天使か。美しい容貌を眺めながら、ぼんやりと考えていた。思惟と呼べるかもあやしい、稚拙な連想ゲームである。


 その瞳が、突然私を見つめてきた。いや、そうしたのは私であったか。この人は、はじめから見ていたのだろうか、私を。真っ直ぐに見つめてきた瞳に胸がざわついた。


 腕がじくじくとする。痛い。――これは、痛みなのだろうか。ああ、痛い。男の唇が動く。ああ、この人は彫像などではない。生きているのだ。人間だ。


 当たり前のことに感慨を覚えた。耳触りの良い声であった。容姿と相まった、柔和な声。



「――ですか? キミ、うでニ、ケガ、を――」



 ああ、頭が、まだぼんやりとする。彼は、今なんて。うで、腕に、ケガ、を。――ケガ。ああそうだ。ケガ。怪我。あのときの。――あのとき、ノ。



「私、コレは、その……」



 ぞっとした。血の気が引いていく。この傷は、これは。コレは。衣服に覆われた腕の傷を、とっさに手で隠すようにかばった。コレ、これはこれはコレはコレハ。アレは――私のせいじゃない。



「女性の肌に傷が残っては、大変でしょう」



 優しくほほえんだ男に、顔を上げた。気づいて、いない? ……そうだ。私は何を怯えたりしていたのだろう。誰も気づきはしない。知り得はしないのだ。うっすらと、笑いがこみ上げてきそうだった。



「僕みたいな無骨な男だったらなんてことはないでしょうけれど」



 無骨という言葉が彼にあまりにも似つかわしくなくて、首を傾げた。どうして、自分のことをそんな風に言うのだろう。あなたは、そんなにも美しいのに。



「薬は沁みますが、すぐに済みますから」



 本当にこの人は気づいていない。私の心配をしている。いや、そういうフリをしているのだろうか。知らないフリをして私がボロを出すのを待っているのか。本当は知っているのに――いや、それはあり得ない。いつ、知るというのだ。そうだ、大丈夫だ。



「楽にしてもらって大丈夫ですよ。腕の力を抜いて、僕に預けるようにしてください」



 大丈夫。この人は知らない。けれど、その瞳がすべてを見透かしてしまうのでは、という恐怖を覚えた。この人は、美しすぎて怖い。天使を思わせるその容貌がこの恐怖を沸き立たせているのか。


 ぼんやりとする頭がわずらわしい。不規則に脈打つ心臓が呼吸を苦しくさせる。腕の傷をなぞるように見ていた男の眉がひそめられる。ぎくりと、身体が不自然に動いた。


 バレてしまったのだろうか。気づいた? いや、醜い傷に顔をしかめただけだろうか。ただの傷で何がわかるというのか。わかるわけがない。


 消毒液を染み込ませた綿が肌をなぞる。独特の鼻を刺す匂いとひんやりとした冷たさ。傷に触れた途端、痛みが広がった。無意識に引っ込めようとした腕を男がやんわりと抑えた。



「沁みますか?」


「……少し……」


 

 何気ない会話が、おかしく感じられた。包帯を取り出し傷口を覆っていく男の動作をじっと見つめた。優しい手つきに、なぜだか泣きたくなった。長い睫毛に縁取られた眼差しが、慈しみに満ちているのがわかったから。


 彼にすがりついてしまいたくなった。そして、すべてを明かしてしまいたくなった。懺悔をして、楽になってしまいたかった。この人なら許してくれるのではないかと思った。私の、罪を。



「自己紹介、まだしていませんでしたね」



 葛藤をかき消すように、男の声が空気を震わせた。



「僕はこの館の主人……という言い方が正しいのかはわかりませんが、一応ここに住んでいるクラウスといいます」



 クラウス……? 彼の名前を書き記すように、胸の内で繰り返した。どくどくと、身体中が脈打つようであった。音もなく、彼の名を口ずさんだ。甘い蜜が、口の中を愛撫しているかのような恍惚感に襲われる。ああ、頭がぼんやりとする。



「よかったら君の名前も聞かせてくれませんか」



 私の、名前。私、私、は……――。



「……フロレット、です。フロレットといいます」


「フロレットさんですか。素敵な名前ですね」



 彼の声を媒介にすることによって、初めてその音の連なりが特別なもののように思えた。頬に、熱が灯るようだ。ああ、私、どうしたのだろう。


 素敵な名前。社交辞令が、馬鹿みたいに嬉しかった。私の名前。私の名前を付けてくれたのは、おばあちゃんだった。おばあちゃん――。


 冷や水を浴びせられたように、燃え上がっていた心が、凍りついた。おばあちゃん。どうして、どうして――。


 指先から、血の気が引いていくようだ。不審がられないように、必死で震えそうになる身体を抑えた。



「…………すみません、私……」



 とっさに出てきた言葉だった。意味などない。不安定な挙動に疑念を持たれないように、己を守るための言葉であった。――ああ、でもいきなりこんなことを言ってはあやしがられるかもしれない。



「突然、こんな……」



 不自然なことに意味を持たせるように、謝罪の対象をつくりだした。ああ、私はなんて狡猾で薄汚くて打算的で保身に走る人間なのだろう。自嘲しか浮かんでこない。



「大丈夫ですよ、気にしなくて」



 優しい言葉が、ぼろきれのようにまといついていた良心をえぐった。優しすぎて、まぶしすぎて、つらい。つらいつらい。あなたが、悪魔だったらいいのに。かの堕天使のように。そうしたら、悪い子は嫌いにならないでしょう?



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