第一章_第三節
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棚の奥にある食器を取り出す。装飾は見事に施されていたものの、このような穴蔵に放り込まれたままでは宝の持ち腐れだな、と無感動に眺めた。こんなものがあったのかと、自分も初めて知ったくらいだ。もともと興味をもっていなかったから、必然的にそうなっただけのことかもしれないが。無駄に物ばかりある家だとは思っていたが。
「――クラウスさん。……あら? いらっしゃいますか?」
背後から聞こえてきた声に、意識を浮上させる。かがんでいた身体を起こした。濃紺のワンピースを身にまとった少女が目を丸々としたのを見て、微笑んだ。
「すみません、食器を出していたものですから」
「あら、ごめんなさい。ちょうどテーブルで見えなかったものですから。…それで、どうやら彼女、怪我をしていたみたいで、腕に……」
「腕、ですか。それ以外には」
「いえ、他は大丈夫でした。それで、包帯や消毒液などがあったらお借りしたいのですが」
「傷の手当てならば僕がしましょう。こう見えても一応医者なので」
――医者か。違和感が、ざらりと舌の上に転がった。一瞬の間、口に出すそのときまで躊躇したが、けれど、それ以外に表現する言葉が思いつかなかった。一応、客観的に見たらそう表現するのが正しいのだろう。自分がどう思っているかなど、関係のないことだ。社会的な役職や肩書きなど、ただの記号にすぎない。
「まあ、そうだったの。なら、お願いしますね。――それから、もしかしてお夕食の準備をしていらしたのかしら。よろしかったら私はそちらのお手伝いを……」
「本当ですか、それは助かります。あまり料理は得意ではないものですから、皆さんにお出しするのをどうしようかと悩んでいたところなんです。材料は一応ここに置いたのと、そこにもありますので……本来ならばお客様にしてもらうことではないですが、後は全部お願いしても良いですか?」
「ええ、皆さんのお口に合うように、頑張るわ」
純粋に微笑む姿を見て、この女性はひたすらに献身的なのだろうと思った。自分よりも他人を優先する類の人間だ。それを、当たり前にできる。利害損得抜きにして。自分の微笑みが、ひどく嘘くさい道化の仮面に思えた。けれど、そのことにもうあまり心を悩ませることもなくなった。それこそが、自分にとっての一番の不幸なのかもしれなかった。
少女から目をそらすように、台所を出た。ソファでぐったりとしている少女にわずかに視線をやって、自室へと足を向けた。治療用の道具が詰まっている鞄を手に取る。ずっしりとしていて、重い。
広間に戻り、少女のそばに膝をついた。まだ乾ききっていない髪が、しおれた花のように顔を覆っていた。それでも綺麗に整えられているのは、先ほどの少女、レアが櫛づけをしたからだろう。
少女はわずかに視線を動かしただけで、虚ろなままだ。虚ろ――。満たされない。空虚で、ひたすらに。
「具合はいかがですか? 君、腕に怪我をしているでしょう。手当てをさせてもらえますか?
一応……こう見えても医者なので、腕は保証しますよ」
――また医者か。医者。冗談混じりでも、違和感が残る言葉だ。
「私、これは、その……」
はじめて少女が、まともな、人に向ける、人に対して意志を持って発する言葉を落とした。その瞳から空虚が消え去る。人間らしさがふっと戻ったようであった。傷を手で隠すようにした少女に、優しく微笑んだ。
「女性の肌に傷が残っては、大変でしょう。僕みたいな無骨な男だったら何てことはないでしょうけど」
その言葉が、少女の心に何をもたらしたのか、何度かまばたきをくりかえした。
「薬は沁みますが、すぐに済みますから」
少女は動かなかったが、瞳からおびえの色は消えていた。そっと、その腕をとる。
「楽にしてもらって大丈夫ですよ。腕の力を抜いて、僕に預けるようにしてください」
傷がついていたのは右腕だけであった。やわらかな肌に、醜く真っ赤な――。
――これは。
思わず眉をひそめた。
ひっかき傷のような痕であった。それが幾筋もついていた。さいわい深いものではなく、どれも浅いようではあったが。
「っ…………」
薬が沁みたのか、少女の腕がびくりとはねた。人間らしい反応だった。どうしてか、その姿にいとおしいさを覚えた。慈しみというべきだろうか。
「沁みますか?」
「……少し……」
会話ができるまでに落ち着きを取り戻した少女を見て、安堵を混ぜた喜びが胸に灯った。包帯を巻きながら、喋りかける。
「自己紹介、まだしていませんでしたね。僕はこの館の主人……という言い方が正しいかはわかりませんが、一応ここに住んでいるクラウスと言います。よかったら君の名前も聞かせてくれませんか?」
「…………フロレット、です。フロレットと言います」
その物の言い方、というよりも言葉を放つ雰囲気から、この子は元来素直な性質をもっているのだろうと思った。悲惨な体験から、翳りでおおわれてしまっているだけで。
「そうですか、フロレットさんというんですね。素敵な名前ですね」
――この子は、普通なのだ。普通の、どこにでもいる少女だ。あの悲痛に彩られた空虚さは、元来この子のものではないのだ。痛ましい体験が、そうさせてしまっただけで。
奪われたのだ。奪われて、空虚になってしまった。空いた隙間に、混乱と負の感情を浮遊させて。
「…………すみません、私……」
うつむきながら、少女は口を動かした。
「突然、こんな……」
冷静さを取り戻したことによって、先ほどまでの有り様を思い出したのだろう。
やはり、この子は。普通の言葉で表すのなら、良い子と言われる子なのだろう。いたって普通で、素直な質なのだ。
「大丈夫ですよ、気にしなくて」
――戻ってほしいと願った。こんなことを願うのさえ、おこがましいのかもしれないけれど。まだそう願える自分がいたことに、残っていたことに、安堵し、喜びをおぼえた。