第六章_第四節
クラウスが言いかけたとき、突如激しい音が響いた。壁の向こう、玄関口の方から聞こえてくる。どうやら、何者かが扉を叩きつけているようだ。
「……こんな時間に一体……」
告解を阻まれたことで勢いをそがれ、クラウスはこらえるように息を飲み込んだ。
「クラウス殿、まさか軍警が……」
アルノルトの言葉に、クラウスははっとしたように険しい顔に一転した。
「そんなまさか……いや、けれど……。そうだとしたら、まずいですね。アルノルトくん、君はフロレットさんを連れて地下に隠れていてください」
地下に連れて行かれる。その言葉だけでフロレットは身を凍らせた。そのことに気がついたのか、クラウスは落ち着かせるようにフロレットの両肩に手をそえた。
「フロレットさん、どうか僕を信じて。アルノルトくんは、軍警に見つかったらきっと連行されるでしょう。そして――殺される」
突如飛び出してきた物騒な言葉に、フロレットはおびえた。
「そんな、どうしてアルノルトさんが……」
クラウスは苦い笑みをにじませた。
「色々と事情があるのです。……そして、もしかしたら君も危ないかもしれない。僕は君たちを助けたい。助けたいと思っている側の人間です。だから、僕が良いと言うまでどうか地下に隠れていてください」
玄関から聞こえてくる音が、激しくなる。怒鳴りつけるように張り上げた男の声も聞こえてきた。
「――急いで」
「フロレット殿、早く」
ただの人形のようにフロレットは、黙って従うしかなかった。拒否することすらできないほどに、二人の様子は真剣そのものだったからだ。
絨毯の下から、隠し扉が現れる。深い穴底に足を踏み入れた瞬間に、フロレットはもう引き返せないことを悟った。一つのランプだけを頼りに、アルノルトに手を引かれる。ぎいぃ、と重苦しい音を立てて扉が閉じていく。徐々に、明かりが切り取られていく。すがりつくように光を見やったとき最後に見たのは、クラウスの黒光りする靴であった。
ばたん、と扉が閉じきった音が、むなしく闇に響く。ひんやりとした冷気が、階段の奥から伝わってくる。ランプの灯火と、つながれたアルノルト手だけがなぐさめであった。
いや、アルノルトを信じて大丈夫なのだろうか。だが、そう思ってももう遅い。もう、足を踏み入れてしまった。入り口も閉ざされた。階段が、地獄へ続く道のようである。この先が、本当に地獄だったら? 人狼を閉じ込める地獄の地下牢。
私は、大丈夫なのだろうか。私がまたおかしくなったらどうしよう。また、人を――。
一歩一歩進んでいるはずなのに、いつまで経ってもたどり着かない。いつまで階段は続いているのだろう。
ランプの灯りだけを頼りに降りて、降りて降りて、ようやく景色が開けた。広がる景色に、フロレットは自分の記憶と合わさる音を聞いた。
ひどく無機質で生き物の気配というものを感じることができない空間だ。冷たく並ぶ鉄柵。その奥に。いた。やはり、いた。
「人、狼……」
フロレットの落とした呟きに、アルノルトは苦々しい顔をした。
「……この人たちは、普通の人間だ」
ランプが揺れ動くと、石畳に映る影も大きく揺れた。
「ある者たちは、人狼と呼ぶだろう。けれど、人狼という呼称をつけられた者たち……この人たちは、人間だ。私たちと同じ。彼らが……私が人狼と呼ばれるようになったのは……」
「軍の人狼計画……?」
アルノルトは驚いたように目を見開いた。
「……どうしてあなたが、そのことを知って……」
フロレットの脳裏には、水ににじんだ紙切れが浮かび上がった。レアに宛てられた手紙はどこにいったのだろう。あれも、夢ではなかったのだろうか。
「まさかあなたも軍の関係者……? けれど、あなたは……一般の市民にしか見えない。どこで、その話を聞いたのです」
「全部、夢なんです……何がなんだかわからなくて、何が本当のことなのか……」
かつん、こつん、と一人分の足音が響いてきたことに、二人ははっと口を閉ざした。どうやら誰かが階段を降りて来ているようだ。フロレットは安堵している自分に気がついた。クラウスが迎えにきてくれたのだという思いが去来した途端に感じた。もはや何を信じれば良いのかわからないのに、クラウスが来てくれたことに救いを覚えていた。このような地下から、早く出たい。息が詰まる。
「――へえ……こんなところに隠していたのかあ」
階段より響いてきた声に、はっと二人は顔を見合わせた。――クラウスではない。では、一体誰が。まさか軍警がこの地下に。
二人は身をこわばらせて待ちかまえた。そして、ランプに照らされた相貌に言葉を失った。
「と、あらあら、どうもどうも。おひさしぶり、というか今朝ぶりかな。ふふ、ごきげんよう。いやあ、すごいねえ。ここって地下牢だよねえ。たぶん、設計図にも載せないで秘密裏につくられた。昔の人というのは恐ろしいことを考えるものだね。陰ひなたに隠れて何かをしようとする。……と、それは今も同じか」
「フォルカー、さん……?」
どうしてあなたがここに、という意味を込めて名を呼ぶと、男は小首を傾げた。どくどくと心臓の鼓動が胸を叩きつけた。のどの奥がしめつけられた。どうしてこんなにも恐怖を感じているのだろう。ランプに正面から照らされた男は、背後に影をまとい引き連れているかのように見えた。階段口を塞ぐ男が、地獄の番人のように見えた。
「フォルカーさん……クラウスさんは……」
「クラウス先生? さあ、どうだろうねえ。目下のところ俺の興味は先生から目の前にいる人狼に移っちゃっているからなあ。いや、俺はずっと人狼にしか興味がなかったかけれどね。こう見えても一途なんだよ、俺」
フォルカーは背中に負っていた銃を緩慢とした動作で構えると、にやりと口角を上げた。
「――さあ、人狼狩りの時間だ」




