第三章_第七節
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軋みながら、重い扉が開かれる。差し込む光のまぶしさに、フロレットは目を細めた。光の中しぼられていく影の形は、近づくにつれて見慣れた顔かたちを示した。――フォルカーである。いままで見てきたおどけた笑みはどこへいったのかと思うほど、そのときのフォルカーの顔は無表情であった。
フロレットは何一つ言葉を発することもなく、言われるがままに連れ出された。ひさしぶりの外の景色にも、なんの感慨も湧かなかった。外に出ると、馬車が一台止まっていた。うながされるままに、フロレットはそれに乗った。それに続いてフォルカーも乗ると、馬車は馬のいななきとともにゆっくりと進み始めた。フロレットは、生まれてはじめて馬車というものに乗った。だが、なんの感慨も湧かなかった。本当に、何も感情が浮かんでこない。心が時を止めてしまったようだ。私はどこに運ばれるのだろう。どこに向かうのだろう。――地獄だろうか。
「フロレットちゃん」
突然呼びかけられ、フロレットはゆるりと視線を動かした。
「君さ、似てるんだよね。俺の妹に」
そう言ったフォルカーの表情からは、何一つ感情というものをうかがうことができなかった。がたん、と馬車が大きく揺れ、フロレットは体勢を崩した。放り出された身体を、フォルカーのたくましい腕が支える。
「顔かたちは全然似ていないけれどね。なんとなく、雰囲気とか、俺を見上げてくる仕草とか、目線とか。少しおどおどして怯えているところとか。華奢で柔らかい身体とか、本当によく似ているよ。まあ――人狼に殺されたけどね」
人狼に殺された、という言葉に、フロレットはのどをひくつかせた。背にまわされていた手が、ゆっくりと首もとにすべっていき、両手でやわらかくくるまれた。
「ねえ、人の肉って、おいしいのかな? 君たち人狼にとってはさ。やっぱり、硬い男の肉よりも、やわらかい女子供の肉の方がおいしいのかな? だから、あのときの人狼も、俺じゃなくて妹を狙ったのかな? 俺だって、子どもだったよ? なんで、俺じゃなくて妹を狙ったんだ。喰らったんだ?……なんで生きながら喰らうなんて残酷なことをするのかな? 死肉よりも生きたままの方がおいしいのかい? それとも、恐怖に打ち震える人間の姿や悲鳴を聞くのが楽しいから、生きたままの肉体を少しずつ食べていくのかい? それに比べて人間ってのは不思議な生き物だね。口にするのは死肉ばかりだ。でも、どっちが残酷なんだろうね。生きたまま喰らっていくのと、息の根を止めてから食べ尽くすことは」
まるで人形や小動物を可愛がるように、フォルカーは親指でフロレットのあごや唇の際をなでつけた。ざらりとした感触が、柔らかい肌に不愉快な跡を残していく。
「人狼っていうのはずいぶんとしぶとい身体をしているらしいね。あのときライフルをしかと当てたはずだったのに、効かなかった。ずっと、ずっと調べたさ。人狼のことをね。君たち人狼の弱点は、銀らしいね。ふふ。そう、だから俺は、ずっと肌身離さず、銀のナイフと――銀の弾丸を持ち歩いている」
左手でフロレットの首を押さえつけたまま、フォルカーは小型の銃を腰帯から抜き放ち、銃口をフロレットのあごに当てた。
「まだ、使ったことがないんだよね。人狼に会ったのも、妹を殺されたそのときだけなんだよ。ずっとその人狼を探し続けて、人狼という人狼を探し続けて、それでも見つけられなかった。――でも、ようやく君という存在を手に入れることができた。ねえ、どっちが良い? 銀のナイフで心臓をえぐりとられるのと、銀の弾丸で心臓を打ち抜かれるの。ふふ、まあ、でも他にも色々調べたいことがあるんだよね。本当に銀製の武器しか有効ではないのか。普通の武器でも殺せるのか。魔女の印のように人狼にも身体のどこかに印があるのか。色々調べ尽くしたいんだよね。薬にも強いのか、何が有効で、何が有効でないのか。簡単に死ねない身体を持っているというのも、有る意味では不幸なことかもしれないね。……不死の身体を持ちながら鷲に肝臓を食われ続ける罰則を受けたプロメテウスのように、君は死ぬまで生き地獄を味わうかもしれないね。苦しみを受けても身体は再生し続け、死んで救われることもできない。人狼も、そうなのかな? 試してみないと、わからないよね」
フロレットは、小刻みに自分のあごが震えていることに気がついた。のど元に手をかけているフォルカーにもきっと伝わっていることだろう。
「い、いや……」
それは、無意識の叫びであった。だが恐怖と不安でのどは閉まりきり、か細い声しか吐き出されなかった。血の気を失ったフロレットの顔を見て、フォルカーは人の良い笑顔を向けた。
「嫌? うん、そうだね。苦しむのも、死ぬのも嫌だもんね。でも、俺の妹もそうだった。嫌だとどれだけ叫んでも、あの人狼は牙を引き抜くことをせず、じわじわと肉を喰らい続けた。土台無理な話なんだろうね。俺たち人間と君たちがわかり合うことは。君たちは人間を襲う。だから、俺は人狼を殺す。一匹残らずね。それが、俺が救うことのできなかった妹に対する償いだよ」
すっと、銃口と首にかけられた手が下ろされる。銃をしまいなおすと、フォルカーは椅子に掛け直し肩をすくめた。
「まあ、いますぐにそれを試しはしないさ。君に逃げられたら困るからね。――何が、精神疾患だ。ふざけるな。……地下の奥深く、救いの声も届かない地の底で、たくさん試してあげるよ」
この人は危険だ。私は、人狼。違う、私は人間だ。人狼なんかじゃない。ああ、でもおばあちゃんを殺したのは誰? おばあちゃんはどうしてあんな風に変わってしまったの? 誰が悪いの? 何が悪かったの? おばあちゃんごめんなさいごめんなさいごめんなさい――神様、主よ、どうか私をお救いください。
フロレットの脳裏には、美しい金髪を持ち、人間離れした美しい顔立ちの男の顔が浮かんだ。――クラウスさん。神様、ああ神様。あなたは悪い子は嫌いだ。悪いことをした者は地獄に堕とすのでしょう。ああ、嫌。誰か助けて。天界より身を堕とした呪われた天使よ、どうか私をお救いください。――ルチフェルよ。冥界の王、サタンよ、どうか悪い子である私を罰してください。救ってください。違う、悪魔は、悪魔は悪魔は――。目の前にいるこの男だ。
フロレットは、馬車の鍵を取り払った。慌てて止めにかかるフォルカーの身体を、力の限り突き飛ばした。そして、開け放たれた扉から、躊躇なく飛び出した。受け身をとることも叶わず、フロレットは転がりながら全身に傷を負った。
「馬車を止めろ!!」
遠くで、フォルカーの叫ぶ声が聞こえる。早く、逃げないと。誰か、どうか、私を救ってください。ああ、のどが乾いた。水を、水を――。
フロレットはよたよたと歩みを進めた。近くで、勢いよく流れる水の音が聞こえる。橋が見えた。ああ、水を。のどが乾いた。水を、水を――。
欄干に手をかけ、フロレットは微笑んだ。そして、ゆっくりと足をかけ、そのまま真っ逆様に川へ身を投げた。不思議と、身体を水面に叩きつけたときの痛みはまったく感じなかった。ああ、でもとても冷たい。寒い。寒い。こぽこぽと、水音ばかりが聞こえる。息が苦しい。
少女は、まぶたを閉じたまま、その瞳を誰に見せることはなかった。




