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第二章_第六節


◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 

 ずっと終わらない悪夢を見ている。これは罰なのだろうか。罪を犯した代償なのだろうか。本当に夢だったらどんなに楽だろうか。夢だったならば、早く醒めてほしい。


 フロレットは、冷たい石畳で覆われた壁をぼんやりと眺めていた。どれくらいの間、ここにいたのだろう。ひどくのどが渇いた。もう時間の感覚も失われている。どうしてこんなことになったのだろう。



『君をモーン・ローテ・ブルーメンシュトラウス殺害容疑で逮捕するよ』



 フォルカーの言葉が頭の中で木霊する。モーン・ローテ・ブルーメンシュトラウス。それは祖母の名であった。祖母殺害容疑。私がおばあちゃんを殺した。――私がおばあちゃんを殺した? ……どうしてそんなことになってしまったのだろう。


 冷たい部屋。日に数度運ばれてくる質素な食事。歯が砕けそうなほど固く、やっとのこと含んでも口の中が乾燥するパン。気持ち程度に豆が入っている冷たくほとんど味のしないスープ。ひどくのどが渇いていた。ほとんど人もやってこない。まるで死んだようにフロレットはその中に閉じ込められていた。


 突然、重々しい格子扉が開かれる。扉の向こうから差してくる光に、フロレットは目を細めた。逆光の中に立つ一つの影。目が慣れていくにつれ、輪郭がしぼりだされていく。その人影の顔を見たとき、フロレットは目を見開いた。


 

「クラウス……さん?」


「よかった、フロレットさん。思ったよりも元気そうで安心しました。……少し痩せましたね」


「……どうしてここに」


「君を迎えにきました。君はここから出られるんですよ」


「……どうしてですか。私は……」



 まとまりのつかない頭でフロレットは必死で言葉を紡ごうとした。クラウスがここに来たということは、彼はもうすべてを知っているということあろうか。



「……私は罪人です」


「……今の君にはここから出る権利がある。だから、どうか僕について来てください」


「…………」



 薄暗い時空の止まった牢の中で差し伸べられた手を、どうして拒むことができるんだろう。フロレットの手は、とまどいながらではあったがクラウスの手をしかとつかんでいた。


 何もわからぬままにクラウスの後をついていった先は、悲惨な出来事のあったクラウスの館であった。うながされるままに、館の扉をくぐる。何もわからないままだ。ひどくのどが渇く。飢えよりも、のどの渇きの方がつらかった。

 


「クラウスさん、すみません……何か飲み物をいただけませんか。ひどくのどが渇いていて」

「ああ、そうですね。すみません、気が回らなくて。すぐに持ってきますね」



 いままでの渇きを癒すように、フロレットは水を飲み干した。飲んでもまだ足りない。渇いて、渇いて仕方がない。



「クラウスさん……何が起こっているのかまったくわからないので、説明していただいても良いですか。どうして私は……いいえ、あなたは私のこと……」



 話をうながそうとして、フロレットは突如眩暈に襲われた。ぐらり、と頭から倒れそうになる。ちかちかと点滅する視界。頭が割れそうなほどひどい耳鳴りに襲われた。


「フロレットさん、大丈夫ですか」


「すみません、また眩暈が……頭、が」


「少し、待っていてください」



 戻ってきたクラウスがテーブルに置いたのは、医療道具の入っているトランクスであった。


 何か、自分は悪い病気なのだろうか。そう思いながらクラウスの顔を見上げたとき、フロレットは息を飲み込んだ。



「あ……」



 立ち上がろうとして足がもつれ、椅子ごと床に倒れ込んでしまう。



「大丈夫ですか」



 慌てた様子で手をかけようとするクラウスから逃れるように、フロレットは後ろへ後ろへとにじりよった。



「クラウスさん……どうして、どうして、あなたは……」


「フロレットさん……?」



 フロレットの目の前にいるのは、クラウスではなかった。人間ではなかった。クラウスが身にまとっていた衣類で身体を覆っているが、その顔は、人間のものではなかった。鋭くつり上がった目。耳元まで裂けているのではないかと思えるほど大きな口。そこからのぞく鋭利な牙。犬のような耳。皮膚を覆っている硬質な黒い毛。



「クラウスさん……あなたは……あなたが……あなたが人狼」



 次にクラウスの発した声は、まるで彼ではないかのように低く何重にも響いてくる声であった。



「……あア、これはしまったな。とんだ尻尾を出してしまったわけだ。いやア、人間のふりをするのは大変なんですよ。あの夜の出来事のせいで人狼の話が明るみに出てしまいましたし。……幸いアルノルトくんが人狼ということで話は解決したから僕の正体はばれずにすみましたけれど、露見するのも時間の問題だ。あの夜の出来事を知っている人間をみんな始末しないとね」


「やめて、近寄らないで……」


「どうして僕を怖がルんです? 僕のことを天使のようだと言ってくれた君だと言うのに」


「悪魔……あなたは悪魔……ルツィフェル……」


「ふふ、嫌ですね、悪魔ではなく人狼ですよ」



 まるで怯えているフロレットを楽しんでいるかのように、クラウスは一歩一歩ゆっくりと近づいてくる。


 どうしよう、殺される。殺されてしまう。救いを求めるように動かした視線の先に、銀色の光を放つものがあった。クラウスが持ってきたトランクスの中に、銀色に光るナイフがあった。フロレットは恐怖を押しのけ、そのナイフを奪うように素早く手に取った。



「おやおや……そんナものを持ってどうする気ですか」


「やめて……お願い、来ないで」


「――フロレットさん、落ち着――……ください、そのナイフを降ろ……て」



 くらり、と頭が重たく傾きそうになる。だみの混ざった低い声の中から、澄んだ人間らしいクラウスの声が姿を現す。誘惑するように静かな声で話しかけてくる。こんなときに、眩暈と耳鳴りが起こるなんて。頭がぐらぐらとする。だめだ、ここで倒れたら殺される。戦わないと、倒さないと――殺さないと。


 フロレットは駆け出した勢いにまかせて、ナイフをクラウスの身体めがけて突き刺した。ずぶり、と嫌な感触が柄から伝わってくる。生温かい液体がナイフが沈んだ先より噴き出してくる。ナイフを深く突き刺した男の身体は、ゆっくりと地面に倒れていった。フロレットは放心したようにその肢体を見下ろした。品のあるベストも、真っ白なブラウスも真っ赤に染まっていく。床に血だまりが広がっていく。



「やった……倒した。私……人狼を倒した」



 興奮から、思わず口から言葉がこぼれ落ちた。



「おばあちゃんの仇をとったよ……」



 じんわりと、口の端が上がっていく。おかしいことなど何もないはずなのに、笑いが胸からこみ上げてくる。



「おばあちゃんの仇……」



 だが、ふとその衝動もしぼんでいく。



「違う……おばあちゃんは……おばあちゃんの仇は……」



 ふらふらとしながらフロレットは血濡れの刃を眺めた。



「フロレットさん……いけない……」



 絞り出すように吐き出された男の言葉も、もはや耳に入っていなかった。血で滑りやすくなっている柄を握り直したとき、ふと扉の向こうから人影が現れた。



「これは一体、何が……」



 髪の生え際が真っ白になっている、特徴のある頭部。青白い肌。真っ赤な瞳。



「フロレット殿……? っ……クラウス殿」


「アルノルトさん……」



 慌てた様子でクラウスの元に駆け寄ったアルノルトを、フロレットはぼんやりと眺めていた。



「アルノルトさん、クラウスさんは、悪い人狼だったんですよ……。さっき、狼になって私を殺そうとしたんです……」



 うつろな目で語るフロレットに、アルノルトははっとしたように顔を上げた。



「フロレット殿、もしや……あなたも……。そうか、だからクラウス殿は……。どうか落ち着いて聞いてほしい……あなたは」


「あ……アルノルトさん、あなたも人狼……人を傷つける悪い人狼」


「フロレット殿、聞いてくれ。人狼というのは――」


「アルノルトさんも、人狼。クラウスさんの仲間。人狼は仲間意識が強いから……私のこと、殺ス……やっつけないと」



 誰にも止めることはできなかった。勢いのままに振り下ろされる刃。噴き出す血。床に倒れ伏す二つの肉塊。


 少女は鼻歌を歌いながら、笑みを浮かべた。踊りを踊るかのように、血の滴るナイフで円を描き、足で弧を描いた。踊って踊って、がくん、と少女は窓から背を投げ出した。視界には青い空が広がっている。綺麗な青い空。どんどん遠ざかっていく。身体は冷たい空気に包まれ、真っ逆様に落ちていった。

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