第二章_第五節
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「………ここが、彼女の祖母の家か」
クラウスは森の奥深くにたたずんでいる家の前で足を止めると、その眉根をひそめた。草木の匂いに混じって、鉄の錆びたような臭いが鼻に伝わってきた。原因となるものを目にせずとも、クラウスはその正体を予想することができた。嗅ぎ馴れた臭いだ。何度も、何度も経験してきた臭いだ。
「クラウス先生」
背後からかけられた声に、思わずはっとする。
「こんな森の奥で会うなんて奇遇ですね、先生」
そこには、感情のつかめぬ笑みを浮かべているフォルカーがいた。どうしてこの男がここに。そう思うも、クラウスは疑念を表に出すことはなく常に浮かべている笑みを顔に張りつけた。
「ええ、そうですね」
「ふふ『ええ、そうですね』だなんて。本当はそうじゃないことわかっているくせに」
この男は、最初から最後までその正体がつかめなかった。正体とは、役職など他人にとってのわかりやすい証明ではなく、人間性そのものがわからない。底が知れない。
クラウスの内面で繰り広げられている憶測などまったく気づきもしないように、フォルカーはその隣へと立った。
「ここがフロレット・ローテ・ブルーメンシュトラオスの祖母の家か。随分と不便な場所に住んでいたんですね~」
「ええ、だから孫であるフロレットさんが通ってくれることはうれしかったでしょうね」
「そんな場所が惨劇の場所になるなんて、人生何が起こるかわからないものですね~。それで、先生。早く中に入らないんですか? 今日はそのためにやってきたのでしょう?」
「……ええ」
本当に、この男はどこまでわかっているのだろう。だか、こちらから下手に詮索するのも自分の身を危うい場所に立たせることになる。
表情一つ変えることなく扉に手をかけたフォルカーの後に、クラウスは黙って従った。
「うわあ……これはひどい」
扉が開け放たれた途端、むっとする臭いが漏れ出てきた。それとともに、家の中の惨状が目に映り込む。床に飛び散った皿やカップの破片。倒された椅子。ソファは切り裂かれ、綿がはみ出していた。だが、それよりも何よりも目を引いたのはその中に倒れ伏している肉塊である。そう、もはやそれは肉塊としか呼べないものだ。血だまりの中でぴくりとも動くことのない、かつて人間だったものだ。それがフロレットの祖母に相違ないのだろう。
「ひどい血ですね~ひどい臭いだ。こんなひどい死に方をするなんて、人生最期がこれだなんてね、実に哀れだ」
クラウスは遺体に近づきしゃがみ込むと、血がべったりと固まっている箇所に目をやった。そこには、ナイフが深々と突き刺さっていた。心臓近くをひと突きにされている。おそらくそれが致命傷になっただろうことは、ほかに目につくような外傷がないことからうかがうことができる。
「おもしろい死体ですよね、先生」
にやにやと笑みを浮かべて死体を見下ろしているフォルカーの顔を、クラウスはゆったりと見上げた。
「……何がですか。人の死におもしろいも何もないでしょう」
「いやいやこれは失敬。いえ、おもしろいってのはそういう意味じゃないですよ。だって、変じゃないですか。フロレット・ローテ・ブルーメンシュトラオスは祖母の家で人狼を見たと言った。けれど、この死体はナイフでひと突きされた胸の傷以外に見当たらない。……これっておかしいとおもいませんか、先生?」
「…………」
「そうですよね、おかしいですよね。人狼が道具を使わないとは言わないけれど、ひっかき傷や噛み傷のひとつでもあればそれらしく見えるっていうのに、この死体にはそれがまったくない」
「…………」
「ねえ、先生。このおばあさんって本当に人狼に殺されたんですかね。……ねえ、黙ってないで答えてくださいよ」
「……君の目的はなんですか。ルドルフくんのように推理ごっこでもはじめるつもりですか」
「ええ、そうですよ。俺は真実を暴きたいんですよ、先生。それとも、あなたは真実を暴くのが怖いですか。……真実を暴かれるのが恐ろしいですか。あなたはこのおばあさんがどうして……どのようにして死んだと思いますか。一体誰が殺したと思いますか」
「……フロレットさんの言った通り、おばあさんは人狼に襲われたのでしょう。僕はフロレットさんの腕の傷をみましたが、獣にひっかかれたような痕がありました」
「そうですか……がっかりだな、なんのひねりもない答えだ。やっぱりあなたはずっと真実から逃げ続けるんですね、先生」
「どういう意味ですか……」
「そのままの言葉の意味ですよ。まあ、俺はそろそろおいとまさせていただきましょうか。ああ、そういえば先生はもう耳に入れましたか。あのこと」
「……あのこととは?」
「フロレットちゃんが逮捕されたそうですよ――おばあさん殺害の容疑で」
クラウスはくっと目を見開いた。瞬時に、言葉の意味を汲むことができなかった。幾拍かの間の後、すっと冷えた瞳でフォルカーを見つめ返した。
「……最初から君はその事実を知っていたわけだ。僕に道化を演じさせて……君の目的は何ですか」
「さあ、俺はただの真実のしもべ。真実を求める者。まあ、特段おもしろい話も聞けませんでしたし……――さようなら、先生」




