第一章_第九節
「普通、窓を蹴破ったんなら進行方向側にガラス片が大量に散らばっているはず。だがあの部屋の床に散らばったガラス片は明らかに少ない。ってことは、窓は外から蹴破られたんじゃなく内側から破壊された、ということが考えられる」
饒舌に語るルドルフをしばし見返したのち、ヴォルフガングは嘲るかのように鼻でふんと笑った。
「……お前はホームズかぶれのシャーロキアンか? それともポワロ気取りでいるのか。……お前の目は節穴かよ」
「……なんだって?」
「あの窓……開いていただろう。俺があの部屋に入っていたとき窓はすでに開いていた。見ていないから確実にそうだと言えるわけじゃねえが、人狼はおそらくその開いた窓から侵入したんだろうよ。そして逃げるときに窓を蹴破った……」
「……へえ、窓が開いていたねえ……この大雨が降っているってのに? 普通に考えてこんな風の強い雨の日に窓なんて開けるか? たしかにあんたの言う通り窓は開いていたよ……だがアルノルトが元々開けてたってか?」
「なんで開けてたかなんて俺が知るかよ。探偵気取りの――赤髪野郎が」
赤髪、という言葉が出た途端、ルドルフの表情がこわばった。ルドルフたちのいる国、近隣諸国では、赤髪は差別の対象であった。数十年前までは一部の地域で赤髪というだけで悪魔の使いと言われ、処刑された時代もあった。そのような暗黒の時代は過ぎ去っているが、いまだに赤髪に対する差別意識は根強く、赤髪という言葉自体が蔑称であった。
いままでのひょうひょうとした態度とは打って変わって、ルドルフの顔つきは険しくなっていた。一発くらわせてやったとばかりに、ヴォルフガングはふんっと鼻で笑い飛ばし、大広間を後にした。
「落ち着いてください。第一嘘をついてどうなるというんですか?」
おさまりがつかない、といたように男の後を追おうとするルドルフをなだめつかせるようにクラウスが優しく声をかけた。だが、それもルドルフにとっては火に油を注ぐ結果となったようだ。ルドルフは苛立たし気にクラウスをにらみつけた。
「あ? 俺は疑わしいと思った点を挙げたまでだ」
「やめてください。人が傷ついているときにそんな言い争いをするのは」
間に入ったのが男ではなくレアだということもあり、ルドルフの表情はいささか和らいだ。彼も誰彼かまわずに突っかかる性格というわけではなく、ある程度の騎士道はわきまえていた。
「ごめんよ、だけどこれは重要なことだと思うけどね。誰がアルノルトをあんな風にしたのか、本当に人狼の仕業なのか……それとも」
なおも誰かを疑おうとするルドルフを責め立てるように、レアの目つきが険しくなった。だが、それくらいでルドルフが動揺するべくもなく、彼の口元には淡い笑みさえ浮かんだ。
「信じることと思考の放棄を同等のものとして扱うのは危険さ。考えることをやめて不確かな希望や憶測に頼る人間には冥界からの迎えの足音が近くなるぜ」
「それでも……私は信じます。信じるものには主が必ず加護をもたらします」
怒ったように、レアは大広間を去っていった。どうやらフロレットが眠っている部屋へと向かったようである。その小さな背が消えていくのを見ると、ルドルフはうんざりしたようにため息をついた。
「ったく、ちゃんと考えもせずに感情やら直感でものを断言しやがる。これだから女ってのは……」
「案外、女性の直感とやらは馬鹿にできるものではありませんよ」
「どうだか。考えることをやめたらただの動物と一緒だ」
「人間は少々頭に頼りすぎていると僕は思いますがね。人間の特異性を鼻にかけてほかの生物を見下す生き方をそろそろ見直す必要があると思いますよ。もう少し原始的な能力に回帰することが必要とされてくる時代がやってくるでしょう」
「人間がなんでわざわざ動物を目指さないといけないんだ、馬鹿馬鹿しい」
やってられないぜ、といったように、ルドルフも大広間を後にした。人がそばにいると八つ当たりするとわかっているからこそ、一人になろうとしたのだろう。
「原始的な能力への回帰……人間が内に秘めた動物性――まるで人狼だね」
人が減った大広間で、ぽつり、と一人の男が呟きを落とした。
「どういう意味ですか?」
フォルカーは、愉快そうに口に笑みを描いていた。
「人間が動物としての衝動を表層に現出させている。人狼もいわば原始的な能力に目覚めた人間だと言うことができるんじゃないかな」
「なるほど、それはおもしろい考えですね」
話に乗ってきたクラウスに、フォルカーの瞳は怪しげに光った。それは、暗がりの中に浮かぶシャンデリアがそう見せていただけなのかもしれなかった。
「先生は人狼という存在をどう考えますか? 人狼とは元々人間なのか……狼なのか……ベースはどちらにあるのか。元々どちらとも違う種なのか……」
感情のつかめないフォルカーの瞳に、クラウスはおもしろそうに笑みを深めた。
「僕は人間が元になっていると思いますね」
「……へえ、どうしてですか?」
「人狼という架空の存在を作り出したのは人間だからです」
「あ、先生。その答え方は卑怯ですよ」
途端に、二人がまとっていた緊迫した空気が解けた。張り詰めた空気は、一体どちらが出していたのだろうか。
クラウスは、議論をするのが愉快だというように、楽し気に笑みをこぼした。
「でもおとぎ話などに出てくる異類の話は、あなたも言っていたように現実をベースに人の恐怖心などが作り出したものでしょうから」
「じゃあ先生もヴォルフガングさんが言っていた人狼が出た話は信じていないってことですか」
「……さあ、どうでしょう。明言は避けさせてください」
「まったく~はぐらかす人ですね~」
フォルカーは指先で唇をなぞると、クラウスをじっと見つめた。
「本当に人狼という存在がおとぎ話にとどまれば良かったですけどね」
男の言葉に、クラウスは見つめ返すのみで返事をしなかった。フォルカーもまた、他の者たちと同じように大広間を後にしていった。
一人残されたクラウスは、親指で唇をなぞった。
「人狼、ね」
ぱちり、ぱちりと火のはぜる音が耳につく。雨もだいぶ収まってきたようだ。先ほどまでの大雨が嘘のように、しとしととした小雨が降る音が聞こえてくる。
身体を投げ出すようにソファにもたれると、クラウスは利き手で顔を覆った。
「まったく……こんなことになってしまうなんてね……」
手のひらから、血の臭いが伝わってくる。手は、消毒したはずであった。けれど、臭いがこびりついてとれない。脳がそう錯覚させているのか。ないはずのものをあると錯覚させているだけなのか。鼻の奥から、血の臭いが消えない。
横目で、暖炉の火を眺めた。薪をいぶした独特の匂いに、ほっとする。火は、多くのものを焼き尽くすほどの力をもっている。けれど、すべてを消せるわけではない。火が、すべてを消し去る力を持っていたら、どれだけよかっただろう。人間は、神から天界にある炎を渡されたという。けれど、天界の火であっても、万能ではないというのか。人間が、神の真似事をすること自体が許されない行為だというのか。
「人間は本当に愚かしい生き物だ……」




