序章
私の祖母は街外れの森の奥に住んでいた。年をとってだんだんと体の不自由を訴えるようになった祖母を見ては、私たちと一緒に暮らせばいいのに、と言った。
けれど、祖母はいつも微笑んだまま首を横に振るばかりだった。ここが良いのだと、口癖のように言っていた。ここから離れられないのだと。
その森に祖母以外の人間が住んでいるのを、私は見たことがなかった。時折、猟師や軍服を着た人たちを見かけるばかりであった。
こんなところに一人で居てさみしくないのかと聞くと、祖母は、あなたが来てくれるから、と微笑んだ。誰かの役に立てているのが、うれしかった。だから、不気味な森の小道も我慢して通った。祖母が喜んでくれるなら、それくらいのことなんということはなかった。一人の人間の支えになっているという喜びや使命感が、そうさせていたのかもしれない。
祖母に会えるのは、月に一度か二度であった。いつも、母自慢のアップルパイと、一本の葡萄酒をカゴに入れて祖母の家に行った。いつからか、母に頼まれる前に自分から進んで通うようになっていた。
そして、今日もいつものようにアップルパイと葡萄酒を届けに行こうとしていた。けれど、なぜか母は曇った表情をしていた。
――しばらくはおばあちゃんの家に行かない方がいいかもしれない。
なぜ母がそんなことを言うのかわからなかった。
最近、悪い狼がこのあたりに出ているらしいのよ、と心配する母に、私はそんなの平気だと言った。狼なんて、見たこともなかった。自分だけは死にはしないのだと、古から続いた伝統のように無鉄砲で何の保証もない確信を、私もそのとき胸に抱いていた。
だめよ、やめなさいと言う母に反発するように、私は絶対に行くと言った。反対されればされるほどに、真逆の方へと心が向いていった。
半ば飛び出すように、私はカゴを片手に家を出た。背後からかかる母の声がただただ煩わしく、足を急がせた。
いつものように薄暗い小道を歩いていると、不安が襲ってきた。母の言葉が、そのときになって恐怖を誘ってきた。悪い狼に遭ったらどうしよう、いや、絶対にそんなことはありえないのだと、二つの憶測がぐるぐると頭を駆け巡った。
不安になりながらひたすら歩いていると、目になじんだ祖母の家が見えてきた。よかった、という安堵と、ほら、やっぱり何も起こりはしなかったのだという後出しの自尊心が心を平静に落ち着かせた。
いつものように、戸を叩いて呼びかけた。普段だったら優しく迎え入れてくれる祖母は、そのときばかりはしばらく待っても現れなかった。
もう一度戸を叩いて呼びかけた。返事はなかった。がっかりした気持ちと、すねた気持ち。そして不審感を抱きながらドアノブに手をかけて中をのぞいた。鍵はかかっていなかった。
もう一度、呼びかけた。返事のかわりに、異常な空気が扉から洩れ出てきた。薄暗い部屋の中で、家具が散乱していた。椅子は床に倒れ、食器類は破片となって散らばっていた。ソファの布は破れ、裂け目から綿があふれていた。まるで何かが暴れ回ったあとのようであった。
立ちすくんだまま室内を見回して、ふと、奥の扉がわずかに開いているのが目についた。動悸が止まらなかった。その部屋は、祖母の寝室だった。そこに何かがいる気配がした。
近づいて、扉を開けた。そこには、ベッドがあって。
その上には。
「あ、あ、あ、あ……」
おばあ、ちゃんが。
おばあちゃんが。
おばあちゃんがおばあちゃんがおばあちゃんがおばあちゃんがおばあちゃんがおばあちゃんが――。