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絶望の底


 気がつくと石造りの部屋の中にいた。四畳くらいの狭い部屋だ。

 体中が痛い。どうやら死にぞこなったようだ。左手が動かない。折れているらしい。

 彷徨っていた僕の視線が若い男の姿を捕らえた。

 男は鋼鉄製の鎧を着ている。なんだか、ぼんやりとして相手の顔が見えない。

 もしかして眼鏡をかけてないのかなと思って顔を確かめたが、触った感触として確かにメガネは存在した。試しに外したらもっと見えなくなった。

 気絶していた短時間で目が悪くなったとでも言うのだろうか?

 認めたくないが現実そうなってしまったので受け入れるしか無い。

 

 それでもよく目を凝らして見ると、男と同じ格好の男が五明ほど所狭しと部屋の中で並んでいるのがわかった。

 この城の兵士で、ここは詰所なのだろうか?

 とにかく、視線は一様に僕へと向いていた。

 

「気がついたようだな。さぁ、答えて貰おうか! 城に侵入した目的は何だ! 何故あの場で倒れていた」


 いきなり怒鳴りつけられて僕は悲しくなった。訳もわからず、敵意の視線に囲まれている。

 僕を助けてくれる人間はこの場にいない。

 僕は泣きたい衝動を堪えながら、ありのままに事の顛末を話した。

 召喚されたこと。塔剛に嵌められたこと。


 「嘘をつくな! 召喚された勇者は三人だと聞いている! それに勇者様がそのような蛮行を働くはずが無かろう! この、ウソつきめが! 本当の理由を言え! すぐに吐くなら悪いようにしない!」

 

 三人ってどういう事だろう。僕はいないことにされてしまったのだろうか。


 それより、本当の理由は語ってしまった。その上で何故か嘘を要求されている。

 この場を切り抜けるにはそれらしい理由が必要だ。

 盗みに入ったと言えば、本当に引っ捕らえられてしまうだろう。

 僕は必死に考えた。

 しかし考えがまとまらない。

 周囲の早く喋れという重圧に負けて僕は着地点も見えないまましどろもどろに語った。


 「……実は遠くからきまして、よくわからなかったんです。兎に角大きな建物を目指していました……」

 「ほう、全くその行動をした理由がわからんが、とにかくお前は場内へ侵入したと。それで、倒れていた理由は?」

 「来る途中、怪我をしてしまったので。これだけ大きな建物になら治療してくれる人がいると思って」

 「……魔物にでも襲われたか? だが、それならまだ一応筋が通るな。よし。そういうことにしてやろう。小僧の歳で罪人奴隷として生きるのは辛すぎるからな。仮に本当の目的が賊だとしても俺が黙っていればすむことだ。今回だけは大目に見ることにしよう。若いんだからやり直せるだろ。その代わりここで2度と悪いことはしないと誓え! 城への無断侵入は立派な犯罪なのだからな」

 僕は真っ直ぐ見つめられてつい、

 「もう二度としません」

 と、言ってしまった。

 それに気をよくしたのか、僕の目の前にいた鎧の男は羽ペンでさらさらと紙に何かを書いた。

 

 「小僧、名前は?」

 

 僕の主張を無視し他挙げ句、勝手にねつ造されて進んでいく話。

 憤りを感じた僕は半ばやけっぱちでそのまま本名を名乗ることにした。

 「真那瀬冬真です」


 □

 ■

 □


 何度か質問を受けた後僕は城門の外で解放された。

 怪我したら今度から城じゃなくて治療院に行けと言われ、治療院を紹介して貰った。

 だけどよく考えたら金が無い。


 僕は仕方なく折れた腕をぶら下げたまま、足を引きずって歩く。

 視界はぼんやりとしている。目的も無い。

 城で嫌な思いをしたので、兎に角そこから離れたい一心で歩き続けた。


 ぐ~っ。


 お腹が鳴った。

 空間の歪みに飲み込まれたのが夕方だったから、そのままの時間経過をしていれば今頃夕飯を食べる時間のはずだ。だけど外は明るい。

 異世界では時間お流れが違うのだろうか?

 太陽は中天でサンサンと輝いている。

 

 そう言えば、夕飯時って事はとっくに見舞いに行く時間を過ぎてたって事だ。

 母さんは……いや、考えるのをよそう。どうにもならない話だ。

 人の心配をする前に自分を何とかしないと。僕の方が先に死んでしまう。

 それくらいに状況が悪い。

 歩きながら改めて自分の持ち物を確認した。

 僕はポケットを散々漁った後落胆する。


 ……僕は何も持っていない。売れそうな物がないから金が得られない。

 食料品や水といった生きるのに最低限の持ちあわせすら無い。

 状況を打開する術すら持っていない。異世界の情報も持ってない。

 最悪なことに自分の体の健康すらも無い。 

 

 だから、僕に出来るのは全てを呪うことだけだった。


 <【呪眼】のレベルが3にあがります………>


 突然頭の中に機械的な音声が響いた。長々と響いていたが、最後まで聞く余裕は無かった。

 何故なら、途中で両目を針で突き刺されたような強い痛みが襲ってきたからだ。


 「くそおおおおおおっ!」


 <【呪眼】のレベルが上がります>


 「何で僕ばっかりぃぃぃっ!」


 <【呪眼】のレベルが上がります>


 「うわあああああああっ!」


 <【呪眼】のレベルが上がります……>



 「ちくしょおおおおおっ!」



 <……上がります……上がります……上がります>


 ……。


 何度か音声が流れた後、最後に一際強い痛みが襲ってきた。吐き気を伴うような強烈な奴だ。

 僕は両目を押さえたままその場に崩れ落ちた。

 

 どれくらい立っただろう。

 痛みが引いたので立ち上がる。


 僕は目が開かない錯覚にとらわれた。

 暗い。暗い。暗い。何も見えない。

 瞼に力を込めても何の変化も無い。

 

 ……それもそうだろう。

 何しろ、僕は『失明』してしまったのだから。


 どうやら僕には理不尽な運命を呪うことすらも許されないらしい。

 誰に迷惑を掛けたわけでも無いのに。

 運命を呪う。境遇を呪う。

 たったそれだけのことで視力剥奪という罰を受けるのだ。


 あんまりだ。


 そう思いながら僕が顔から手を離すとぬちゃりと言う音がした。

 多分、僕の手は真っ赤に染まっているのだろう。

 ぼたぼたと目から頬を伝って首筋に何か流れているのがわかる。血だろう。

 ああ、僕の両目は何らかの力で物理的に貫かれたのだ。痛みはそのせいだったのだ。

 

 血を浴びたメガネはぬっとりと濡れている。

 レンズ部分には血が溜まって使い物にならなくなっているようだ。

 

 ……いや、それ以前に失明してしまえば視力補正の意味は無いか。

 僕は自嘲気味にメガネを投げ捨てた。

 どうせあってもなくても目は見えない。そう思ってのことだった。

 

 だけど、投げた瞬間思い出す。

 塔剛に殴られ壊される度、新しいのが買えなくてセロテープで補修した事を。

 ずっと一緒に苦しんできた相棒の事を。

 例え役に立たなくても見ず知らずの世界に一緒に来た数少ない持ち物の一つだ。

 自分の半身を失ったような虚無感を覚えた。


 「……う、あ。そんなつもりはなかったのに」

 

 惜しくなって慌てて地面を手探りで探したが、見えなきゃ見つかるはずも無かった。


 「……は、はははっ」


 片方の腕はあらぬ方向に俺曲がり動かず、もう片方は血まみれだ。目からも大量の出血。

 片足は思うように動かず引きずるしかない。これを満身創痍と言わず何という。

 そして、そんなのが街を歩いていたら人々はどう思うだろうか。


 答えはこうだ。


 僕の額に何か硬い物が当たった。何かを投げつけられたようだ。

 ぶつけられた感覚から察するに尖った石だろうか。ガラス片だろうか。

 額が切れて血がにじみ出す。


 「不気味な奴め! 街から出てけ!」


 それを皮切りにあらゆる方向から沢山の物がぶつけられる。一人の仕業で無いのだろう。

 僕はそれを躱そうとする一心で走り始めたが、すぐに躓いて転んでしまった。

 ……そうだよな。

 当然ながら目が見えなくなったのは今日が初めてだ。

 そんな僕が、見えないまま走るという行為は流石に無謀だったのだ。

 仕方なく僕は転ばないで出せる最高速度で早歩きをすることにした。

 前方を動く方の手で周囲に障害物がないか確認しながら進む。

 慣れない作業。僕の想像以上に遅い歩みだと思う。

 体を引きずるように片足が上がらない状態で懸命に歩く。


 ――ずてんっ


 そんな僕の足を引っかけて転ばせる奴がいる。そんなに僕が憎いかよ。

 僕がお前らに何をした。

 這いつくばる僕。

 周囲から『疫病神』だの『化け物』だとか言う声が聞こえてくる。

 目が見えなくなって唯一良かったことは、そんな周囲の目が気にならなくなった事だ。

 ぶつけない怒りと哀しみに歯ぎしりする。

 よろよろと僕は身を起こす。

 どこを歩いているのかわからないまま。

 何かに引きずられるように再びただひたすらに歩き続ける。

 もう状況がわからない。何をしているかもわからない。時間の経過もわからない。

 怖い。人の感情がひたすら怖い。まるで、僕が生きていちゃいけないみたいじゃないか。



 □

 ■

 □



 「うお、兄ちゃん。顔中血まみれだが何があったんだ。街の連中も不気味がってるぜ。いや、いいや。詮索はするまい。それより、街の外に行くなら護衛を雇うか、武器くらい持っていきな」


 ――どうやら僕が言われているらしい。

 いつの間にか街の端っこまでやってきていたようだ。

 物が飛んでこない方に向かっていった結果がこれだ。

 もしかすると人々に物をぶつけられながらここまで誘導されたのかもしれない。

 街の外。それもいいかも知れないな。

 人と関わるよりもずっと楽かも知れない。もう物をぶつけられたくない。


 僕は足を止めなかった。


 「どーなっても俺はしらねぇぜ。忠告はしたかんな」


 僕は歩き続ける。自暴自棄だった。

 街を出て生き残れる保証など無いのだから。

 どこかでのたれ死ぬことを望んでいたのかも知れない。

 ただひたすら真っ暗な世界を進む。


 □

 ■

 □


 ――結構な距離を歩いたと思う。

 先程から何かに躓くことと、何かにぶつかることが多くなってきた。

 それに手をついた時に感じたざらざらした感触。推測するに、おそらくは木。

 足元にはさわさわとした感触。恐らく背の高い葉っぱだろう。

 どうやら僕は林や藪といった場所に迷い込んでしまったようだ。

 日本だったら山間とかの林ではクマが出ると聞く。

 それを思いだして今更ながらに恐くなった。

 どうやら僕は死にたいと思いつつも、何故か死にたくなかったらしい。

 街へやっぱり引き返そう。

 しかし、脳にフラッシュバックするのは人々の害意ばかり。

 まるで死ぬことを望まれているかのような辛い感情。


 グギャアアアアアッ!



 およそ、人の物とは思えない叫び声が前方から聞こえる。

 見えない以上、僕に確かめる術は無い。

 恐ろしい叫びに対して僕が出来ることは耳を塞いでその場で蹲ることだけだ。


 何が街から離れるのもいいかもしれないだ。僕はバカか!

 野生生物の咆哮で、僕の眠っていた防衛本能が目を覚ました。

 本能が体の震えとなって身の危険を訴えかけてくる。

 

 震えながら、自分の愚かさを嘆きながら僕はそれでも蹲る。

 ここにいちゃいけない。それはわかる。

 だけど、街も安全と言えるのだろうか?

 あのまま街にいたら殺されてもおかしくないようにも感じた。

 考えは堂々巡りで僕は動けなくなってしまった。

 

 怖い。死にたくない。だけど生きてるのも怖い。死にたい。

 僕はどうしたらいい。



 「ぐわああああああああっ やめろぉ! うあああああああっ!!」

 

 

 突然、成人男性の者と思わしき叫び声が聞こえてきた。


 僕はその声を聞かないように片耳を肩に寄せて塞ぎ、動く方の手で残った耳を塞いだ。

 ただでさえ目の見えない僕が耳を塞ぐという行為。

 それは殆どの感覚を捨てるに等しい行為だ。得られる情報が急速に減る。

 それでも与え続けられるプレッシャー。耳にこびりついて離れない叫び声。

 もう、絶望しか無かった。僕は恐慌状態に陥った。



 「うああああああああっ」


 ……だれか。誰か僕を助けて。



 ……祈りが通じたのだろうか?

 

 不意に、袖に違和感を感じた。

 手を解放して耳を傾ける。

 

 「……に、人間さんも、に、にげよう。このままここにいたら魔物に襲われちゃうよ」

 と、掠れたようなか細い声がした。

 いつの間にか、近くに誰かが寄ってきていたらしい。

 多分、女の子だと思う。確かめる術は無い。


 「誰?」

 

 僕は手探りで相手を求めた。

 

 「ひっ! いじめないでっ!」

 すると、何故か怯えたような声をあげられた。

 

 「……に、人間さんは恐いですけど、し、死んじゃうのはだめだから」

 

 少女の声は先程より少し遠ざかったところで聞こえてきた。

 どうやら自分に言い聞かせているようだ。

 僕に怯えているのか? それに、人間さん?

 それに……。

 

 「……死んじゃう?」

 僕の脳裏に男の断末魔がフラッシュバックする。危機が去っていないことを思い出す。


 「馬車、魔物に襲われたの。魔物、今は餌と太った人間さんを食べるのに夢中。私はその隙に逃げ出したの。でも食べ終わったらすぐにこっち来る」

 たどたどしく舌っ足らずな喋り方だ。多分、喋り方相応に幼いのだろう。

 

 本当は助けて欲しい。どうにもならない現状を打ち破って欲しい。

 でも、期待は出来ない。

 そこにいるのはピンチを救ってくれるヒーローではない。

 多分の予想だけど僕より小さな少女だ。

 ……だけど……僕は。 


 「……すっごい鋭い牙があって、すばやくて怖いの。おおきな人間さんだってぺろりと食べちゃうの」

 

 クマみたいなものだろうか。クマなんて猟銃があってやっとの相手だぞ。 

 ……はは。

 だったらどの道もう終わりだ。

 どうやら運命は僕にここで死ねと言っているらしい。

 

 くそっ、腹をくくればいいんだろう。助けを求めちゃいけないんだろう。

 どうせ助けを求めたってこの状態じゃ荷物にしかなれない。

 僕のせいで死ななくていい誰かまで巻き添えになるなんてご免だ。


 「君には関係ないだろう。いいよ。放っておいてくれ。僕はここで死ぬんだ。死ぬために来たんだ」

 精一杯強がった。助けてって言いたいのを必死にかみ殺した。


 「嘘、震えてるもん。ほんとはこわいはずだもん。だからにげよう」

 

 僕の手を掴んだのは想像以上に小さな手だった。

 多分、小学校に入ったばかりの子供くらいの大きさだろう。

 そんな小さな子に心配されてしまっている。自分が情けない。


 だけど、だからこそ引き下がるわけにはいかない。

 情けない僕の最後の意地だ。理不尽な運命への最後の反逆だ。


 僕はこの命一つで誰かの運命を変えてみせる。



 「僕は死にたいんだ。勝手に生きたいと決めつけないでくれ! 君は生きたいんだろう。生きるべきだ。ちょ、丁度いいじゃないか。 ぼ、僕が餌になれば少しは君の逃げる時間を稼げる」


 グルルルルルルッ!



 少し遠くで唸り声がまた聞こえた。心なしかさっきより近い気がする。


 「……はやく。はやくにげよう」

 「いい事教えてやる。僕は目が見えないんだ。逃げるのなんて最初から無理なんだ。だから遠慮無く囮として使ってくれ!」


  「……で、でもぅ……」

 

 それでも少女は僕の手をつかんで離さない。

 その手はかすかに震えていた。きっと彼女も不安なんだろう。

 僕のために最大限気丈に振る舞ってくれている気がする。

 優しい子なんだろう。だからこそ僕の決意は固くなる。


 「いいから。どっか行けぇ! 僕はここで一人静かに死にたいんだ。誰かにいられると迷惑なんだよぉ!」

 

 僕は荒々しく手を振り回す。近くにいる誰かに当たることも厭わない。


 「ひぃっ!」

 少女がたじろいだ様子が容易に脳裏に浮かんだ。

 

 「……め、目が見えないの?」


 少女は怯えたような声でそれでも尚僕に語りかけてくる。


 「首輪無いけど人間さんも奴隷? 人間さんも体に悪いところがあると売られちゃうって聞いたよ」

 『も』って事は今話しかけてきている子は奴隷なのか?

 だが、それがわかったところで状況は好転しない。

 いや、むしろ最悪だ。

 奴隷身分なんて力なき者の称号でしか無いのだ。

 

 「わからない。違うと思うけど。じゃあ、僕は……一体なんなんだろう?」


 僕の置かれた状況は最低中の最低だ。僕も紛れもなく力なき者の一人である。

 でも奴隷になった記憶は無い。

 おかしい。世界に虐げられる僕が奴隷で無くてなんなんだろう? 


 「……よくわからないけどわかったの。私が人間さんを助ける。人間さん、悪い人間さんと少し違うみたい。だから助ける」

 

 「何度も言うけど、僕は目が見えないから助けるのは無理だよ」

 「見えなくても生きてる。死ぬのは駄目」

 「いや、生きる価値はないよ。これから先ずっと誰かの世話にならなきゃ生きられないんだ。人に迷惑かけるくらいならいっそ……」


 ――ばちんっ!


 頬に痛みが走った。どうやら頬をはたかれたらしい。

 力は弱かったけれど、僕の芯まで揺さぶられた気がした。


 「友達、私を逃がそうとして魔物に食べられちゃった。人間さんはまだ生きられる。あきらめちゃ、駄目」

 

 僕を諭す声。見えなくても少女の真剣な様子がわかる。時々鼻を啜っていることから泣いていることも。

 どうあがいてもこんなどうしようもない僕を助けたいらしい。

 さっき固めた決意が揺らぎそうになる。思わず助けてって言ってしまいそうになる。

 死にたくないって気持ちが溢れそうになる。


 「……僕が生きたって何も出来ないよ。目が見えない。自分のことだって出来ない。何をすればいいかわからない。どうして! 僕ばっかり不幸な目に遭う! 僕なんて荷物にしかならないから死んだ方がいいんだ! 僕が荷物だったから母さんは無理して病気を悪化させた! 僕は荷物なだけで何にもしてやれなかった!多分、僕がいたから母さんは心配で死ねなくて限界を超えても生きているしか無かったんだ! だけど、そんな僕でも死ねば君は助かるかもしれない。死ねば全てが終わる。死ねばそれでやっと僕は救われるんだ!」


 「ばかぁ! わからずやぁ! 私のお母さんもお父さんも悪い人間さんに殺されちゃった。生きたかったのに助からなかった。みんな、私に生きて欲しいって言った。だから私も言うの。人間さんは生きてって。一人じゃ生きられないならずっと私が人間さんを助ける。泣かなくて良くなるまでずっと側にいる……だからぁっ。ぐすっ」


 会って間もない僕のために少女は涙を流している。

 感情の奔流が真っ直ぐぶつかってくる。受け止めるには言葉が重かった。

 十分すぎるほど悲しみを含んだ言葉だった。

 ようやく僕は気づいた。

 奴隷の少女の人生は僕以上にきっと幸福とはほど遠いいものだったはずだろうと。

 不幸なのは僕だけじゃないことを。

 それでも少女は前を向き、僕を励ましていると言うことを。

 自分がどうしようもなく情けなくなった。

  

 「う、僕は……」

 「……大丈夫、きっと大丈夫。なかないで」


 不意に僕は抱きしめられた。僕よりも遥かに小さな体だった。


 その小さな体から確かな温もりを感じた。

 あったかい。心からそう思った。


 ん? 『泣く』?

 僕は頬に手を当てる。濡れている。どうやら僕は泣いていたらしい。

 僕は死にたかったんじゃない。死んで誰かの荷物をやめたかったわけでも無い。


 「……僕は、生きてもいいのか?」

 「うん。だから、そういってるの。いきるためににげよう」


 誰かに生きていていいと言って欲しかっただけなんだ。

 辛いから誰かに手を差し伸べて貰いたかっただけなんだ。

 側にいてくれると言って欲しかったんだ。


「……わかった。僕の負けだ。もう泣くのはやめる。みっともなく生きあがいて、こんな僕でも出来ることを探してみるよ。だから、情けないけど僕の手を引いて街まで行ってくれるかい」


 街で後ろ指を指されるのも甘んじよう。石をぶつけられても笑っていよう。

 少女は僕に生きて欲しいと言った。支えるとも言ってくれた。

 心強い言葉だった。

 それだけで僕は勇気づけられたんだ。

 だから、僕は生きよう。

 そして、いつか必ず彼女に…………。


 「まかせるの」


 最後まで考えがまとまらないうちに、少女の小さな手が僕の体を引く。

 手と手の繋がり。確かに相手の体温を感じる。

 それだけで心が満たされていく。


 「……ありがとう」

 

 少女に聞こえたかはわからない。だけど確かに僕は呟いた。

 危機的状況は変わらないのに、いつぶりだろうか。

 僕の心は穏やかな気持ちで満たされていた。



 グルルルルルルルッ!



 

 だけど、それは長く続かなかった。少女の足音がピタリと止まる。

 手を引く力が弱まった。

 すぐ側で唸り声が聞こえたのだ。

 きっと、正面に魔物とかいうのがいるのだろう。


 「……そ、そんなぁ」


 立ちはだかる現実。少女の怯えた声。

 先ほどの会話で僕は少しばかり平常心を取り戻すことが出来た。

 そして、いいように吹っ切れてもいた。

 僕は強く震える少女の手を僕はしっかりと握り返した。


 「ごめん。約束したばっかりで悪いけど。約束破らせて貰うかもしれない」


 僕は少女の手を引いて自分の後ろに下がらせた。


 「逃げて!」


 「……に、人間さんは?」

 「時間を稼ぐ。可能な限り。だから街へ行って人を呼んでくれ。目の見えない僕でも何とか歩いて来れる距離だ。多分それほど遠くないはずだ 全力で走れ!」

 「……で、でも!」


 「ぐずぐずするな! いけええええええっ!」

 「ひっ!」


 少女の小さな足音が僕の背後へと移動を開始した。

 

 僕はあの子に救われた。もう、それだけで十分だ。

 

 満たされた僕は、少なくとももう絶望の底で死ぬことはない。

 いいだろう。魔物だかなんだか知らないがかかってこい。

 元より失う物なんて無い。命すら失いかけていたくらいだ。

 

 どうせ倒れるんだったら前のめり。

 全力で挑んで散ってやる!

 目標は少女が確実に逃げ切れるように出来るだけ長い時間を稼ぐ事。

 その上で……もし少女が助けを呼んでくるまで万が一でも僕が生き延びたら、その時は生を歓び必死に生き抜こう。


「さぁ、みっともなくあがこうじゃないか!」


 僕は唸り声のする方に走り始めた。


 「そこかっ!」


 短い時間ではあるが目が見えなかったため僕は聴覚に頼って行動していた。

 そのおかげか、何となく音で位置が把握できるようになっている。


 僕は先程唸り声が聞こえたであろう場所に勘を定めて蹴りを放つ。だが、虚しく空を切った。

 やはり、盲目で戦おうというのは無謀なのだろうか。


 空振りした直後、足に沢山の鋭い何かが突き刺さった。


「あがあああああっ」


 僕は痛みに呻きながら足を必死に振り回す。ふくらはぎの辺りの肉が服ごとブチブチと嫌な音を立てて引き裂かれた。魔物がクマのような動物だと仮定するならば鋭利な物と言えば牙か爪。

 爪は引き裂く性質を持つから引きちぎられそうになった今回は噛まれたのだろう。


 しかし、やばかった。

 もう少し深く噛まれていたら危うく骨ごと食いちぎられて足を丸ごと持って行かれる所だった。

 確認は出来ないが感覚的にごっそり肉は持って行かれたと思う。

 蹴りを放った足がもう骨だけになってるんじゃないかと思ってしまうくらいだ。

 重傷は負ったけど、相手がほぼ動く気配を見せなかったので、僕の勘はどうやら大ハズレというわけでもない証明にもなったようだ。


 

 <条件を満たしました。Pスキル【気配察知】を獲得しました>

 

 

 頭の中で機械音声が響く。


 急に思考がクリアになる。先程まで勘で位置を特定していた『奴』の息づかいを感じる。

 見えなくても何となく場所がわかる。そうか、これがスキルの効果か。

 ……そうだスキルだ。使いたいと思えば確か使えるスキルがあったはずだ。

 剣崎みたいに武器を出せたり、元宮みたいな回避補助ができるスキルがあったらこの状況を打開できるかも知れない。

 確か僕には【レベル1固定】のPスキルと【呪眼】のAスキルがあったはずだ。

 Pスキルの方は常時発動らしいから【レベル1固定】とかいうスキルはもう発動済みとみていい。

 

 使い方はわからない。だからこれは賭だ。


 「【呪眼】!!!」


 僕はありったけの声で叫んだ。 


 しかし、何も起こらなかった。

 代わりに、心の中に『行き所を無くした怒りが渦巻く、呪いの眼です。未解放』という文字列が浮かんできただけだった。

 どうやら使えないらしい。


 僕は一瞬で頭を切り換えると、スキルは使えないとして判断。

 油断なく正面の魔物の気配を伺い動向を探り続ける。

 

 なるべく致命傷は避けたい。少しでも長い時間生き残るために。



 だけど、僕をいじめて楽しむ残酷な運命は、その消極的な狙いすらも許すはずがなかったのだ。


 


 「きゃあああっ!」 


 後ろの方で悲鳴。

 正面の魔物の気配は相変わらずそこにあることは把握している。

 なのに背後にも魔物の気配を感じる。

 だとすれば、魔物はどうやら二匹いるようだ。今の僕にはわかる。わかってしまった。


 状況確認のため、背後に意識を裂く。背後で魔物が少女ににじり寄るのがわかる。

 だからといって前方の魔物からマークを外すわけにはいかない。


 ――どうして。

 どうして僕から全てを奪っていくんだ。

 くそ、運命を呪って……。

 

 いや、もういい。

 運命だとか神だとかは当てにならない。

 だから僕がやるしかないんだ。僕が奪わせない。

 だから僕が呪うべきは世界でも自分の運命でも何でも無い。

 お前の見るべきは揺るぎない真実。

 呪いで曇った目じゃ何にも見えない。お前はそう言い続けていたんだろう!

 

 その事に気づいた瞬間、先程どうして僕に呪眼の使い方がわからなかったのかはっきりした。

 【呪眼】は恐らく本来の効力を失っていたのだ。


 <条件を満たしました。【呪眼】が昇華され【真眼】に進化します。同時に【魔眼】への進化が途絶えました>


 え【魔眼】って。

 言葉の響き的に何かそっちの方が強そうだったんだけど。


 まあいい、それより【真眼】の効果なのか視界がクリアになった。

 効果は【全ての真実を見抜く力】

 メガネもないのにバッチリ視力が回復しているようだ。

 

 鮮やかな森の緑が僕の目に飛び込んでくる。

 何にも見えなかったのが嘘のようだ。

 どうやら葉が折り重なって光のあまり差し込まない深い森ににいるようだが、それぼど薄暗い森でも今なら木々の向こうだって見通せる気さえもする。


 そして、僕の目の前の奴の姿がはっきりとわかった。

 虎ほどの大きさの巨大狼だ。ボサボサの灰色の毛並みを荒立たしく逆立てている。

 前傾姿勢を取っており、狼の前足に荷重がかかっている。

 【真眼】の効果か筋肉の軋みまで見える。

 今、目の前の狼の前足は限界まで歪みエネルギーを蓄えている。

 だけど、その方向は僕には向いていない。

 なる程。左方に一度フェイントを掛けた後横っ面から襲撃するつもりだな。


 ……僕は予備動作から瞬時に脳内で三秒後の予測図を作り上げた。 


 直後、狼が動く。

 当然、僕はその動きを予測していた。

 

 襲撃に遭わせるように僕は骨がむき出しになった足を思いきる振るった。


 ――ボキッ!


 足先から嫌な音がする。

 どうやら折れたのは僕の足の方だったようだ。

 骨が折れたことで、かろうじて腱で繋がった僕の足。

 先程からのダメージの蓄積で無惨な状態になってしまった。


 ただ、代償を払った価値はそれなりにあったようで狼はバランスを崩して転がった。

 

 鼻先につま先をカウンター気味に決めたので、狼は急所にピンポイントで自重分の威力が跳ね返されたはずだ。しばらくは起き上がれないだろう。


 僕は制服の袖を無理矢理噛みちぎると、筋繊維や腱でかろうじて繋がっているだけで使い物にならなかった足に近くに落ちていた枝で添え木してグルグルと縛り無理矢理固定する。

 三本ほど太く真っ直ぐな枝をあてがって何とか地面を踏みしめられることを確認し、急いでもう一体の狼へと向かう。

 出血がひどい。縛ったばかりなのに上着の袖はもう地でびっしょりだ。

 このままだとそう遠くないうちに失血死しそうだ。


 だけど、かまうもんか。僕が死ぬことは元より計画に織り込み済みだ。


 僕はミシミシと嫌な悲鳴を上げる足を無視してずんずん歩を進めた。


 やがて木々の隙間から狼の姿を確認する。先ほどのよりも一回り小さな個体だ。メスだろうか。

 その狼のすぐそばに普通よりも耳が長くとんがった金髪の少女がいた。首には鋼鉄の首輪が嵌められている。着ているのは簡素なボロキレだけだ。

 そんな少女は樹木を背にしてその狼の接近に怯えていた。明らかに追い詰められていた。


 「死なせるかあああああっ!」

 

 狼が鋭い爪を振り上げる刹那、僕は狼と少女の間に割って入る事に成功する。


 鮮血がぴしゃりと宙を舞う。

 僕の腕の肉はそがれ、白い骨が覗いている。血が、滝のように流れはじめた、

 もし、体の小さな少女がまともに受けていたら一瞬で絶命していただろう。

 急所を外したとは言え、僕も体はそれほど丈夫では無い。

 なるべく被害を押さえるため、折れて使い道の無かった左腕を盾にするように割り込んだが、出血が激しくて意識がもうろうとし始めている。もう幾何も戦えないだろう。

 だからといって、僕が死んだらこの少女は間違いなく殺される。

 そう思うと倒れるわけにも逃げるわけにもいかなかった。

 

 疲れた。休みたい。眠ってしまいたい。


 僕の体が絶えず訴えかけてくる要求信号を頬を突っ張って跳ねのける。

 休むのは死んでからで十分だ。僕は自分に言い聞かせ喝を入れる。


 僕は自分を奮い立たせるために守るべき者の姿を見た。


 そして、そこではじめて彼女の手に握られている物に気づく。短剣だった。

 びくびくとしながら狼を牽制するように短剣を突き出している。

 線の細くやせ細った少女が生を勝ち取るためにおっかなびっくり武器を構えている様は満身創痍の僕から見ても可哀想になるくらい痛々しい光景だった。

 

 「貸せ!」

 「ひっ!」

 僕は刃の部分を構わず掴んでそれを引ったくる。少女に安全な柄の方を差し出して貰うとか婉曲な方法をとる余裕すらもなかった。

 手のひらがざっくりと切れたがもうここまでボロボロなら誤差の範囲と言ってもいいだろう。

 僕は短剣の柄を真っ赤に染め上げながら素人ながらにそれを構えた。


 「……やばいな」

 もう足先や手先の感覚がない。失血しすぎたせいだろうか。

 体の末端から冷たくなってきている気がする。

 少女の逃げ道がない以上、もう時間稼ぎは意味がない。

 だとすれば挑むべきは短期決戦。僕が生きていられる間が勝負。


 時間が無い。そう思った僕は不利を承知で自分から狼へと仕掛けた。

 愚直な最短距離での直進。全力でぶっ刺すと言う殺意だけで構成された技術の乗らない稚拙な攻撃。しかし、それでも僕に出せる現状最大の攻撃だ。

 直進する僕に対して狼は俊敏な動きで立ち位置を変える。

 その動き自体は見えていた。目だけはスキルのおかげで異常に良くなっていた。

 だけど僕の体がついてこなかった。まるでコマ送りのように周りの景色が見えた。

 狼は僕の動きに合わせ有利に立ち回ろうと体を僕の左方へと運んだ。

 それに合わせて僕は体を反転するように僕の体に命令を出した。

 しかし、僕の体は相変わらず愚直に前に直進し続けている。

 数瞬前に命じた直進せよという脳の命令を未だに愚直に守っているのだ。

 そして、脳が筋肉に命令を出し直すそのコンマ数秒が命取りだった。

 僕は本当に最低限の防御行動しか取らせてもらえなかった。

 体の自由が利いたのは何の命令も出していなかった左腕だけ。骨は折れてはいるが根性出せば動くには動くのだ。

 僕は痛みを堪えながら無理矢理左でを動かす。それでもって剣山のような狼の腔内に自分の左腕を突き入れ、急所を噛まれないという選択をするほかなかったのだ。

 狼は差し出された僕の左腕を容赦なく食いちぎっていった。


 「……くっ、ただではやられるか」


 僕はすれ違いざまに右腕に持った短剣を狼の腹に突き刺した。

 ……しかし、体重の乗っていなかったとっさのその攻撃は狼の分厚い体毛に阻まれて突き刺さることはなかった。


 ……畜生。


 返せ。僕の腕。肘から先を持って行かれた。

 折れていただけならどうにでもなったが、もう僕はこれから先健常には生きられないだろう。

 視力が回復したら今度は腕かよ。片足もくっついているとは言えない惨状だし最悪だ。

 あるべき所からパーツが失われた僕の左腕からはぼたぼたと血が滴っている。

 

 ……ああ、しんどい。


 だけど、敵は待ってはくれない。

 とどめとばかりに身構えた狼の首の筋肉が身構えるように収縮する。

 同時、狼の前足の爪が地面をえぐる。

 クラウチングのスタートのような構えからタメを作り、一気に飛び込んで攻撃するつもりのようだ。

 

 だけど、僕はそれに気づかないふりをしてあえてもう一度愚直に直進する。

 やがて、狼の前足の筋肉がぎゅんっと縮むのを確認することが出来た。

 狼は間違いなく僕の死にかけの様子を見て油断した。

 最小の労力で殺すため喉元を狙って一撃で殺しに来る。

 そんなビジョンが見えた。

 だから僕はその狼の様子を見て薄く笑った。

 狼が飛び出す直前、僕は意図的にその場へと倒れ込んだ。


 すると、上半身を起こすようにして僕へと飛びかかってきた狼の下を僕はくぐる形となる。


 ……血が足りない。

 もう僕は起き上がれない。地面に転がった状態ではまともに身動きすらできない。

 格闘技でマウントポジションが絶好の位置取りである事からわかるように、相手からすれば寝ている僕は仕留めやすい格好のエサでしかない。

 だからここで決めてやる。


 飛びかかってきた狼の下すれすれに僕はいる。

 思った通り腹部は体毛が薄い。

 ……これなら。僕は右腕の短剣の柄を握り直す。

 その僕の不敵な挙動に気づいたのか狼がとっさに前足の鋭い爪を振り下ろしてくる。

 狼の爪がかろうじて僕の顔へと引っかかった。爪の刺さった場所からガリガリと腹部の方へと傷を作っていく。

 僕は必死にショック死しないように意識をつなぎ止めながらそれを甘んじて受ける。ここが正念場だ。

 

 四足歩行の動物は基本的に直線の攻撃しか出来ない。飛びかかったら一度着地して、方向転換してからもう一度飛びかからなければ攻撃できないのだ。

 いかに身体能力の高い野生動物だって空中では無力だ。


 「ここだああああっ!」


 僕は手に持った短剣を下から突き上げる。

 狼の重量に負けそうな右腕がミシミシ悲鳴を上げているが僕は歯を食いしばって耐え続ける。途中でボキンと嫌な音がした。


 「ぐっ………ううううっ」

 

 短剣と爪による痛みのチキンレース。相打ちで上等だ。

 僕の持っている短剣の方が狼の爪より刃渡りは長い。

 与えるダメージならこっちの方が大きいはずだ。

 その証拠に裂けた狼の腹部からは内臓が垂れ下がってくる。

 僕は痛みを必死に堪える。骨が折れてあらぬ方向に曲がりかけた右腕に加勢するように僕は自らの腕に噛みついて無理矢理引っ張った。

 意地でも離すもんか。

 僕はナイフを持って行かれないように都だけ考えて必死に短剣へとしがみついた。


 ギャアアアアアウ!



 狼が苦悶の叫びを上げる。

 ようやく僕の狙いに気づいたみたいだけど、もう後は肉を切り裂かれようが慣性の法則に従って狼の腹は縦断されるしか無い。


 ドサッと狼の体が地に落ちる。ぬらぬらと紅い体液が地面に染み渡っていく。


 ……僕は慌てて地を這った。狼が復調するまえに奴の着地点に向かうためだ。

 多分仕留め切れていない。確実に喉をかっ切ってやる。


 僕はよろよろと動き始める。そしてその途中ガクッと何かに足を引っ張られた。



 ――絶望が迫っていた。


 僕が最初に対峙した大きい方の狼だ。一時的に気絶させただけなので大きな怪我はない。

 満身創痍の僕と対局にほぼ万全の状態と言える。

 奴は添え木してある僕の足を容赦なく噛んでいた。

 腱夜勤肉ででかろうじて繋がっているだけで骨という支柱を失った足だ。間もなくブチブチと引きちぎられる。


 ……くそ、邪魔なんだよ。


 僕は腹部を切り裂かれたショックで痙攣する狼のを方を見据えた。手負いの獣は手強いと聞く。 二対一にするのだけは絶対駄目だ。


 僕はずりずりと地を這う。距離にして二メートルほどだが非常に遠い。


 地を這う僕の足に更なる痛みが襲う。今度は健常な方の足だ。

 

 ……這っては引きずられ、這っては引きずられ。


 残った僕の足も何度も噛みつかれているうちにボロボロになって引きちぎられた。

 僕はズタボロのいい玩具だった。

 両足を失った。片腕もない。

 まるでダルマだが、まだ僕の心は折れちゃいない。

 唯一残った右腕の短剣を地に突き刺し芋虫のようにみっともなく這い続ける。


 ……だけどな。僕の執念が僅かに勝った。 

 狼に弄ばれながらもジリジリと距離を詰めた。

 未だ僕の目標とする方の狼は痙攣を繰り返している。

 これで刃は首元に届く。一匹は殺せる。


 僕は短剣を振り下ろそうとした。

 しかし、すぐにとある事実に気づく。

 僕が地を這っている間に、狼また生死の境を彷徨いのたうち回っていたのだ。

 こいつはもう時期に死ぬ。助からない。そんな確信が持てた。



 ウオオオオオオオオオン!


 

 ――やがて、僕を弄んだ狼もまもなく訪れる仲間の死を悟ったらしい。


 まるで、お前の大事な物も奪ってやると言わんばかりに殺意の眼をこちらへと向けてきた。

 

 「……くそぅ」

 

 ……ああ、もう駄目か。

 もう気力でどうにかなる範囲を通り越しちまった。

 どんなに動きたくても体が動いてくれない。


 ……僕はよくやったよな。一体とは言え狼をこの手で倒したんだ。

 だけど、少女を守れなかったのだけが悔いだ。悔いしかない。

 僕は少女を見た。少女は僕を見て腰を抜かしていた。

 怯えた表情とまだ敵を排除し切れていない事実。すぐに涙でその姿が滲んだ。

 

 「……ま……もれ……かっ……た。 ご……めん……に……げて」


 かひゅーかひゅーと口から空気が漏れて喋ることすらままならなかった。

 今のだってちゃんと発音できていたのかも怪しい。

 少女は未だ腰を抜かしている。今なら逃げれる。逃げて欲しい。

 伝えられないのがもどかしかった。

 もうそれだけの言葉を発する余力がなかった。


 仲間を殺された狼はまるで自分の復讐心を満たすために僕に最大限の苦痛を与えようと思案しているように見えた。ぐるぐる僕の周りを旋回する。

  

 狼はきっと僕を最大限残虐な方法で殺すのだろう。

 僕は今度こそ本当に死を覚悟した。



 ……しかし、狼はこちらに背を向ける。


 どこへ向かうのだろうと僕は狼の足取りを目で追った。

 そして……まさかと思った。

 

 狼はあろう事か僕でなく少女に狙いを定めたのだ。


 ……くそ、ここまでやって何とかならないのかよ。

 

 僕は心の中で自分の無力さを罵った。

 ここにいるのが僕以外の勇者の誰かだったらもっと簡単にこの場を切り抜けたに違いない。

 剣崎だったら刀を作り出して戦えただろう。怪我してもここまでボロボロにならないはずだ。

 塔剛だったらその圧倒的なフィジカルでねじ伏せられたと思う。

 本人のスペックはまだ未知数だが、元宮のスキルは守りに関しては万能だ。

 そもそも僕以外の勇者のステータスは僕より遥かに高かった。


 ……僕は無力だ。

 

 それがただ悔しかった。

 そして、一度押さえ込んだはずの絶望が再びそこまでやって来ている事にも気づいた。

 

 なんで絶望が襲ってくるんだ。

 もうとっくに乗り越えたはずだろう。もう死ぬのは怖くない。なのに何故なんだ。


 答えは僕の目線の先。木陰で震える少女にあった。

 

 ……ああ、そうだったのか。

 どうやら僕は少女に死なれることが自分が死ぬよりも嫌らしい。


 僕は昔から一向に助けてくれる様子の無い神を呪ってきたけれど。

 散々神はいないと思わされてきたけど。神を信じるなんて一度もしたこと無いけれど。


 こんな時ばかりで申し訳ないけれど。


 『神様』でも『どこかの誰か』でもいいのであの子を助けてあげて下さい。



 ……最早、体の動かない僕に出来たことは一心に祈ることだけ。

 ただただひたすらに、がむしゃらに願い続けた。

 


 ……しかし、現実は無情だった。


 狼は僕から見える位置まで少女の首を加えてやって来た。

 泣き叫ぶ少女を僕は見ているしかなかった。


 ……そして、少女だった物はバリバリ、バキバキと嫌な音を立てながら血に濡れてただの肉塊へと変わっていく。

 信じたくない光景だ。だが紛れもない事実だった。


 ……やはり神などいなかった。



 「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」


 ――森の中に僕の絶叫が木霊した。



 

この話を書いているとSAN値がピンチになる気がします。中々筆が進まない。

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