2話「母親」
それなりに長く生きていれば、誰しも、いずれ親の死に直面する。
後悔の涙。
悲しみの涙。
しかし、最後には感謝の涙を流すのではないだろうか。
親不孝者がいた。三十路を過ぎた彼は、だいぶ前に失踪した彼の父と同じく、定職にも就かず、母親の脛をかじり、日雇いで得た日銭を、享楽に注ぎ込んでは、暮れていた。
母子は木造の3階建てのアパートに住んでいた。部屋が2つあるうちの窓側で、エアコンの設置された部屋を息子が占領し、心臓を、病んでいるにも関わらず、母は、夏は蒸し暑く、冬は凍えるような畳の部屋で生活していた。
この息子は、母には冷たい言葉を投げつけ、時に無視をするくせに、猫がたいそう好きで、近所の人懐こい黒猫(おそらくは飼い猫で年老いている)のためにと猫のおやつを買い物袋にぶらさげ、近所をうろうろする事がしばし、あった。
「近頃、クロのやつ来ないな」
勝手に名づけてみたが、クロはやって来なかった。今日のような凍える1月の寒空では、飼い主が用意した温かい毛布で丸くなっているに違いない。息子はパチンコで少し勝った事もあって、猫に遭遇できない事を不運には思わなかった。
鍵を差込み、7時間ぶりに扉を開けた瞬間、息子は違和感を感じた。朝の9時にここを出た時と、まったく様子が同じだったのだ。母がパートに出る時間はとうに過ぎている。しかし、玄関の簾の向こうに、ひきっぱなしの布団が見える。電気は消えたままだった。母は寝ていた。やはり、朝の9時と同じ姿勢のまま布団に入っていた。胸騒ぎと同時に明かりをつけた。
母は薄目のまま、口を大きく開け、固まっていた。おい、おい、と息子が揺り動かしても母はマネキンのようにグラグラと応じるだけ。冷静に母の顔を確認する。潤んだままの虚ろな瞳。紫色の唇。氷のような頬。母は、死んでいたのだ。
思えば、朝起きた時から、母は珍しくいきびをかかず熟睡していたように思う。息子は、母の遺体を何度も跨いで、出かけていたのだ。母は、息子に発見されるまで冷たくなって夕刻までじっと待っていたのだ。
錯乱状態の息子は119番に電話をかけた。蘇生は望めないだろう。しかし、母をこのままの状態にしておくのは不憫に思えた。情けない話だが、息子は恐れおののき、母の遺体に触れようとはしなかった。
十分もしないうちに、救急隊がかけつけ、あれこれと処置をしていた。毛布をめくると糞尿の香りがした。息子はひどく裏切られた気持ちになった。母が、自分のわがままを聞いてくれたように、その命の権限さえも、息子である自分が掌握しているような錯覚を持っているからだった。
「年金払うために、一生懸命働いていたのに。なんで死ぬんだよ」
息子は埃で汚れたアパートの砂壁を叩きながら言った。
「なんで勝手に死ぬんだよ」
母の死に顔は、自分への残酷な抗議にも見えた。母の心臓の病の事は知っていた。最近、パートから帰ると息切れしていたのも知っている。うるさいな、と怒鳴った事さえあった。
「息子さんですか」
救命士の一人が、死亡確認と、警察を要請する旨を告げてきた。
「なぜ、母は死んだんですか」
「見たところ、心臓の持病の薬がテーブルにあったので、それでしょうね。あとは、寒いですから。市内だけでも、今日、30人の方が亡くなってますからね」
救命士がエアコンをチラっと見たのを、見逃さなかった。彼は、この2つの部屋が普段、完全に遮断されているのを理解しただろうか。息子は、遠まわしに非難されたような気持ちになり、顔をうずめ、泣いた。
葬儀は母の貯金を崩し、簡素なもので済まされた。親戚、母のパート先の同僚らが嗚咽を漏らす中、息子は、鉄板の上で骨の欠片となった母を見つめていた。先祖の眠る、都内の小さな墓に母は納められ、坊主にいくらかの金を渡した。
深夜0時。息子は、母のいないアパートで眠りに就いた。この数日間、脳がざわつき、まともに睡眠できていなかった。食事も、親戚が用意してくれた弁当やら惣菜パンを口に運んだが、味もなく、半分ほどで残してしまった。空腹と疲労で、泥のように寝た。夢は見なかった。途中、自分のいびきで起きた事が何度もあったが、すぐにまた意識を失った。
朝方だった。襖を開ける音がした。まどろみの中、誰だろう、と息子は思った。考えられるとすれば、母の葬儀前夜に、あれやこれや手伝いに来てもらい、合鍵を渡した伯母だった。息子は、寝ている時、襖を開けられるのがひどく嫌だった。生前の母が、息子が寝ているかどうかの確認をするため、そうする事がしばし、あった。数秒間、人物は襖の隙間から息子を見下ろしていた。
「なんだよ」
息子はいつもの習慣で、母に向かって言うような口調で襖に向かって怒鳴りつけた。やがて、パタンと、控えめに襖が閉まる音がした。息子は失言に気づいた。伯母に向かって怒鳴りつけてしまった事に慌てて、
「ごめんなさい」
と言った。
しかし、伯母(と思しき人物)は何も言わず、向こうの部屋で、すっと気配を消してしまったのだった。
「母ちゃんか?」
息子は、藁にもすがるように、向こうの部屋の人物に話しかけた。しばらく間を置いて、息子の声に応える様に、襖が、風に揺られて、トン、トンと音を立てた。
「母ちゃん。怒鳴って、ごめんな。おれは、親不孝息子だったな」
やはり、間をおいて、トン、トンと襖が揺れた。
「いつもコンビニの弁当ばっかで、母ちゃんのメシ食べてやれなかった。後悔してるよ」
頬をあたたかいものが濡らす。鼻水が詰まり、嗚咽でまともに言葉を発する事ができない。それでも、風と会話を続けた。
「謝る事もいっぱいだし、後悔する事もいっぱいだよ。でもさ、俺を産んでくれてありがとう。ありがとうな、こんな事、言ってあげられなかったけど」
心なしか、襖に当たる風が弱くなり、以後は襖が揺れる事はなかった。息子は、すぐに襖を開けるような事はしなかったが、窓やドアに隙間風が入る余地がない事を知っていた。
起床すると、母が生前、使っていた錆び付いたフライパンを軽く洗い、そのまま火にかけた。油を注ぐ。水と油がフライパンの上でパチパチと音を立てて、息子の手の甲に飛び散った。
「熱い」
息子は泣きながら冷蔵庫を開けた。使い残しのニンジン、もやし、そしてパックに入ったまま手のつけられていない豚肉を出した。
「母ちゃん、何つくろうとしてたんだろうな」
ニンジンを等間隔に包丁で切ろうとするが、上手くいかなかった。それでも手を止める事はなかった。フライパンがけたたましい音を立てる。火を止めて、しばしの間、泣いた。
永遠にもう会えない。死は消滅。それ以上でもそれ以下でもない。その無常さに気づいているからこそ、人は涙するのだ。




