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1話「黒猫のちょこた」

生と死について。飼い猫の場合。

 黒猫のちょこたは、押入れの中、積み上げられた毛布の上に寝そべったまま、鉛のような身体を疎ましく思っていた。首の後ろにできたしこりを気にしながら、毛づくろいをしていると、ここの家主の孫、小さな暴君たち(とは言っても自分とほとんど同じような年数を生きてはいる)がやってきて、下手な鳴き真似をしてみたり、とうてい食べる気にはなれない、油くさい薄っぺらな人間たちの食べ物を鼻の上に突き出したりして、ちょっかいをかけてきた。


 無視をきめこまれ、いよいよ釣れないと見れば、彼らはちょこたの身体あちこちを撫で回し、しこりを恐る恐るつついてみたりして、強行的なコミュニケーションに打って出はじめる始末。


 ひどく参った。まだ若く、病んでいない自分であれば、これを先方の好意と受け止めて、愛想よく喉を鳴らしてやってもよいものだろうが、体力を温存しておきたいちょこたは、低く不機嫌そうな唸り声を上げるにとどめた。不穏な気配を察知した糞餓鬼どもが、もうそれほど体力も残っていない老いぼれ猫の底力を恐れて、この場から離れてくれればいいのだが、そこはやはり暴君だった。相手にされず、挙句は威嚇された事に気を悪くした彼らは、しっぽを思い切りつかみ、振り回そうと試みた。


 緊急避難。自分のどこにそんな体力が残されていたのか分からないが、瞬間、彼らの手を引っかき、ひるんだ隙に、押入れを出て、開きっぱなしの襖の隙間へと滑り込み、彼らが怖がって決して近づこうとしない畳の寝室、『じじぃの部屋』に逃げ込んだ。襖1枚隔てた向こうで餓鬼どもが騒いでいるが、案の定、恐れをなしてこの部屋まで追いかけてこない。様子を伺うように、襖の隙間から複数の四つの小さな瞳が輝いていたが、しばらくすると消えた。


 無我夢中でよじ登った箪笥の上は固く冷たかった。こんな場所で寝そべりたくない。畳へと飛び降りようと息を整えた。しかし、不覚にも情けない鳴き声を漏らすだけに終わった。具合はどんどん悪化していている。次に移動した先で身体を休めなければいけない。餓鬼どもに見つからない、完璧に身を隠せる場所を見繕わなければならないが、すでに心当たりはあった。近所の雑木林だ。


 薄暗い部屋、見下ろしたちょこたの目線の先に、寝たきりの『じじぃ』がいた。布団の中、その寝顔は、カーテンから漏れた光に照らされている。闇の中にあっても、命の灯火は往生際悪く存在を主張していた。彼こそ、餓鬼どもの祖父、ここの家主たる人物で、田舎町の側溝で泥にまみれた仔猫のちょこたを拾い上げたのは彼だったし、家主の頭の悪い餓鬼たちがまとわりついても、払いのけてくれたのも彼だった。


 それから十年余り。年老いて、痩せこけた顔は、静かに寝息を立てながら最後の瞬間を待っているようだった。


 ちょこたは、これまでに、同朋、他者、生物の種類を問わずたくさんの死を見てきたし、死を与える当事者になる事もあった。自分の牙に捕らえられ、暴れまわり、逃げ出そうと躍起になるが、時間の経過と共にあきらめたようにぐったりとなる、小さな命。


 死はいつも隣にあり、また遠い場所にあった。身体を何かに奪われ行く感覚。自由が利かない、食欲が湧かない。外の世界に興味を持てない。ただ、気だるさ、苦痛から逃れたいという原初の欲求に取り付かれた状態。


 かつて自分が捕らえたひな鳥のように、この身の生殺与奪は、他者に握られてるも同然だった。間違いなく、このしこりのなかには、そう言った別の意思をもった生き物がいて、自分を死に至らしめる作業を行っているに違いない。 目下の『じじぃ』と同じく、自分も生から遠ざかりつつあった。


 やはり今、ちょこたが最優先すべく事は、回復の望みを持って、邪魔されず身体をゆっくり休める場所へ移動する事だった。


 息を再び整え下を覗くと、思いのほか、今度は高さが気になった。それは仔猫だった頃、恐る恐る、初めて高い場所から飛び降りたあの瞬間以来である。


 飛び降りたところで身体は勝手に反応し問題なく着地するに違いなかったが、意識の問題である。


 あいかわらず箪笥の上は固かった。


「こんな、冷たくて固い箪笥の上にいたくない」

 腹を決めると、とてつもない高さに思えた畳の上に、音もなく着地する事ができた。


 さきほどの襖の隙間からしなやかに身体を滑らせ、そっと首を持ち上げ、他の部屋にも餓鬼どもがいないのを確認すると、微動だにせぬ『じじぃ』を尻目に、悠々と仏間、居間、台所へと歩みを進めた。


 視線の先、台所の一角。換気のために開けられた窓、そこにはめ込まれた網戸の破れ目が、ちょこたと外界を繋ぐ扉だった。ここから出れば、歩いてすぐ庭の外、目当ての休息の地、かの雑木林へ向かう事ができる。


 瞬間、ふいにちょこたの横っ面に、何かが横切った。猫たる習性のひとつ、疑念だった。果たしてこのまま外へ出ていいものか…。身を隠した先で餌を調達する体力は自分には残っていない。


 判断を見誤るな、本能はそう告げていた。


 ちょこたの友人たちは、その亡骸を見せずにこの世を去った。彼らの多くが宿を持っていなかった。例えば、ある者が数日、縄張りにも顔を出さず、餌場でも見かけない状況が続くと、いよいよ彼を最後に見た時の事が思い出される。ひどく身体を辛そうにしていたり、それを悟られまいと気が立ったように、周囲と距離を置いていたり、明らかにそれは彼らにとって身体的異常の兆候を意味するものであり、それらが記憶中枢から掘り返されると『ついに彼は死んだのだろう』という結論が導き出され、認識として仲間内に広まるのだ。


 しかし、今思えば彼らの多くは、自分の考えと同じように、病身をひっそり隠そうとした者たちに違いなかった。野良であるが故に、外敵から身を隠さざるを得なかった彼らと自分は違う、迷惑な糞餓鬼はともかくとして、食い物を用意してくれる環境がある。餓鬼どもの手の届かない身を休める場所だって、頭をひねればいくらでもある。たとえば『じじぃ』の部屋の箪笥の上だって、居心地は悪いが、自分がその気になれば、心行くまで身を休める事が約束された空間であった。


「とりあえず、ここにとどまってみよう」

 一応の結論が出ると、うら寂しいこの身体に急に空腹感が芽生えた。ここ数日の食欲不振が嘘のようだった。外出前に家主の息子(餓鬼どもの父親でもある)が、一向に減らない皿の中身をこまめに取り替えていたらしく、瑞々しい魚肉たっぷりの缶詰の中身がそこにあった。鼻を近づける。芳醇な香りが鼻腔を刺激する。体中のありとあらゆる部位が、それを早くほしいと要求する。


 ちょこたは欲望のままにむさぼりついた。味覚はとうの昔に失っていたし、嗅覚も以前より衰えていた。しかし、本能はそれを命と対価の栄養源だと訴えかけている。租借と嚥下を同時に行うかのごとく、一心腐乱に食べ続けた。


 どれくらい時間が経過しただろうか。混濁した意識の中で、身体が重力を忘れたかのように、軽くなるのを感じた。拡散されていた思考が形となり、瞼が開く。後悔の念ほど色濃く脳内に残留するもので、もったいない話ではあるが、さきほどの栄養は、すべて吐瀉した事を思い出した。


 目を開けると、憎らしい餓鬼どもの顔が映りこんだ。しかし、彼らはさきほどの憎しみをぶつけるどころか、泣き崩れていた。餓鬼どもは大人たちによって引っ込められ、家主の息子とその女房の顔が映りこんだ。やはり悲しそうな顔だった。


 ちょこたは、再び意識が呑み込まれていくのを感じていた。自分を案じて、悲観に暮れる彼らを見て滑稽に思った。死に行く身を実感し、やはり、どうせ死ぬなら、こんな台所よりも、静かで涼しい雑木林の中がよかったと思った。しかし、もう後の祭りだった。


 この足は二度と地面を踏む事はない。闇が思考を覆い尽くす。必要ないのに、欲しくもないのに、そっとしておいてほしいのに、周囲の者たちはちょこたの身体をさすり、撫で回し、嗚咽を漏らすだけだった。

野良猫は人知れず死にますが、飼い猫は人に看取られて死にます。そういった猫の習性を擬人化させました。

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