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(3)雨のち雨、即ち雨


 赤、橙、黄、緑、青、紫の色取り取りの長靴を履いた人々が、ゲリラ豪雨の後に急いで架かった虹のように目の前にある路を行き交っていた。

 僕はその光景を路の端から眺めている。となると今の僕は路傍の側溝から顔を覗かせていることになるのだろうか? その自分の姿を想像し、まるで底なしの池から地上を監視する河童のようで思わず内心で笑い声を立てる。

 無音の笑い声を押し潰すようにして幾つもの長靴が目前を(せわ)しなく通過し、路面に弾かれた雨粒をさらに爪先で弾き飛ばして宙へと蹴り上げる。その度にネズミは過剰に身を折り曲げて、「ぬぐ」「ぐわっ」と、まるで自分の身を直接蹴られているかのような呻吟の声を洩らしていた。

 雨の独り活劇を余所目にして、僕は、往来する長靴が残す虹色の像を漫然と眺め、どうして彼らはそんなに急いでいるのだろうかと考えていた。

 下から覗き込んだ彼らの表情は、石膏のように陰鬱とした無表情。彼らの行く先には人生の転機となる大事な出来事があるのだろうか。待っているその出来事は駆け足で赴かなければならないほど急を要するものなのだろうか。

 そうやって他人の行く末を悶々と考えていると、

「クソ、こいつら何食わぬ顔で蹴りやがってぇ……」

 憎しみの籠もった言葉がネズミの口から放たれた途端のことだった。

 路にある水溜まりをボロボロの靴で踏み越えていった浮浪者風の男性が、まるで凝り固まった空気の塊に足を取られたかのように、突然、その場に転倒した。辺りには雨の飛沫が盛大に散り、転んだ男性は苦痛よりも先に事態が呑み込めないことで目を白黒させ、呆然とした表情を浮かべていた。

 そして、何もない場所で唐突に人が扱けるだけでも驚くべき事態だと言うのに、さらに驚愕を招く展開がその男性に襲いかかった。

 男性の片脚が長大な大蛇の体躯に締め付けらたかのように捩じり上がり、そのまま草陰へと引きずり込まれて行くようにして道脇の側溝へと連れ去られていったのであった。

 大の大人が幅三〇センチほどの溝に頭から捻じ込まれていく光景に僕は両目を見開いて動転したが、路を往来する人々は、手に持った傘で顔を隠しあくまでも無反応に徹していた。

 無関心の彼らに腹を立てるより一刻も早く男性を救助すべきだと思った僕は、慌てて水の中へと潜り込んで男性が消えていった方へ急行する。男性は既に五メートルほど下にまで沈んでおり、もがき暴れている動作は窒息に苦しむ姿そのものだった。

 男性の口からはエクトプラズムのような多量の泡の塊が一挙に吐き出されている。ようやく僕が彼の元へと到着したときには、肺腑にあるすべての空気を排出し終えた彼は、ぐったりと虚脱し身動きを止めていた。

 恐る恐る近寄って顔を覗く。つい先ほどまで生きていたとは思えないくらい肌は蝋のように白く、苦悶を浮かべた顔には、死に際の壮絶さを目に見える形で映し出していた。

 目の前で人が死んでしまったことへの衝撃もあったが、それよりも僕は、ただの通行人をあっさりと殺した『雨』に対して激しい怒りを覚えていた。

 沸騰水のような怒気を瞳の周囲に押し固め、僕はネズミの姿を探した。大々的に捜索するまでもなく、前屈の姿勢で浮遊している男性のすぐ脇に発見することができた。

「ふぃー、一仕事して疲れたぜぇー」

 額の汗を拭うような身振りをしているネズミを瞳が捉えたのとほぼ時を同じくして、僕の片手は海蛇のように水中を進み、安閑としているネズミの胴体を素早く捕らえた。

 ぎゃっ、とネズミの口から悲鳴に近い声が洩れる。それでも僕は、濡れたモップのような感触のする身体を、握り潰すぎりぎりの力加減で締め付け、怒りを宿した瞳をネズミに近付けた。

「オイオイ、オイっ! 冗談キツイぜ!」

 上擦った声に媚びを混ぜながらネズミは僕の顔に向けて続ける。

「どうしちまったんだ、え? 気でも狂って俺への恩を忘れたのか?」

 恩? この雨が一体僕に何をしてくれたというのだろう? 変なところに勝手に連れてこられて、訳の分からないことを聞かされて。こいつが僕にどんな益をもたらしたというのだ。

「なぁーにを、怒ってるんだよ。まるで楽しみに残しておいたハンバーグの最後の一切れを食べようしたその横から奪取されたときのような顔をしてるぜ、今のお前はッ!」

 どんな顔だ。訳が分からない。このまま握り潰してしまおうか。という思いが頭を掠めて僕が手の輪を縮め始めたので、ネズミは焦慮をおくびも隠すことなく叫ぶようにして言った。

「あああああ! ああ、分かった! 分かったぞ! 俺は分かった! お前は怒っている。途轍もなく怒っている。どのくらい怒っているかというと、瞳孔がドーナッツの輪くらいまで拡がるくらい怒っている。よっし、よしよし。まず落ち着け、落ち着け落ち着け落ち着け、俺! こいつは何で、目玉の穴をドーナッツにするまで怒ってる。考えろ考えろぉ、時間はそんなにないぞ。内臓がぎりぎりと締め付けられているんだからな。あれか! 服がびちょ濡れになっちまったから怒ってるのか? そうか? そうだろう? なら安心しろ! 服は乾く! 最近は便利になってな、洗濯機と乾燥機が一体になってるんだぞ。洗濯してからすぐ乾燥だ! え、え、え、え? ちょっと待って、何で力を緩めてくれないの? 違うの? 違うことで怒ってるの? そう、そうか。そらならな、えーっと、えっとえと、あれだ! 俺の口調だろ? 俺の口調がちょっとばかし雑だから、お前は怒ってるんだろう。そうだよなぁ、俺だってこんな粗雑な口調になって悩んでるんだよ。な、分かってくれよ。これからは気を付けるからさぁ。なぁ、なぁ、なぁ。はい! 痛いです! もう限界です。ほら、ほらほらほら! ちょっと見て見ろよ、これ。俺の目ん玉ちょっと飛び出て来てるだろ? もう限界だって、これ以上は! あと、一ミリ。あと一ミリお前の手が縮まれば、俺の眼球が飛び出して、口からは血と臓物を吐き出して死んじまうんだぞ? 俺がいうのも何だが気持ち悪いぞぉ。手に血やら何やらが付着するのもあるが、握り潰したときの感触が忘れられなくなるぞぉ。その快感が忘れられなくて、明日からお前はネズミの握り潰しが趣味になるぞ。嫌だろ? それは。履歴書の趣味・特技の欄に『ネズミを手で握り潰すこと』なんて書くことになるんだぞ? 面接官ビックリするぜー。面接の度に『あなたは、手でネズミを握り潰すんですか?』ってわざわざ訊かれるぜ? その都度お前は、『はい、私の趣味はネズミをこの手で握り潰すことです。何なら今からお見せしましょうか』とかいって鞄から生きたネズミを取り出して、面食らってる面接官の前でグシャッとやるんだぜ? その後の面接どうするんだよ。手がべっとべとのまま受けるのか? それじゃあ、印象が悪いぜ。な、大変だろ? 止めとけって。な? 分かったか? え? これも違う。そうかぁー、違うかー。これはもうお手上げだなッ! 掴まれてるから手を上げられないけど! ははッ! あ、あああああ。ダメ。だめだめだめだめ。もうダメ。ちょっと出た。下からちょっとだけ出た。これ、ダメな奴だ。あ、ああ。いい歳して脱糞かよぉ。最悪だよ、チクショウ。ああ、もう知らね、知らねぇよ、俺。こうなりゃ覚悟も決まったよ。お前の手の中で糞を撒き散らかせてやるよ。俺の臭いをお前の手の中に滲み込ませてやるよ。へへ、どうだ恐れ入ったか。お前はこれから手で鼻を掻くときに俺の糞の臭いも一緒に嗅ぐことになるんだ。へ、へへへ。もう知らねぇぞ。可哀相だなー。くっせーぞ。っは、ざまぁ見やがれ! おお、出る出る。この感じなら、三〇分くらい止まらねぇな、こりゃ。可哀相だなー。この手を離さないとお前の手は一生糞の臭いを発するんだろうなー。可哀相になぁー」

 手の内で増幅する何かの感触に、僕は思わずネズミを捕らえていた手を開いてしまった。

「しめたっ!」

 隙を衝いたネズミは俊敏に逃げ出していく。その背後に尾とは違った黒い線が脈々と続いていることは見なかったことにしようと思ったが、目線は自然とネズミを捕縛していた手の平へと向けられた。

 瞬時に僕は、人差し指の端に付着していた黒い物体を振り払い、手の具合を確かめるように開閉して、汚された手の処理を考え始めた。

 果たして臭いは取れるだろうか、それよりもあの膨らんでいくような感触を忘れることができるだろうか。さっきまで頭中を占めていた怒りも、糞と一緒にどこかへと消し飛ばされていた。大丈夫ここは水中だから、常に手を洗っているようなものだ。あ、いや、ダメだ。あいつの糞も水中にあるんだから、僕は常にあいつの糞に身を浸しているようなものだ。

 僕はそのようにして、糞に(まつ)わる妄想の渦に巻き込まれていたので、視界の隅を何度も過ぎっていた何かの影に気付くまで、しばらく時間を要した。

 小バエのように気を散らすその影を目の端に捉え、またネズミが挑発するために奇妙なダンスでもしているのだろうかと思い、睨みつけるようにしてそちらへ顔を向けた。

 最初のうち、大好物のサバを与えられてはしゃぎ回っているイルカが、そこで泳いでいると思った。くるくると身を反転させたイルカが、縦横無尽に水中を泳ぎ回っているのかと思った。

 しかし、そこで泳ぎ狂っているのはイルカではなくて、先ほど息絶えたはずの男性だった。

 思いもしなかった場景に僕は、ごばぁごばぁ、と息をほとんど洩らして取り乱す。

 え、あの人ってさっき溺死した人だよね? そうだよね? 違うのかな? 違わないよね? 見た目も服装同じだし……。

 目の錯覚であることを信じ、僕はもう一度、活き活きとした泳ぎを披露するそれを目視した。

 優雅な錐もみ一回転をするそれは、どう見ても死んだはずの男性だった。

 続いて前方宙返りを華麗に決めた男性は、唯一の観覧者である僕の存在に気付いて一旦演技を止め、笑顔を振りまきながら急速に接近してきた。

「いやぁ、ビックリしたよ!」

 それはこちらの科白であると思っている僕に、男性は快活な滑舌で話し出した。

「溺れたときはさ、ああ俺はここで死ぬんだなぁって漫然と思ったのよ。五〇手前で会社を首になってさ、嫁にも娘にも逃げられてさ、家も追い出されてさ、ああなぁんにもなくなっちゃったなぁってさ、俺って生きている意味あるのかなぁってさ、思いながらダラダラと生きてたのよ。だからさ、突然水に突き落されたときはさすがに焦ったけどさ、やっと終われるんだなぁって実は少し安心してたのよ。でもさ、身体は生きようとしてる訳。どう思う? 俺はビックリしたよ。脳みそでは死ぬことばかり考えて生きてきたのに、いざ死ぬ場面になると身体は必死に生きようともがいてる訳。どっちが俺の本心なんだろうなぁって思っているうちにさ、意識がぷっつんと途切れたんだけどぉ! ハッと目を覚ましたら俺はまだ生きてるの! それも身体がすごく軽くてさ、もう本当にイルカに転生したのかと錯覚したくらいに! それがもう感動的でさ、もう会社とか嫁とか娘とか家とか世間体とかさ、どぉでもよくなちゃった訳よッ! 煩わしいことなんてここにはなぁんにもないしさ、好き勝手に水中を泳ぎ回ってさ、幾ら泳いでも息をする必要はないし、縛り付けるものもない。ここは最高に自由な場所なんだって、俺が求めていたのはこんな場所なんだって思って感動しちゃって嬉しくなってさ。それで気付いちゃったんだ。今まで俺を縛り付けていたものは、酸素だったんだって。毎日息をしてたから、俺は息の詰まるような思いにさせられたんだって。だからさ――」

 言葉を捲くし立てる男性の唇が鼻先に触れる寸前まで接近してきたので、僕は頭を引いて彼から距離を取る。そんなことはお構いなしと、男性はこの言葉を放つためだけに休まず舌を動かし続けていたと言わんばかりの明瞭な声で言った。

「今まで溜めていた息を全部吐き出してよかったなってさ、俺は思った訳よ!」

 にっこり、と微笑んでそう言った。

 僕は、誘導するようなその帰着に気味の悪さを感じていた。まるで罠にかかる獲物を見守る猟師の笑顔のような、同意が得られるまで決して挫けることのない熱心な勧誘のような不気味さを感じていた。

 男性は営業マン的な笑顔を固めたまま、僕の承服を促そうと迫ってくる。僕は逃げ場を求めて顔を右往左往させる。右を見ても左を見ても、男性が巧みな泳ぎで先回りをして逃げ道を塞ぐ。下方を見てもそれは同じで、僕は最後の望みを託して上を見上げると――。

 水面に幾つもの花が咲き、白く泡立った雌蕊(めしべ)から人が生み出され、水没し、息苦しさに悶えていた。

 男子学生、女子高生、OL、サラリーマン、小学生、幼稚園児、主婦。

 個体を見分けるための七色の雨具を放り出し、全身を掻き毟るように足掻き苦しんでいた彼らはやがて動きを止め、しばらくすると唐突に息を吹き返す。いや、息を吹かずに生き返る。

 そして、彼らの表情は決まって万遍の笑顔で至福を湛え、困惑している僕の姿を見付けると、標的を発見した魚雷のように一目散に泳いできて、一斉に喋繰り始めた。

「昨日、二年間付き合ってた彼女と別れたんだよ。二年だぜ、二年。俺は本当に傷付いてよ。夜中ずっと泣い「アイツほんとムカつくんだよね。一緒にいるだけで虫酸が走るっていうの? そりゃあーさぁ「毎日毎日毎日、お茶くみとコピーと電話対応で気が滅入るのよ。空いた時間はオッサンたちの下らないセクハラ話に付き合わなきゃいけなくて。ったく、その趣味の悪いネクタイで絞め殺してやろうかって「泰子が最近、具合が悪くてな。あ、具合ってあれだよ。夜の具合ね。昔はそんなことなかったんだよ。俺がベッドに入ると「僕は牛乳が大きらいなのにどうして毎日給食に出てくるんだろうね。あんな不味いものどうして飲まなくちゃいけないんだろうね。「おかあさんがおとうさんのいないときにしらないおにいさんをどうしてイエによぶんだろう。ぼくはきになったからきいただけなのに、おかあさんにぶたれて「息子をついカッとなってぶってしまったんです。でもッ! 全部、私が悪いわけじゃ決してないと思うの。だってあの子が「あんなに仲良かったのにどうして別れなきゃいけないんだよ。悔しいよ。プレゼントだっていっぱい上げたのに。五万だよ。五万のペアリング買ったんだよ。それで別れるってなんだよ。クソ。足元見やがって……。あの腐れマ「昼休みとかにさぁ、アイツが私のところに来るたびに、他のヤツのところいけって言ってるんだけどぉ、何かくっ付いてくるんだよ。本当にウザい。体育でペアを作るときなんて真っ先に私のところに来て「ネクタイを締め上げてそのまま屋上の手摺りから吊して人間テルテル坊主にしてやろうかっ! って思いながらセクハラに付き合っては来たのはいいんだけど、もう限界かなぁって思うの。だって「いやぁもう本当にさァ、相性はバツグンだって思ってたのに。寧ろそれで結婚したようなものなのにねぇ。どうしたもんかねぇ。え、離婚。離婚かぁ。面倒くさいよなぁ、いろいろ。体面っていうの? 会社での印象だって「そもそも牛乳ってなにあれ。ただの白い液体じゃん。元をたどれば牛から出た排水じゃん。そんなのが栄養あるわけないよ。それだったらオレンジジュースとかの方が見るからに体に良さそうじゃない?「おかあさんはしらないおにいさんといつもおとうさんとねるフトンで「ああもう本当に子どもなんて産まなきゃよかった。ね、訊いてよ。私だって産みたくなかったの。まだ二十代だし、やりたいことだって沢山あるじゃない? それなのにあの人は仕事仕事仕事ってそれしか言葉を知らねェのかよ「マジで、マジでぇ! ムカつくわ。どんだけ俺がバイトしたと思ってんだよ、アイツ。殺すぞ、マジで。有りえねェよ。ふざけんな。ゼッテー殺すコロス殺す「それでぇ、ついにこの前、迷惑なんだよってキレ気味でアイツに言ったんだ。そしたらアイツなんて言ったと思う? アイちゃんは私がいなきゃダメじゃないって。は? は? は? お前、誰に口利いてんだよ。お前、誰に物を言ってるんだよ。どの口が「辞めたい辞めたい辞めたい。つまらないつまらないつまらない。死にたい死にたい死にたい、とは思うんだけど「離婚だけはなぁ。だって、職場結婚だよ? 噂なんてすぐに広まって上司や同僚に陰でいろいろ噂されるんだぜ? そんなの俺のプライドが傷付くよ「絶対に毎日給食でオレンジジュースの方がいいって。あんな白いの誰も喜んでないって「おにいさんはぼくのことをきたないものをみるようにみてくるし、このまえは、たばこのヒをおしつけようとおどかしてきて「ふと、このまま夫も息子もおいて彼と逃げちゃおうかって思ってね、そのことを彼に冗談めかして話してみたら、彼、血相を変えて。それを見て、ああ私遊ばれ「殺してやる殺してやる、って思いながら登校してたんだ。そうしたら行き成り側溝に足を取られて「クラスの皆と協力してアイツを虐めてやろうって決めたらさ、笑いが止まらなくて止まらなくてね。それで気が散ってたのかな。突然、転んだかと思ったら「会社に着いたら社員全員分のネクタイを奪ってそれで首を吊ってやったら、どうなるんだろう。ビックリするよね。えへへ。そうやって想像したら気分は少し楽になったの。それで安心しちゃったのかな、足が路の脇にある溝に落ちちゃって「仕事をする上でプライドは大事だよ。それがないとまず自分に自信がつかないし、商談先の相手だって説得できない。今夜だって大事な取引先との会食があるしーって、今日の予定のことを思い出してたらドブに足を取られて「そうだ。牛乳を出す牛が全滅すれば、給食から牛乳が消える。どうやって世界中から牛を消そうか、って牛センメツ作戦を夢中で考えてたんだ。でも、気付いたら僕は水の中に沈んでて「おかあさんとまいにちようちえんにいくときだけがぼくのたのしみで。だからきょうもテをつないでようちえんにむかってたらあかあさんがきゅうに「もう男なんてウンザリよ。もう誰も信用しない。夫も彼も……みんな。そう思ってたらね、この子だって何時か男になるんだなぁって、ボンヤリ考えてたら足から力が抜けて「そりゃ、驚いたよ。出し抜けに水の中に落ちたんだぜ? 混乱して息も全部吐き出しちゃってよ。……でも、肺から全部吐き終えたら、なんでかスッキリしたんだよ。あれだけ息を荒くして殺すことしか考えてなかったのに。あ、そっか。俺は無駄に呼吸をして生きてたんだなって、そのときになってようやく気付いたんだ――」水中にいたのよ、私。苦しいし何よりも、混乱しちゃって。がむしゃらに暴れちゃってね。暴れれば暴れるほど肺から空気がなくなるって分かってるのに、それでも動きを止められなくて。……でもね、息を吐けば吐くほど、アイツのこととかもうどうてもよくなって来ちゃってさ。アイツのことなんて息を止めるように無視すればいいんだって気付いたの――」水の中は気持ち良かった。苦しかったけど、もうその苦しみですら心地よくなってきてね。私はどれだけ呼吸することに翻弄されてたんだって気付かされたの。……ああ、これからは息なんてしなくていいんだ――」俺は離婚しようって決心したね、溺れながら。最初から呼吸が合うから結婚したんだし、それが合わなくなったんなら一緒にいる意味なんてないんだ。そう、息を吐き出しながら決断すると気が楽になったんだ――」牛乳? そんなの、水をたらふく飲んじゃったらどうでもよくなっちゃったよ。そうだよ、最初からこうしてればよかったんだ。たっぷりと息もできないくらいに水を飲んじゃえば、牛乳なんて飲まなくてもいいんだ――」おかあさんのおなかのなかにもどったようなきぶんだった。ぷかぷかして。ねむくて。そうだ。あのときだってぼくはいきなんてしなくてもいきてたんだ――」この子を産んだときから私の呼吸はきっと乱れてしまっていたのよ。乱れた呼吸を必死に正そうとして、でも男に合う度に乱されて……。もうそんなのイヤ……。そうよ、こんなにも息が切れそうなら、いっその事、切っちゃえばいいんだって、ね――」

 エサに群がる鯉のように詰め寄って来た彼らは、僕が蓄えている空気がもう残り僅かになっていることを見抜いているかのように口を揃えて言った。


『だから、お前も生きるために息を止めろよ』


 蒼白な笑顔をトランプのように並べて焚き付けてくる彼らに、僕は包囲されていた。逃げようにももう逃げることも叶わなくて、必然的に彼らの言葉を吟味しなければならなくなって、生きること、死ぬこと、息をすること、しないこと、の四つのファクターを繋ぎ合わせては組み合わせを変えて、どれが正しいのか誤りなのかも段々分からなくなってきて、口腔と肺腑を結ぶ気道で残された空気の塊を何十回も往復させていた。

 そうしていたら、また別の声が聞こえてきた。

「で、どうする?」

 これは雨の声だと気付く。

「お前にとって生きることは、息をすることなのか、しないことなのか。それを今、決めるしかねぇんだよ」

 そうだ。

 僕は。

 生きるために、息を――。




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