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(2)雨のち雨、即ち雨



「そもそもの話、生物が生きるために呼吸をしてるってのが勘違い」

 突如として水中へと放り込まれた僕は、激しい動揺に襲われる暇もなく物影から現れた毬のように丸々と太ったドブネズミの雑談に付き合わされることになった。

「え、どれくらいだって? ――そうだなぁ、何かお祝い事の度に夜の食卓に並んでいたエビフライは、おかんが昼間のうちに近所の川から取って来たザリガニで、どうしてザリガニを揚げたものをエビフライって呼ぶんだろうって疑問を抱えたまま成人して就職して最初の飲み会の卓上に並んだエビフライを見て『どうしてザリガニを油で揚げたらエビフライって呼ぶんでしょうね。食材がザリガニならザリフライとかガニフライとかもっと気の利いたネーミングになりそうですけどね』って屈託なく言って場を騒然とさせるくらいの勘違いだな」

 つい勢いで納得してしまいそうな文言に意を差し挟もうと思って口を開いたけど、周囲を満たしている水の所為でごぼごぼと気泡を吐き出すだけに終わってしまった。

 そんな僕の姿を見て、長広舌を披露したドブネズミは剥き出した前歯を居丈高に上下させてケタケタと笑い、()()(ちゃ)の体毛を水流に乗せてくすぶらせながらくるくると泳ぎ回る。その人を小馬鹿にしたような遊泳に苛立ち、僕は右手に持ったビニール傘をドブネズミに向けて振るった。しかし、水の抵抗によって速度が削ぎ落とされてしまい、ドブネズミは緩慢に向かってくる傘の悠々と踊りかわしてから、扇情的なしたり顔を浮かべて僕の逆上を誘った。

「ごぼごぼご!」

 この野郎、と憤激をこめて叫んでみたもののやはり声にはならず、口腔から真珠のような泡ぶくが虚しくあふれて上昇していった。それによって肺に溜めていた空気を幾らか消費してしまったらしく、先ほどよりも僅かに息苦しさを覚える。

 ネズミに向けられなかった怒りを静めるため、僕は口からあふれたアブクの行方を目で追う。透明の膜に包まれた気泡は、シャボン玉のように揺らめきながら遥か上空まで飛んで――と、今更のように僕はハッとして、自分が置かれている状態を把握しようと視線を泳がせた。

 そこは、僕がいたマンションのエントランスではなかった。

 マンションの外壁だと思って背を預けていたのは、断崖のように(そび)える灰色の壁面。その上端を探して視線を上げていくと、やがて水面へと行き着く。壁は僕の背後だけでなく目の前にももう一枚あり、それも水面へと向かっている。左右に目を移すと、そちらには行く手を遮るものはなかった。

 どうやら僕は、灰色の壁に挟まれた直路のような場所にいるらしい。

 それを意識して初めて不安を覚えた。

 どうして僕はこんなところにいるのだろう。そもそもどうやってここへ来たのだろう。喋る雨はどこにいった。このネズミはいつまで人を馬鹿にしたような泳ぎを続けるんだ。

 そして、星の数ほど浮かんだ疑問のなかで最も精彩を放っていたものは、この息はいつまで持つのだろう、という自分の生命活動に直結するものだった。

 今のところは、新たに空気を吸わなくても支障はないようだった。意識もはっきりしているし、脈も心臓も脳も平素通り稼働している。身体の動きも水中にいるということを除けば悪いわけではないが、一つだけ懸念が残っていた。

 先ほどネズミに怒声を上げようとして息を洩らしたとき、僅かに息苦しさを感じた。ということは、肺にある空気にも限りがあり、もしも残量がすべてなくなってしまったら、そのとき僕は……。

 不吉な想像を回らせてしまい、どんなことがあっても息だけは吐かないよう固く肝に銘じる。

 僕が現状の認識を終えるまで待っていたのか、壁面に付着したふさふさの藻でくつろいでいたドブネズミは強欲な社長のような態度で、「どうだ、理解できたか?」と言い、満足のいく袖の下を受け取ったかのようにニンヤリ笑った。

 その上から目線な態度が僕の苛立ちをますます募らせたが、意識を荒げて息を無駄遣いしてしまう危険を回避するため、舌先にまでのり出した激怒を「まぁまぁ」と平静が宥めすかしたのを待ってから首を左右に振った。

「んまぁー、そりゃ無理もないわな」

 そう言ってネズミはゲタゲタと下品に笑ったが、僕が向けている怪訝な視線を受け、はたと止めた。

「おいおい、そんな不審者を見るような目付きをしてどうした? ついさっきまで仲良く会話してたじゃねぇかよ」

 当然のことながら僕は今までネズミと話しをした経験などあるわけがない。けどこのネズミは、さっきまで仲良く話したといっている。

 ――さっきまで?

「ゴボッ!」

 閃きとともにまた空気を使用してしまった。

「やっと気付いたか」

 ネズミは、スイッと水を縦に掻き、己の超越ぶりを誇示するかのように僕の目線より上に位置を占めた。

「今はこの身体を借りてるんだよ」

 ――じゃあ、今僕が話しているのは、あの『雨』なのか?

 訊き返したいのは山々であったが、如何せん酸素の消費は生命に関わるし、たとえ身を(てい)して喋ったとしても水の所為で言葉にはならない。できることなら目顔で言いたいことを悟ってくれるとありがたいと、僕は顔面の各部位を器用にして動かして伝えてみる。

「ああん? カバみたいな顔してどうした、急に?」

 残念ながら伝わらなかったようだ。まぁいい、と僕は気持ちを切り換える。訊ねるまでもなくこのネズミは先ほど僕が会話をしていた『雨』であることに間違いはないだろう。

 解決はしたものの新たな疑問が浮かんだ。

 ――どうしてこいつだけは水中で喋ることができるのだろう?

 訊くことができないのでこれまでの情報を総合して推論を立てるしかない。

 そもそものところ、雨が意思を持って話し掛けてきたこと自体が異常であるのだが、それは一応解決している。幾筋も降る雨音がいい感じに曲がった傘の内部で反響して声になったのだ。

 改めて反芻してみると無理やりすぎる。当然納得はいかないが、他の理由がない現状では承服するしかない。

 その非現実な理由を踏まえ、先ほどの疑問への回答を推察する。

 まず、水に満たされたこの場所は、僕のいた世界とは別である。背後にあったマンションが無くなっているし、景色も異なっている。そして留意すべきことが一つ。僕は雨によってここに導かれたということ。

 つまり、この世界を支配しているのは『雨』と考えていいのではないだろうか。そして、喋る雨に支配されている世界なのだから、彼の声だけが僕に響いて来ることも十分にあり得るのではないだろうか。

 その推測は現実離れすぎていて、僕は思わず嘆息しそうになって慌てて止める。ここではため息ですら大事な生命線なのだ。

「んで話を戻すが――」と、ネズミの口を借りた雨が喋り出した。

「そもそも生物が生きるために呼吸をしてるってのが勘違いなんだよ。酸素って聞くと生きるために重要なものっていう印象がまずクズだ。ゴミだ、ゴミ。死ねっ、死んじまえ。安易に信じてる低能なやつらは、生物体が呼吸によって得られた酸素によって無理やり動かされていることを知らねんだ。呼吸なんて無駄なもん、しなくてもいいんだよ」

 ――酸素はエネルギーを得るためには重要なものだ。嫌気呼吸を行う生物もいるけど、少なくとも僕たち人間は、呼吸をしないと体も動かせないし、頭も回らない。それでは生活ができないし、正常な生活が送れないのなら、それは死んでるようなものなんじゃ……。

 口のなかでもごもごと舌を動かしてそう言ってみたが、もちろん発したわけじゃないので僕の主張は雨にとどかない。普段から口数は多くない方だが、いざ主張ができないとなるともどかしくて仕方がなかった。

「分かっただろ?」

 僕は首を横に振る。

「まだ分からんのかよー。だ、か、ら、息なんてしなくても別にいいんだよ。呼吸をして無駄に動いて、身体を酷使して寿命を縮めているだけなんだぜ。それじゃあ、死ぬために息をしているようなもんだ」

 ――逆なのか? 僕たちは、生きるために息をしているのではなくて、死ぬために息をしているのか?

「な、理解できてきたか?」

 ――生きるために息を止める。では、水中にいて呼吸ができていない今の僕は生きているのか? それなら、ここに来るまで普通に呼吸をしていた僕は死んでいたのか? いやいや。そもそも呼吸をしないでいると脳に酸素が回らないので生きることができないじゃないか。それでもこの雨は、生きるために息を止めろと言うのか? じゃあ生きることってなんだ? 息をすること? 止めること?

 疑問は止めどなくあふれ、何を信じていいのかだけでなく、自分が今まで何を信じていたのかも頭の中は台風のように混濁する。そして、それを訊き返すことも許されない状況は、悶々とした不快感な瓦礫を積み重ねてくばかりであった。

 説明はされるが質問はできない。まるで耳なし芳一とは逆の状態。受け取ることはできるけど、僕は自分の思っていることを言葉として明瞭な形で伝えることができない。ここでは、身振り手振りのジェスチャーで相手に考えを伝えるしかないのだ。

「理解できたのかどうなんか反応くらいしろってッ!」

 今にも掴み掛かってきそうなくらい語気を荒げた雨。憤激を抑えられず僕の面前まで接近したネズミは、長い鼻の付け根にある小粒の瞳をギョロギョロと動かし、恫喝するように僕を()め回した。

 これ以上引き伸ばしをすると激高した雨が(のみ)のように鋭いネズミの前歯を使って僕の鼻を食い千切ろうとするかもしれないと思い、僕は渋々と首肯した。

「そかそか、そりゃよかった。――んじゃ、早速なんだが、ちょっくら行くとこがあるからついて来い!」

 一転して快活にそう告げて、ネズミは僕の反応も待たずにすいすいと水路を右の方向へと泳いでいった。

 僕はふと、今この瞬間が僕のこれからを仕分ける重大な選択なような気がした。何の疑念も抱かずに右へとネズミを追うことと、このままこの場所にひっそりと留まること、ネズミが向かわなかった左の通路へと一人で向かうこと。異なる三つの選択を与えられた僕は、そのなかの一つしか選ぶことができない。

「おい! チンタラしてっと置いてくぞ!」

 追って来ない僕に気付いた雨が叫ぶ。結局僕は、何時も同じ選択を取ってしまう。手に持っていた傘を捨てて背後の壁を蹴り、通路の先を行くネズミの姿を追って泳ぎ出した。

 軽く下半身を揺するだけで身体が前進した。水泳が不得意な僕ではあるが、まるで空を飛んでいる夢を見ているかのように、ここの水には抵抗なく馴染むことができた。推進を得るために手で水を掻く必要もない。息を継ぐ煩わしさもない。地上を歩くよりも遥かに少ないエネルギーで僕は前に進むことができる。

 理想的な空間だ、と思った。

 余りにも理想的すぎて、ずっとこのまま泳いで泳いで、行く当てはないが壁に直面することもなく、果ての見えない水路を進んで進んで、どこまでもどこまでも、無心に腐心に熱心に、前進することだけに執心していたいと思った。

 しかし、何時だって現実は唐突に、いいや、夢だってそうだ。現状の維持を願っていても、折を見たかのように燦然とした太陽の刃によって甘い夢は寸断されてしまう。

 今、僕の正面にも弱々しく揺らいだ光の柱が立ち塞がっている。その柱が発する光は木洩れ日のように微弱ではあるが、昼寝から現実に目覚めるだけの、現実を直視しなければならないだけの光量を有していた。

 理想的な真水によってもたらされていた愉悦を干上がらせ、期待を裏切られた無念と怒りだけを残して僕の遊泳を停める。

「上が見えるか?」

 光の柱から少し離れた場所で立ち泳ぎをしていたネズミにそう言われ、僕は頭上から降りてくる光の(しるべ)に目線を這わせるようにして水上を見上げる。光の柱は十メートルほど上にある水面から吐き出されていた。

「今からあそこに上がるぞ」

 そう言ってネズミは垂直に泳ぎ出す。僕も遅れまいと深く腰を落とし、バネのように縮み上がった膝の関節に力を蓄えてから一息に屈身を解いた。

 索敵から逃れるため鳴りを潜めて海底を進んでいた潜水艦が数日振りに海上へと浮上する、そのときの気分がきっと今の僕に宿っている。

 長らく身辺を圧していた水圧が緩んでいくとともに、彼方にあった目映さが強大になっていき、恐らくその光に所以(ゆえん)している希望という感情も胸の底から引き上がってくる。自分たちが仄暗い海底に潜んでいたそのときにも、大空はコバルト色の琺瑯(ほうろう)で絶え間なく覆われ、白球の発熱を照り返していたのだ。それを思うと産毛に(まと)わりついていた小さな泡が興奮と一緒くたになって水中に湧き上がり、浮揚を阻む水の抵抗すら心地良い抱擁と化した。

 しばらくして水面に到達し、水上へと顔を上げて久方ぶりの大気に肌を触れさせた僕は、反射的に息を吸おとした。しかし、脳裏に雨の言葉が浮かび上がった。

 生きるために、息を止める。

 矛盾したその主張を信じる信じないというよりは、今まで自分が当然だと思って信じていたものを、疑ってみようという気持ちの方が大きかったんだと思う。僕は慣れ親しんだ酸素を受け入れかけた唇を、真珠を奪われまいとして閉口した貝のようにとっさに噤んだ。

 そんな僕の様子を隣で見ていたネズミが勝ち誇った表情を浮かべていて、それが妙に癪に障って目付きを鋭くする。その眼光に気付いているのかいないのか、ネズミは「よっこらせっ!」と、爺臭い言葉を吐きながら水面から顔をのぞかせた僕の目線と同位置にあるアスファルトの舗道へと上がった。

「どうだ」

 と問われ、僕はネズミが見据える先を辿った。




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