(1)雨のち雨、即ち雨
今日が朝から土砂降りの雨だってこと、ずっと前から分かっていたはずなのに、マンションのエントランスから糸のように引き伸びた水滴が無数に宙を縦断する景色を見ていたら、この右手に持っている安っぽいビニール傘が本当に僕を雨から守ってくれるのかどうか、不安になった。
僕は蛍袋のように開きかけていた傘を閉じて、溝鼠の毛皮を縫い付けられた空模様を仰ぎ見る。落ちてくる不安の点滴は、一の次に十が来るように勢力を増大させて胸の泉に幾つもの波紋を描き出し、水面を滑りながら拡がっていく。そして、他方向から拡がってきた同類と接触することで年輪のように記されていた法則性の軌跡は歪な図形へと転じ、やがて形をなくして有耶無耶になっていった。それはきっと、僕が生きているここでも同じことで、ありとある規則同士が擦り合うと、その焦点は薄ぼやけ曖昧になり、平衡を求める水面へと溶けてしまうのだ。己を守ってくれているはずの法律でさえその例から洩れることなく、異なる方角からやって来た法規によって形態を変じて霞のように宙に散ってしまうのだ。
鼻面にぶつかってきた雨滴の生温さに顔を顰める。傘を軽く握り締めるとその微かな身動きによって鼻翼で留まっていた雨粒が頬へと流れていく。球形の輪郭を帯びた雫が頬の産毛に触れ形を崩してしまうその前に、僕は傘を差さずに雨のなかへと飛び出した。
最初の一歩で重力が増したかのように錯覚した。でもそれは勘違いじゃなくて、一粒では微々たる重さしかない雨粒が幾つも幾つも纏わりつくことで、僕を大地に癒着させ、身動きができないように縛り付けているからだ。
でも、その重圧を不快に思ったのはほんの一瞬だけだった。
髪も肌も制服もカバンも靴も、何もかもずぶ濡れになってしまうと、その状態が平常であるかのような気になって、体表を掠め取るようにして流れていく雨滴は、良好な世渡りのために塗装しておいた体面をすべて洗い流していくようでいっそ清々しくなった。
夏の生暖かい雨を抱えた突風がマンションの三方を囲むレンガ塀を乗り越えて横殴りに吹き付けてくる。レンガ作りの花壇に咲いているアジサイの花弁を薙ぎ払うようにして揺らし、そのついでとばかりに風雨が僕の肩にぶつかって、さっさと行けよと追い立ててくる。
海藻のように頬に張りついた髪の毛とアジサイの花弁を取り払ってから、僕はマンションの正面にある大通りを目指して歩き出す。
橙と茶のモザイク模様の通路を乱打する雨は、大地への一撃を終えると行き場を求めて窪んだ個所へと溜まっていく。一つひとつは微弱だけど、固まれば意思を持ったかのような力強い水の流れとなる。僕は、行き先を阻むように通路を横切る水流をびしょ濡れになってしまった靴で踏み越える。肌の一部のようになったワイシャツは、取り繕うための外面を失った僕にとって心強い一体感を生んで密着している。しかしそれは上着だけの話で、濡れたスラックスは歩く度に腰元からずり落ちてきて、歩き辛いことこの上なかった。
一旦歩みを止め、ベルトをきつく締めてスラックスの裾を膝頭の上までたくし上げる。こうすれば少しは歩きやすくなるだろうと見込んだ対処であったが、それは予想以上に功を奏した。一歩ごとに感じていた下半身の鈍重さがなくなり、シッポの切れたトカゲのように身軽になった。
大通りへと出ると、目がチカチカするほど色彩豊かな傘の群れが行き交っていた。男子学生女子高生OLサラリーマン小学生幼稚園児主婦。どの人々も灰色の空から落ちてくる灰色の雨を自分好みの色をした傘で防いでいる。
ただ一人ずぶ濡れの僕は、マンションと通りの中間地点にあるアーチの傍で立ちすくんで、雨から身を守る通行人たちをしばらく眺めていた。
やがて僕は、無意識のうちに右手に持ったビニール傘の骨を強く握っていたことに気付く。踏み付けられて背骨が折られた雨蛙のような音を出す傘を、僕はもっと力を籠めて骨を握りしめる。傘はさらに大きな悲鳴を上げたけど、握力だけではそれ以上の損壊を望めそうになかった。
だから僕は、片手で持っていた傘を両手で握り直して、大リーガーも絶賛するだろうスイングを以ってして横のアーチへと叩き付ける。あれほど強く握っても折れることのなかった傘は、いとも簡単に拉げていった。
さぁこれで雨から僕を守るものはなくなった。一種の解放感を胸に、L字に曲がったビニール傘をどうしたものかと思い悩んで煙った通りを見回した。
御揃いの黄色い傘を持った親子連れが怪訝な視線を僕に向けていた。重厚な紺色の傘を持ったサラリーマンが僕を一瞥して目を細めて歩き去って行った。憂鬱な顔をした学ランの中学生は僕を見もしない。車道を挟んだ先の歩道にいるヤドクガエルのような色の傘を持った女子高生の集団が僕を指さして笑っている。ストッキングに斑を作ったOLは不服そうに僕の前を行き過ぎ、全速力で走ってきた小学生の長靴によって水溜まりから大量の雨水が撃ち出され、ずぶ濡れの僕に追い打ちをかけるようにして容赦なく襲いかかってきた。
変わらない。枠組みからあぶれてしまったものへの対応は、屋根の下だろうと外だろうと、どこに居ても変わらなかった。
悔しさが滲んで思わず僕は顔を俯ける。前髪から落ちた雫が雨に混ざって足元へと落下していき、地面と混じって存在を失う。このまま全部、混ざって、混じって、雨も傘も僕も、すべて混じってしまえばいいと思った。
『雨はいつだってこの世界を満たしている』
始め、三文小説の科白のようなその言葉は、僕自身が発したものかと思った。
が、いくら濡れて感傷に浸ろうとも、そんな鼻白むようなことを僕が口走るはずがなかった。通行人の誰かが呟いたものだろうか、と思い立って周囲を見回してみたがそれらしき人物はいなかった。
空耳だろう。そう臆断を下した最中。
『それは詩的比喩ではなくて、この世界の特性だ』
今度はハッキリと聞こえた。
それは詩的比喩ではなくて、この世界の特性だ――。
この通り暗唱もできるが、声の在り処がどこにも見付からず、僕は氷柱と背骨が挿げ替えられたかのような肌寒さを背面に感じた。
きっと風邪を引いてしまったんだ。悪化すると困るから今日は家に引き返そう。オイルの切れたブリキのロボットのように身を翻してマンションへと戻ろうと歩きだした――が、その声は止まらなかった。
『空の色は常にぼろ雑巾のような灰色で、そこから絞り出された雨が年中地表へと降下してくる。大地にとどいた雨はアスファルトに弾かれながら家屋と舗道の間にある幅一メートルほどの側溝へと流れていく。その雨の路となっている側溝の深さは十メートルを優に超え、海溝のような谷構造になっている』
え、側溝が何だって?
十メートル?
一体なんのことだ?
疑問は止めどなく出てきたが、僕はそれを呑み込んでマンションのエントランスへと急いだ。結局今日も雨に濡れただけで学校に行けず引き返してきた僕のことを花壇のアジサイはカタカタと笑って迎えていた。
『万が一、足を踏み外してその側溝に落下してしまえば、血の臭いを嗅ぎ取った鮫のように俊敏で獰猛な流れに身体の自由を奪われ、谷底まで引きずり込まれることになる。それは即ち死を意味しており、どれほど危機感を持って生活していても、予期せぬ出来事やふとした拍子に側溝へと落下してしまう人が一月に十人はいる』
一月に十人!
それは大変だ。一年に換算したら百二十人だ。
空耳に応答するなんて、いよいよ熱が出てきたようだ。エントランスに到着した僕は、いよいよ我慢できなくなって素早く背後を振り返る。
そこにはアジサイを打つ雨、と、通りを歩く傘の群れ。
やっぱり幻聴かと安堵した。
『側溝の幅を縮めれば被害者も格段に減ると指摘されているけれど、そうしてしまうと今度は終日降り注ぐ雨の処理が追いつかなくなる。だから住民は路の中央を歩くことを習慣付け、子どもたちにも口が酸っぱくなるほど注意している。それでも落下者数が変動しない事実に、住民の誰しもが疑問を抱いているが口にはしない』
長ったらしい口上が雨音を吸い込むようにして辺りから響いた。
僕は勇気を出して「誰ですか?」と、極力怯えを隠しながら雨が降る景色に向けて訊ねる。
「ちょっと待ってろ。もう少しで終わるから」
水を差されたからか、やや不機嫌な調子返ってきたその声は僕の右手から、L字に折れたビニール傘から聞こえてきた。
『何故、口にしないのか。住民もそこまで愚かではないので薄々は感付いている。あの奈落のような側溝のなかに、何か、が住みついている。その何かが私たちを水底へと引きずり込んでいるのだ、と』
最後の『と』を情感たっぷりに言って結んだL字の傘は、「くっそ。喋りすぎてノドが渇いちまったぜ」と、人間味にあふれた悪態を吐いてから、
「おい、お前。さっき誰ですかって俺に訊いたよな?」
「あ、あ――はい。訊きました!」
僕はまるで教師に対応するときみたいに声を張って答えた。
「なら答えてやるよ。俺はな、『雨』だ」
「アメ――ですか?」
「そうだ、雨だ」
雨は偉そうにそう言った。
「えっと、あの……、どうして雨が言葉を話せているんでしょう?」
ありとあらゆる疑問疑念を通り越してそう訊ねた僕は、よほど混乱していたのだろう。それともやはり風邪を引いていて、その熱で意識が朦朧としていたのかもしれない。
「お前、さっき傘を折ったろ。その折れた角度がこれまた絶妙でよ、降ってきた雨粒の一音一音がその内部で上手い具合に反響して俺の声になってるわけだこりゃ」
「あの、よく意味が――」
「分からんってか。ったく、最近のお前らはみんなこうだ。詳しく説明してやらんと何も理解できない」
まるで太古の昔から人間のことを知ったふうな口を利くなぁと思ったけど、今僕の面前に注いでいる幾億もの雨筋は、たしかに人が生まれるずっと以前から空と大地を繋いでいるんだと思えば、この胴に入た口ぶりはあながち形だけというわけでもないんだろう。
どうやら僕は、どこからともなく聞こえてくる声の主は『雨』である、という夢にしても失笑を買いそうな現状を頓狂ながらも承服しつつあるようだった。
「そうです」
だから僕は雨に返答する。たとえそれが、傍から見たら雨に向かって独り言を呟いているようにしか見えなくても、僕は誰かと言葉を交わしていたかった。僕は誰かと繋がっていたかった。
「僕たちは、詳しく説明してもらわないと何も理解できないんです」
「んだぁ、いきなり居直りやがって。ちったぁ考える素振りくらいみせんかい、このボンクラがっ!」
荒々しい口振りと呼応するようにして雨脚が勢いを増し、路面を叩く雨音は早口のように激しくなった。
「しょうがねえから教えてやる。耳の穴をよぉく掻っ穿て聞いておけよ――。折れた傘がアンテナみたいな効果を生んだって思えばいいんじゃねっ!」
傾聴を促しておきながら説明する気をさらさら感じない無責任なその態度に、「それはちょっと……」と口を挟む。
「無理があるってか」
雨は吐き捨てるようにして返した。というか、本当に口から吐き捨てたのか、べとべとした雨粒がエントランスのルーフを越えて僕の頬に飛んできた。
「ったく、最近のお前らはみんなそうだ。少しでも非現実的なことが起こると『ありえない』の一点張りだ。頭が固いったりゃありゃしない。その癖あれだろ、お前らはファンタジーやSFとか非現実な創作が大好きなんだろ? あ? そうなんだろ? 好きなのに認めない。そいつぁちっと腑に落ちねぇな」
頬に付着したべとべとの雨を拭う僕の頭のなかでは、遥か遠くの地平線へとめり込むようにして広がった草原や、剣山のような古城、その外壁を伝う蛇のような蔦の場景が紙芝居のように奔り、雨に慣らされた耳目には、剣と剣がぶつかり合う金属音、そこから散った火花の燃焼音、黒曜石の矢じりを先端に付けた弓矢が宙を飛び交う音色が駆け巡り、今度は人語を介するロボットや、空き缶一つで時空を飛べる装置、人の考えがのぞける双眼鏡といった摩訶不思議な道具が平然と売り買いされている白銀の摩天楼が密集する都市が現れていた。
それは幼い日のノートに散りばめられた、どうしようもなく無法でどうしようもなく溌溂とした、固まりかけの粘土のように脆く変容しやすい塊の残骸だった。
とうの昔に机の奥底に埋蔵したその紙片の存在を思い出すだけでも赤面必死ではあるけど、そんな景色が僕たちは子どもの頃から大好きで、それはきっと今も法律のように揺るぎなく心の底に厚く塗布されている。
「僕はそんなに好きじゃないですよ」
思いとは裏腹に僕の舌は混入してきた異物を押し返すようにして動き出した。
「ファンタジーなんて子どもが読むものだし、SFだってそうです。科学的な事実を言葉巧みに扱っているだけで、あれもファンタジーと変わらない非現実な創作物です」
「へぇ、随分と『大人』だねぇ」
小馬鹿にするような調子の雨に何か言い返そうとする前に、雨は飄々とした春雨のように雨音を繋いでいく。
「じゃあお前さ。今この状況はどう認識してるわけよ? 俺が言うのもなんかあれだけど、この状況は異常だぜ? 傘が折れ曲がっただけで雨が人語を話すわけねえじゃん」
「僕の……」
数々の言葉が頭を過ぎった。
そのどれを摘み取ろうか逡巡している間もなく、僕は言う。
「妄想じゃないですか」
その苦しげな言い訳めいた僕の返答を、雨は「ふーん」とまるで木葉の脈を流落するようにあっさりと受け流して、排水溝へと渦を巻くような投げやりな声音で、「寂しいねぇ」と言った。
それが何に対して述べられたものなのか僕は計りかねていた。自分を妄想と一蹴されたことになのか、それとも、簡単に妄想と口にしてしまった僕に対してなのか。もしかしたら世知辛い世相に向けた言葉なのかもしれない。
そのどれでもあるような気がして、僕は、果敢にエサに食らい付く金魚のように上下の唇を閉じて後から続く言葉を封じた。唇によって球状に抉られた大気は初めのうちアレルギー反応のように口内を冷徹に刺激したけど、肺と外気を行き来する空気の流動に巻き込まれていって、いつの間にか跡形もなく消えていた。
本当に痕跡もなく、水煙も残さずに消えてしまっていた。
雨の音だけが景色を満たしている。まるで耳に貝殻を寄せたかのような静けさで、世界から音が消えてしまったんじゃないかって心配になって、傘を握っていない方の手を顔の横まで持っていき耳たぶを軽く擦ってみた。僕の鼓膜を揺さぶったのは皮膚を擦過する音じゃなくて、
「んじゃま、いっちょ行くか!」
夕立のように大気を切り裂く、雨の声だった。
とっさに僕は、「どこへ?」と訊き返すために息を吸いこんだその間隙を射抜くかのように、ただでさえ勢いの強かった雨の一粒一粒がまるで滝のような勢いと破壊力を以って景色を煙らせた。
ルーフの先にある曇天から吐き出される雨が視界を細切れに寸断する。髪の毛を挟む余地のないほど密集して大気を縦割りにする雨粒は、強固な路面にぶつかり爆ぜて霧化して景色を覆い隠す濃霧となる。断続的だった雨の音は先行する仲間の尾を咥えるようにして接続され、それはもう限りなく無音の共鳴になっていた。
耳の端をかすめて背後に飛んでいった水滴。
足先から競り上がってくる冷気。
瀑布と化した雨滴によって白んだ視界はまだ晴れず、募っていく不安から逃げるようにして僕はじりじりと後退する。踵にかかる粘り気のある重圧。マンションの壁面に背中がぶつかる。次第に呼吸がし辛くなり、僕は救いを求めるようにして右手の傘を強く握った。
「生きるために息を止めろ」
僕はその声に倣って鼻を摘んで口を噤む。
視界が晴れる。
音が消える。
気付けば僕は水中にいた。
書き終わってはいるので、これから時間を見付けては投稿していく予定です。