指紋の裏側
「―以上だ。髪と皮膚はDNA検査にまわしたし、指紋は今朝採取したからもうすぐ上がってくるだろう」
腐敗防止用に24時間空調管理されている死体安置室で、村岡を含め5人の男達に対して、ピンッと白衣を着た初老の検死官が説明を終えた。
ここは連邦検察局内にある第2検死解剖室だ。25メートル四方の検死解剖室では、奥の壁に海外ドラマで見る遺体保管庫が縦3列、横10列に並べられている。そのフタを開けて中の台を引っ張り出せば、男女の新鮮な死体とご対面できる。
部屋の中央には、3つある解剖台の一つを検死官を含めた全員が丸く囲み、その台の上に今朝収容されたばかりの一条軍曹の遺体が裸で横たわっている。
胸部と腹部に10円玉程の穴が5つ空き、頭部は右半分が完全に吹き飛ばされ、残った脳が乾いた血で割れたザクロのような姿に変わっている。その遺体の損傷に全員が険しい顔を向ける。その内の一人はまだ新人らしく、目の前で横たわっている一条の遺体と血が混ざった腐敗臭の匂いを嗅いだせいか、顔が真っ青になりはじめた。おそらく死体を見たのは始めてだろう。
その様子に気づいた村岡は彼にそっと耳打ちした。
「おい、絶対に吐くなよ」
「・・・はい、三尉。今更ながら昼飯を食べた事を後悔してきました」
「お前を呼んだのは身元確認の為だ。それが終わるまで吐くんじゃないぞ! 終わればすぐそこのドアの前に便所があるから出してこい。だが今はまだ吐くな。ハンカチでも何でもいいから口に突っ込んで我慢しとけ」
「りょ・・・了解しました。うっぷ・・・」
「おい、我慢しろ!」
喉元まで込み上げてくるモノを、必死に両手で押さえて耐える男の名は『小野安則』と言う。この中の誰よりも細くモヤシ体型の彼は、軍人でも検視官でもない。彼は第三研究所勤務の科学者で、昨晩の事件で一条軍曹が『L-211』を奪取した時に最後に一条と接触を持った人物である。
極秘任務である事から、おおっぴらに軍属関係者から情報収集が行えずにいた村岡にとって、小野のような科学者は実にありがたり存在だ。だが、本人にしてみれば迷惑以外の何もでもなかった。
確認のため村岡が小野の襟首を掴み上げ、顔を遺体の前まで持ってこさせた。
「おい、早く顔を確認しろ。ただし、遺体にぶちまけたらお前の頭を便器に突っ込んで、糞と一緒に流してやるからな」
更に濃密な腐敗臭が彼の鼻腔を刺激すると、胃酸が食道を上り始める。
「ぐぅ、うぅぶぶぅ。まっ・・・間違いありません。彼です。うっぷ、うぅ・・・」
小野の顔がチアノーゼを起こしたように真っ青になり、涙目を浮かべている。普段死体よりも試験管を振っているのが日常な彼にとって、間近で見るリアルな射殺体は一種の拷問だ。
「よし、じゃあ他に何か気になった所はないか? どんな事でもいいから言ってみろ」
平然と追求してくる村岡と違い、小野はもう言葉を発する事ができず、顔を横に振ってみせるだけで精一杯だった。
「ちっ、ならもういい。早く帰れ!」
「・・・しっ、失礼します」
やっと解放された小野は、いくつかの解剖器具にぶつかりながら足早に部屋を後にした。全員がその姿を目で追い、行き着く先はトイレの便器で間違いなく、未消化の昼食をリバースするだろと思った。
小野が出て行ったあとで、初老の検死官がため息を漏らした。
「しばらくは、トラウマになるだろうな。三尉、あまり学者をいびるのは止めていただきたい。研修生の間で変な噂になったら困るんだ。ただでさえ最近は監察医の研修希望者が減ってきてるんだからな」
この第2検死解剖室は去年増設されたばかりで、他にも第3、第4検死解剖室も今年中に開設予定になっている。理由はたった一つ、バウンティーハンター法のせいで、監察医の扱う検死体があまりにも多くなりすぎたからだ。扱う死体が多くなれば必然的にそれを保管しておく保管室も必要になる。しかし、弊害もおきる。検死体の数とそれを観る監察医の数に大きな開きが出てしまっている。
一日中死体とにらめっこ、おまけに防腐剤とホルマリン液の匂いが体に染み付く現場は、若い研修医にとってたまらない状況だろう。
その結果、連邦各国に設置されている監察室はいつも閑古鳥が鳴いている状況だ。
「あいつはゆとり教育最後の世代か? 自分だっていつかは死ぬんだぞ。死体のひとつやふたつ、俺は戦時中戦友たちの死体が浮かぶ川の水で炊飯してたぜ、せめて男なら死体のひとつぐらいでビビるな」
村岡の言葉に残りの部下全員がほくそ笑みながら頷く。
「まったく、これだら軍人は・・・いいですか、あんたら軍人は戦争続きで人殺しに慣れて正常な感覚がマヒしてるのに、いい加減気づいたらどうかね」
「何が言いたいんだ、博士」
「戦争は科学者の倫理観までも平気で狂わせるって事だよ、三尉。私は軍に協力し、平然と捕虜を生体解剖しながら殺していく同僚を何人も見てきた。だから本来科学者は死体に臆病なくらいがちょうどいいんだ」
「・・・ふんっ! まるで軍人だけが悪いみたいな言い方だが、事実は事実だ致し方ない。軍人は戦争で戦う事が仕事だからな。今更人殺しを正当化する気はない。ただ、あの戦争があったおかげで博士達の研究が飛躍的に進歩したのも事実なんだぞ、戦前まで医療倫理や道徳感で禁止されていた様々な研究が、国家非常事態を理由に解禁を迫ったのは博士達なんだからな」
「だが、あんな戦争はもう懲り懲りだ・・・」
博士はバツが悪い感じに目をそらすと、ゆっくりメガネを押し上げる。
「同感だよ博士。ここで戦争論の押し問答を繰り返しても意味がない。それで、一条軍曹の検死報告書はいつ上がってくるんだ?」
「一通りの検視はすんだからな、あとは検察に連絡してお決まりの手順で進めば、今週までには出来あるだろう」
「結構だ」
「だた・・・」
一瞬、チラリと村岡に目を向ける。
「ただ、一つ気になる事がある」
「何だ?」
「三尉。この男は本当に軍人なのか? いや、と言うようりもちゃんと定期検査を受けていたのか?」
「どう言う意味だ?」
博士が横の棚から透明なビニール袋に入った薬品袋を見せてきた。中の白い薬品袋は点々と赤黒なった血で覆われている。間違いなく一条軍曹の保持品だろう。
「それがなんだ。ただの薬だろ、何がおかしいんだ?」
「中身を確認したが、入っていたのは鎮静薬のクロルプロマジン、抗幻覚薬のハロペリドール、抗不安薬のデパスが入っていた。どれも診療所で処方される薬品だが、使用している量が尋常じゃないんだ」
博士の説明に、村岡が訝しげる。
「問題がある程なのか?」
「とくにこの鎮静薬のクロルプロマジンは適量を遥かに超えた1500mgになっている。到底医者が処方したなんて考えられんし、第一に向精神薬を処方される場合は一緒に亜民検査を受けなければならいはずだが、受けた記録がない。それにこの男には軍の半年に一度の定期検査で身心共に正常判定を受けている。明らかにデータの改ざんが考えられるな」
「それは、つまり―」
村岡が言いかけた時、壁に掛けて合う内線電話が勢いよくなりだした。
「失礼」
博士がその場から離れ、内線電話に手を掛けた。
「第二検死解剖室だ。・・・ん、私だ。うん、うん、・・・・・・それで結果は? ・・・うん、わかった。他には―」
どうやら電話の相手は検査室からのようだ。検査の結果が出たのだろう。
博士の応対が終わるの待っていた村岡は、腕を組みながら考えを巡らせはじめた。データ―の改ざん、過剰投了の精神薬に、一条の背後にいた組織の影。何より村岡の頭に引っかかっていたのは、一条の最後の言葉『俺は許された』が何を意味しているのか、考えれば考える程謎が深まる。
せめて亡霊犬が射殺ではなく、生け捕りにしてくれればど今更ながら村岡は後悔した。
「何ぃ! どう言う事だ。そっちはちゃんと調べたんだろう!」
突然、怒号が響いた。村岡は目を向けると博士がさっきまでと違い、こめかみに青スジをたてながら怒鳴っている。
「もういい! わかった!」
勢いよく受話器を戻すと、今度は博士が村岡に詰め寄ってきた。
「おい三尉! 一体どういう事だ!」
「・・・何がだ?」
突然の状況に村岡は困惑した。
「DNA検査の結果、この男のデータ―は登録されていなかった。それどころか、この男は生きてるぞ!」
「はぁ、何言ってんだ?」
博士の言葉に、その場にいた全員の頭に“?”が立った。
「・・・博士、ついにボケたのか?」
「ボケとらんわ! この男の指10本の指紋が一致したが、そいつは連邦刑務所の囚人でまだ生きてるぞ。加えて言うなら、そいつの名前も一条賢治だそうだ」
「なっ、何ぃ!!」
「まあ、もっとも向こうの一条の方はDNAマップが一致して本人で間違いないそうだ」
一瞬の静寂が訪れた後。部屋にいる全員が一斉に、一条軍曹と思われる死体に視線を向けた。
「・・・それじゃ・・・こいつは一体誰なんだ?」
さてさて、随分と謎が深まってきました。今後どうなっていくのでしょうか? って、自分で言ってどうすんの:(;゛゜'ω゜'):
久しぶの村岡三尉登場ですが、次回はまた『たんぽぽ』へ戻ると思います。多分・・・
ここで最後まで拝読して下さったあなたに感謝を述べさせて下さい。本当にありがとうございます。m(__)m