◇夏の日射しと近い海
「暑いなぁ…」
蒼の口から零れた迷惑そうな言葉。けど、それと反して、その顔はとても楽しげだ。
昼食を終えてカフェを出て、帰路の途中。
賑やかな場所から少し離れた人気のない昼下がりの海岸へ少し寄り道することにした。
海は静かでいて、それでいて眩しくて広いなと改めて感じた。
海独特の、潮の匂いと湿り気を帯びた生ぬるい風に包まれて、俺達は白く乾いた柔らかな砂に足をとられそうになりつつも、一歩、また一歩と足を踏み出して、ゆっくりと波打ち際へと向かっていく。
眼前に果てしなく広がる海。太陽の光を水面に乱反射させながら、規則正しく浜辺に寄せては返す波。
身体中を包み込むように響く波音を感じながら少し目を細めて、
「こんな近くに海を感じたのは、本当に久しぶりだよ…」
蒼は感慨深げな笑みを浮かべた。
「海の近くに住んでると、逆に無理して意識して海に触れなくてもいいような気になるからな…」
それは気付いた頃からいつでも変わらずにある、ごく当たり前の景色だからと俺は思ってる。
だけど今日は、そんな当たり前の景色が少しだけ特別な景色に感じる。
それはきっと、俺の隣に蒼がいて、どこか満足げに笑ってるからだろう。
「良かったな…」
心の言葉が声になり、驚くほど素直に俺の喉からこぼれ落ちた。
蒼は海風に吹かれて揺れる前髪を直しながら、俺を見上げて「うんっ」と頷き笑った。
「……」
二人無言で、どちらからともなく繋いだ手。蒼は、ゆっくりとその手を揺らす。
「……」
こういう時、うまく言葉が出なくなるもんなんだなってことを、俺は初めて知った。
色んな言葉が頭に浮かんだけど、きっとどれも声にだしたら陳腐なものばかりだろうな…。
小さく苦笑をした俺に、
「明日のことを考えて、ドキドキすることができるって、楽しいね」
蒼は、瞳を潤ませて
「ありがとう。北村」
俺の胸に顔をそっと寄せた。
同時に、心臓が早鐘のようになり打ち、上昇する体温と同時に息をするのがほんの少し苦しくなった。
「ありがとう…」
震え混じりの涙声を発した蒼の頭をそっと撫でて、
「お礼なんて言わなくていいから…」
今はそう言うだけで精一杯なくらい、信じられないくらい鼓動は速まり、軽いめまいすら感じた。
「北村がもし同じクラスじゃなくって、あの時私に話しかけてくれてなかったら…、私はずっと、ずっと苦しいままだった…」
蒼のつぶやきに黙って耳を傾ける。
「あんなことがあって…きっと私はこれからもずっとあの人の影に怯えながら、ひとりぼっちでいなきゃいけないって…」
「もう…いいから」
俺は、なるべく穏やかな声で蒼の頭をそっと撫でた。
「お前は何も悪くないから…」
胸の中にすっぽりと収まる蒼の細い体を両腕で包み込んだ。
どうか俺の言葉が蒼の心の深部に届いて欲しい。
蒼を苦しめて縛る辛い記憶から、心がほんの少しでも解き放たれればと強く願った。
「北村ぁ…、あつくるし~い~っ!」
蒼はぷはっ! と息継ぎをして俺を押し退ける。
その顔は、尋常じゃないくらい赤くて、こっちまでつられて赤面しそうになった…いや、多分俺もかなりだろうな…。
「ごめん…」
照れ臭くなって苦笑混じりにつぶやいたら、
「クールダウンしなきゃっ!」
蒼はサンダルを脱ぎ捨てて俺の手を引っ張り波打ち際へと歩き出す。
「ちょっ! 待て待て! 俺、スニーカーだって!」
「うるさ~いっ! そんなこと関係ないっ!」
蒼は俺から手を離して、「とりゃっ!」と背中を押す…けど、細くて非力で150センチ程しか小さい身長の彼女が、175センチの俺を動かすなんて無理だろ…。
ほくそ笑み蒼を見たら、凄まじく悔しがり、唸り声まで上げる始末。
「北村のKは、KY(空気読めない)のKだなっ!」
そう捨て台詞を吐いて、波の中に突っ込んでいった。寄せる波が体に当たり、膝下の長さのジーンズが濡れてる。
「冷た~いっ!」
前屈みになり、手を海水につけて、叫び笑う。
「気持ちいいぞ、北村っ!」
俺に入って来いと言いたげな視線を向ける蒼に、
「そりゃ良かった良かった」
愛想笑いで頷きながら、入るのは無理だという空気を出してやった。
「なんだ、北村、金づちなのか」
蒼は挑発めいた言葉を投げて含み笑いを浮かべた。
「泳ぎは得意だ。ただし、靴や服を濡らすのは不得意だ」
鼻を鳴らしてそう返す俺に、蒼は「北村はつまんない男だな…」とため息をついた。
むっ…、つまらん男だと…?
「ねえ、北村ぁっ!」
蒼は叫ぶ。
「私っ、明日から、自分の自転車で店に行くよ!」
蒼は、そう言って小さく笑顔を見せた。その小さな笑顔は、自信の色さえ伺えるものだった。
「…そうか…」
つぶやいたら、なんか無性に海の中にいる蒼のもとへと走り出したい気分になった。
「遅刻すんなよ!」
俺は叫びながら、波の中で笑う蒼へ向かって走った。




