◇雨音
蒼と一緒に過ごす事になってから、家族ってなんだろうなと考えるようになった。
うちの両親はごく平凡な人達で、父はサラリーマン。母は弁当のチェーン店でパートとして働いてる。
どちらとも結構暢気な性格で、いい意味での放任主義だなと思ったりする。
姉が洋二さんと一緒に暮らす事を告げても、大した動揺もなく、
「洋二君に我が儘ばかり言っちゃだめよ」
とか、
「お店はお店。自宅に戻ったらちゃんと家の事も頑張りなさい」
とか。
「洋二君とたまにはこっちで夕飯がてら一緒に飲みたいな」
とか。
洋二さんがうちの親に信頼されてるってのもあるけど、一人娘が家を出るにしては結構あっさりしてるなと思ったり。
母に寂しくないのか? 心配じゃないのか? と尋ねてみたら、
「そりゃちょっとは寂しいわよ。心配もしてる。でも、洋二君はとてもいい子だし、なにより葉月の幸せそうな顔を見ると、この子はきっと大丈夫だって思えるの。自分の娘だもん。何か困ったら絶対に相談してくるのはわかってるしね」
そう自信満々に笑って言い切ったのを思い出した。
父もまた、同じ様な感じで、
「葉月みたいなじゃじゃ馬を貰ってくれるのは、洋二君しかいないからな…」
…姉が知ったら怒るぞ。と苦笑したっけ…。
小さい頃は、なんとなく両親が苦手だった。
いつだってどうせ俺より姉のほうが可愛いんだろって、やっかみの気持ちがあったからだ。
毎日元気でよくしゃべり、よく笑う姉。対して人見知りして口数が少なく愛想無しの俺。
かけられる愛情は、人懐っこい姉のほうが俺なんかより断然多いだろうと思ってた。
そんな姉は、実は「パパもママも私より充月のほうが絶対可愛いんだ」と思ってたらしい。
「私のほうがよく怒られる。不公平だ」なんて事も時々思ってたらしい。
だけど5歳という歳の差を考えたら「弟はまだ小さいから」と思うようになっていったって。
そりゃそうだ。俺が小学校の低学年の頃には、姉は中学生だったんだから。
その成長の差は果てしなくデカいわけで。
分け隔てなく注がれてる両親の愛情に気付いたのは、決定的な何かがあったわけじゃない。
時間が経つにつれ、成長するにつれそう理解できたと言う感じだ。
両親がいることって、俺には意識することなく呼吸してるのと同じくらい普通に当たり前で。
その中で毎日顔を合わせて交わす些細な会話だったり、向けられる笑顔だったりが積み重なってできた、目に見えない信頼を自然と感じられる生活環境を両親が与えてくれてるんだよなって、そう感じたんだ。
蒼の家は、俺ん家なんかと比べ物にならないくらい裕福だ。
でも、裕福なのは目に見える物だけ。
住んでる家がデカイとか、生活する金に全く困らないとか。
だけど、正直家族には恵まれてないと思った。
蒼の両親は自分達の娘が辛い思いをしたのに、助ける事も身を呈して守ってやる事もせずに、「家の名前に泥を塗った恥さらし」だと蒼を責めた。
どれだけ真実を述べても、そんな事はどうでもいいと全く聞く耳を持って貰えなかったって…。
傷ついたのは、お前じゃない。新藤の家の名前なんだって。
自分の娘よりも自分達の世間体のほうがずっと大事だって、正直俺には意味が全く分からない。
小浦の自殺、裏サイトの書き込みと公表されてしまった蒼の実名と写真。
事情聴取の為に警察署へと足を運ぶ事となった未成年者の蒼に対して、蒼の両親は付き添いを拒否。
お手伝いさんが付き添ったんだとか…。
「…酷い…、それでも親なの…?」
俺の話を聞いて姉はテーブルに乗せてた両手をぎゅっと堅く握り締めた。
「新藤って…この辺りでは昔から多い苗字だけど、確か住宅街界隈全ての土地をもってる大きな地主さんがいて、市の中心辺りで不動産業をしてるって聞いた事があるけど。それって蒼ちゃんのご家族だったんだね…」
洋二さんの質問に俺は「はい…」とひとつ頷いた。
「たかが田舎の地主程度で、何をそこまで見栄張る必要があるのか私にはわからないよ! 自分の子供より世間体が大事だなんて信じられない!」
姉は憤慨して叫んだ。
「…世間体だけで、そこまでわが子を拒絶するものなんだろうか…」
洋二さんは少し考え込むような顔で呟いた。
「事件が起こる前は、蒼ちゃんとご両親は普通に家族としてコミュニケーションできてたのかな?」
洋二さんからの質問に、
「はい。小浦のことが起こる前は、家族みんな仲が良かったって蒼は言ってました」
そう答えると、
「…それって本当に仲が良かったんだろうか…。憶測でこんな事を言うのもなんだけど、蒼ちゃんはいつだってご両親に何でも、どんな事些細なことでも相談できる状態だったのかなって思うんだ。教師に付き纏われていたことだって、本当なら自分がぎりぎりまで追い詰められる前に親に話事もできたはずなのに、彼女はそれができなかったわけだよね? それがなんだかちょっと引っかかるな…」
「それは、多分親に心配かけたくなかったからだと思います」
そう返答すると、
「もし葉月が同じ立場だったら、どうする?」
洋二さんは姉に問いかけた。すると、
「私なら、怖いから間違いなくママに相談する。だって、やっぱり女だもん。大人の男の人に付き纏われるって、絶対身の危険を感じちゃうでしょ…?」
姉は口元に緩く結んだ左手を宛がい、洋二さんを見つめた。
「うん。それが当たり前だと思う。でも蒼ちゃんは、そんな当たり前のことができなかった。勿論心配をかけたくないって言う気持ちは分からなくも無いよ。でも、16歳の女の子が両親に対してそこまで我慢強くならなければいけないって事が僕にはちょっとわからないんだ」
洋二さんは、真面目な顔で俺を見て、言葉を待ってる。
まるで、ここまできたら隠し事は無しだよって言われてる気分になった。
勿論俺も何かを隠して話をしようだなんて思ってない事を含めてひとつうなずいて、
「実は蒼にも、歳の離れた姉がいるんです…」
蒼が一番に心を痛めてることを打ち明けた。
蒼には俺と同じように歳が離れた姉がいる。名前は確か結だ。
結さんは、27歳。一昨年の春に良縁に恵まれて将来を約束した相手がいたそうだ。
その相手の家はここからずっと南にある大型観光地のホテル経営をしていて、尚且つ曽祖父や親戚が結構有名な政治家だったらしく、かなり格式の高い家柄らしい。
相手はその家の次男。外見、内面共に素晴らしい人で、志がとても高く、将来は曽祖父のような政治家になるのが夢で、議員秘書をして政治の勉強をしてたんたどか。
結さんはとても幸せそうだったらしい。
去年の春に結婚が決まり、結納を交わして、式の日取りを決めて、ドレスを選び作って…。
でも、小浦の事件があって、結婚が破談になってしまったんだって。
格式の高い家に嫁ぐ人間の身内が起こした、まるでスキャンダルのような事件。
しかも人が死んでしまったという重い罪のような枷を、品格を重んじる相手の両親が受け入れるはずがないと蒼は言ってた。
『死ぬまで許さない!』
いくら辛くても、罪なく傷ついて疲弊しきった妹に向けた姉の言葉の刃は余りにも残酷だったと思う。
その後すぐに、結さんは家を出てしまった。
今は親の所有するマンションで暮らしてるみたいだ。
その後、蒼の両親は結さんの破談から夫婦関係に亀裂が入り、互いが所有するマンションで別居。
蒼は、あの家に独りで暮らしていく事になった。
いつか姉や両親が帰ってくるかも知れないと、蒼は今でもどこかで願ってる。
だから誰に何を言われようが、孤独だろうが、自分の身の潔白を晴らすかのように学校だけは辞めずに
通ってるんだって。
心に追ってしまった傷。
小浦が死んでしまった事で起きた180度変わってしまった孤独な生活は、蒼にとって大きすぎる爪痕を残した。
小浦に近い歳の大人の男が恐くなり、手が震えてパニックになる。
酷い時は、過呼吸を起こす事だって何度となくあった。
だけど、蒼は学校も、生きる事も辞めなかった。
『死ぬつもりがあるなら、もうとっくにあの世に逝ってる…』
初めて言葉を交わした時、抑揚はないけど蒼ははっきりとそう俺に言った。
『学校を辞めたらもう、私には何も残らない。辞めずに残ったから、こうして北村と知り合って話す事だって出来てる。毎日苦しかったけど、辞めなくて良かった』
夏休み前、曇り空の歩道橋の上。
まるで糸みたいに静かに降りだした雨の中、蒼は泣きながら俺に小さな笑顔を向けた。
そうだ。
あの時、俺は、
「一緒に頑張ろう!」
って、蒼と約束したんだ…。
それなのに…。
一部始終話したら、自分の不甲斐なさで喉の奥が詰まる感じがした。
視界が霞んで。
でも、そんな自分を見られたくなくて、俺は顔を下に向けた。
その時、
「よく頑張ってる」
まるで、降り注ぐかのように洋二さんの声が聞こえた。
「君も蒼ちゃんも、本当によく頑張ってる。まだたった10日程の付き合いの中だけど、僕は君達がどれだけ一生懸命頑張ってるか、足りないながらも見てきた」
再度穏やかな声が耳に届いたら、抑えてた感情の糸が切れたようにテーブルに涙が落ちた。
「話してくれて、本当にありがとう。僕らを信じてくれて、本当にありがとう」
洋二さんの声が少し震えるように掠れた。
少しでも伝わった。苦しいけど、嬉しい。
そう思ったらますます堪えきれなくなった。
「誰にも言えなくて、辛かったね…」
姉は、俺を抱きしめて「辛い事なのにちゃんと私達に話してくれてありがとう」って…。
そんな姉の声も、どうしようもなく震えてて…。
恥ずかしいし、ほんと情けない。
だけど、姉の腕を振りほどく事は出来なかった。
悔しいけど、姉の腕の中は暖かくて居心地が良かったから。
「大丈夫、きっと上手くいく。きっと蒼ちゃんが元気に笑える日が来るから。私達も一緒にがんばるから!」
姉は懸命に明るい声で泣きながら俺にそう言った。
「ありがとう」って言いたいのに、声が上手く出ない。だから何度も頷いた。
姉も、俺に応えるように言葉なく何度も頷いた。
沈黙の数秒。
台所の奥から耳を撫でるように、サラサラと雨音が聞こえた。




