◇糸を解く
「どうしたら蒼を救ってやれるのかわからなくなりました…」
呟いたら、思わずグラスを強く握り締めてた。
「どれだけ言葉を重ねても…、重ねれば重ねる程、あいつが遠ざかってくように感じて…」
目線の先、透き通ったこげ茶色。水滴をまとったグラスの中の麦茶をぼんやりと見てたら、
『ひとりぼっちなんだよ…』
蒼の声が頭に響いた。
結局俺はなんの助けにもなってなかったんだな…。
今まで蒼にしてきた事は、きっと全部俺のひとりよがりで、無駄な押し付けだったんだ…。
気持ちがどんどん重く沈んでいくのを感じて、顔をあげることができなくて。
「やっぱり、君達姉弟ってよく似てるよね」
対面に座る洋二さんの声はとても穏やかだけど、どこか楽しそうに感じて、思わず顔を上げると、
「さっき葉月も似たようなこと言ってたんだよ。蒼ちゃんがどんどん離れていく感じがするってね」
そこにあったのは、いつものやれやれ…と言いたげな苦笑いだった。
「え…?」
「蒼ちゃんの事を守ってあげたいと思ってても全然うまくいかないって…ね。自分がしている事が全て裏目にでてるんじじゃないかって、ああ見えても葉月は結構悩んでるんだよ」
台所からは、まな板の鳴る音と姉の暢気な鼻歌交じりの出鱈目な英語詩っぽい歌声。
なんだよ、そのへんな歌…。全然悩んでるようにはみえないし。なんかちょっと気が抜ける感じがした。
「そんなふうには見えませんけど…」
思わず漏れる本音に洋二さんは、
「葉月はさ、自分がへこんでる姿をあまり人に見せたくないタイプの人でしょ?」
「あ…」
洋二さんの言葉で再度思い出した。
姉は昔からいつも楽しそうに笑ってるけど、実は陰ではすごく悩む人だってことを。
姉は心から気の許せる人にしか弱い自分を見せないってことを。
そうか…。洋二さんは、そんな姉をちゃんと知っててみてくれてるんだ。でも、
「洋二さんは、厨房にいる蒼に姉がちょっとだけジェラシー感じてる事に気づいてますか?」
意地の悪い質問かもしれないけど、聞かずにはいられなかった。
「…勿論気づいてるよ」
小さく苦笑いして、
「時々充月君も渋い顔して厨房を見てる事も、ね」
そう言って麦茶を飲んだ。
…ばれてたんだ。そう思ったら、気恥ずかしさで視線がテーブルに下がった。
「申し訳なかったね。もっと敏感に配慮するべきだった。僕が蒼ちゃんと厨房にいて、どんな話をしてるか、もっときちんと伝えるべきだったね…」
洋二さんは苦笑いのような、照れ笑いのような、複雑な笑みを浮かべて、
「僕が蒼ちゃんと話すことって、葉月のことと仕事の話ばかりなんだよ。残念なことに僕は客商売してる割には人と話すことがあまり得意ではないんだよ。それこそ舞花ちゃんに洋二は料理以外は全然ダメダメな男ってお説教されるくらいにね…」
舞花の名前を聞いたら、条件反射のように苦笑いを浮かべてしまった俺に、
「ほんとに今日は色々と申し訳なかった。はじめくんの事もね、僕がもっとちゃんとすべきだと思った」
「いや…あの…」
正直なんて返答していいか困ってしまった。
あれは洋二さんのせいじゃないと思う。だって、元々変な事言い出したのははじめさんだし。
「あれは、はじめくんが悪いのよ。はじめくんがわけわかんないこと話すから」
姉は素麺が盛られたガラスの皿とめんつゆの入ったガラス鉢や薬味をトレーで運びながら「全く…」とひとつ鼻を鳴らした。
「俺もそう思う…洋二さんは全然悪くないと思います」
俺の言葉に洋二さんは苦笑いして首を横に振り、立ち上がり、「よし、続きはごはんの後でね」と、姉からトレーを受け取ると、夕飯をテーブルに並べていく。
青磁の小鉢には牛蒡と鶏肉のきんぴら。それから茄子やピーマン、大葉等の夏野菜を主とした天ぷらが織部調の角皿に彩りよく盛り付けられてる。
しかし…これを全て、あの焦げ焦げで黄身の潰れた目玉焼きと味のない不味い焼きそばばかりを量産してた鈍くさい姉が作ったのかと思うと、なんだか洋二さんに深く感謝したくなった。
だって、もし洋二さんと付き合ってなくて、一緒に暮らしてなかったら、姉はきっと今もかなり残念な人のままだっただろうし。
「ちょっと…なによ。そのじと目は…」
姉は俺の表情を見て口を尖らせて睨んできた。
「いや、すげーなと。人ってのは変わるもんだよな…と。マジうまそうな晩飯でびっくりした」
思わず苦笑いしてしまったら、
「ふふん♪ これが愛の力ってやつよ♪」
そう言って誇らしげに笑みを浮かべる姉を見て、
「はいはい」
愛とか…聞いてるこっちが赤面しそうな言葉を臆することなく口にする姉に脱力してため息がでた。
洋二さんは、気恥ずかしそうに、でも嬉しそうに小さく笑みをこぼした。
(全くとんだバカップルだな…)と思ったけど、順調そうなふたりを見てやっぱり心の中で安堵する自分もいたり。
それから、他愛ない会話をしながら夕飯を食べて洗い物を片付けるのを手伝ったりして。
煮詰まってた気持ちが少し解れてきた頃合いに三人でコーヒーを飲みながら、さっき中断した話の続きにもどった。
洋二さんは、とても穏やかな空気と口調で、
「僕はね、はじめくんが間違ったことは何も言ってないと思ってるよ」
俺に視線を向けて一言そう言った。そんな洋二さんの言葉に驚きを隠せなかった。
だって、帰り道の蒼と全く同じ事言ったから。
「…帰り道で蒼も洋二さんと同じ事言ってました。正直俺にはその言葉の意味がわかりません」
「私にも全く意味がわからないわ」
洋二さんの隣に座る姉は、少しムッとした顔でつぶやいた。
「今日のはじめ君の会話の内容を思い出してごらん。正直彼は自分のことしか話してなかったと思うけどな」
洋二さんの言葉を聞いて、ティータイムを振り返る。
『ここから出たらあらゆる労働と対峙しなきゃいけない現実が待ってるって言う葛藤もある』
落ち着いて考えてみると確かに…。
『時々描くことが嫌になるよ。好きでやってんのになんで描いてるのかわかんなくなる事もある』
これだって、誰かを指し示すわけでもない、はじめさん本人が思う自分のことだ。
『なんでだろうな?』
明確にあらわす事ができない気持ちの綻びみたいなはじめさんの言葉に、
『その先になりたい自分がいるって…思ってるから…』
自分なりの言葉をぽつりとはじめさんこぼしたのは蒼だ。
『キミは? そうなの?』
なにか明確なものを引っ張りだそうと言った言葉かどうかはわからないけど、思い返してみると、はじめさんはいつだって蒼に対して何かを追求するような、核心にふれるような事は口にしてない事に気づいた。
突っ込んだ話なんて、全然してないじゃんか…。
「ほんとだ…。はじめさんは自分以外のことなんて話してない。どっちかっていうと、はじめさんの話を自分のことのように受けてたのは…」
俺は洋二さんを見て答えを伺った。
「うん。蒼ちゃんのほうだった。蒼ちゃんはきっと、はじめくんがこぼした、はじめくん本人の気持ちを自分の気持ちなり考えに変換して、自分の中の何かを伝えたかったんだと思う」
洋二さんは姉に視線を向けて、
「蒼ちゃん、葉月に話を遮られてちょっと悔しそうな顔してたよ」
苦笑いでそう言った。
「…そんな顔してたなんて、気付かなかった…」
「うん。あの状況では気付くことは無理だと思う。だから、僕の配慮不足だ。元はといえば葉月がはじめくんに持ってる、誰かを傷つけるかもという疑心と不安を募らせて余裕が持てなくなったのは、僕が言葉足らずで頼りなかったからだ」
洋二さんは、申し訳なかった、と姉に小さく頭を下げた。
「違うよ…」
姉はやんわりと首を横に振って、
「私が過剰反応して過保護になりすぎてたんだよ…」
落胆を隠せない声で呟いた。
「姉ちゃんだけのせいじゃないから」
帰り道、怒った蒼が叫んだ言葉を思い出した。
「なんでいっつも頑張ってる気持ちにブレーキをかけるのかって…蒼に言われた」
俺、バカだな…。
「なんで、自分と向き合おうとすると遮るのかって言われた…。そうしようと頑張ってる姿に俺は全然気付けなかった…それなのに…蒼に自分の感情ばっかを押し付けて怒鳴った」
ほんと、バカだ…。
「蒼は姉ちゃんが苦手だって言った。自分が厨房にいる事が良くないって感じてる。心配してるのは蒼のことじゃなくて、弟の俺の事なんだって…。さっき洋二さんが教えてくれたけど、蒼は厨房から俺や姉ちゃんの事凄く良く見てるんだよ…。厨房で仲いい二人に変なジェラシー感じてる事、蒼は気付いてた。だから苦手だなんて気持ちになってしまったんだ」
「…ごめん…。それは絶対私のせいだよ…。厨房でふたりがどんな事話してるかなんて、毎日洋二から包み隠さずに聞いてるのに、につまんない嫉妬ばかりして大人気ない顔みせてるのは私で。それに…やっぱり私は充月のお姉ちゃんだもん。心配の比重は蒼ちゃんと平等にとはいかないから…それが態度とかに出ちゃってたんだね…」
「姉ちゃん…」
「でもね、私はほんとに蒼ちゃんの事心配してるから。もっともっと仲良くなりたいし、もっとあの子の笑顔が見れたらって心から思ってる。それだけは疑わないで信じて欲しいな…」
姉は今にも泣き出しそうな顔で小さく微笑んだ。
「わかってるから。姉ちゃんは俺たちの事一生懸命支えようとしてくれてるって事。勿論洋二さんだって。それから、きっと蒼だってわかってる。じゃなきゃ、毎日楽しそうに自転車こいで店に来ないから」
それは間違いなくほんとだから。
「蒼は、自分がいる事で誰かの迷惑になるのが嫌だって言いました。そんな蒼に俺は、過剰な気遣いはやめろだとか、思ってる事はちゃんと言葉にしろとか、お前が悪いんだって言ってるみたいな言葉を押し付けてしまったんです」
冷静になって考えてみたら、無駄に過剰な気遣いを背負わせてるのは俺で。
ちゃんと言葉を聞こうとしなかったのも、表情を察して言葉を伝えられなかったのも俺で。
「救ってやりたいなんて、いつの間にかそんな大それた偉そうなこと考えて」
俺の言葉に洋二さんは、
「救ってやりたいではなく、一緒に笑顔で進みたいんだよね?」
真面目な顔で俺にそう問いかけた。
「はい。俺が望むのは、まずは蒼と一緒に笑って夏を少しずつ取り戻す事なんです」
「夏を取り戻す…?」
姉はそれがどういう意味かわからないという顔をむけた。
「今まで蒼のこと何も話せなくてほんとにすいませんでした。でもこれ以上黙ってたら、きっと不安だとか、心配だとか、見えない掛け違えみたいなのが増えるばかりだと思うから、二人にちゃんと話します」 俺は、蒼の身に起きた去年の夏の出来事を二人に打ち明けた。




